藤原有貞とは? わかりやすく解説

藤原有貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/02 02:03 UTC 版)

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藤原有貞
時代 平安時代初期-中期
生誕 天長4年(827年
死没 貞観15年3月26日873年4月26日
官位 従四位下近江権守
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 藤原南家巨勢麻呂流
父母 父:藤原三守、母:飯高弟光の娘
兄弟 有統、仲統、有方、有貞、貞子、小野篁
紀名虎の娘、安峯氏、藤原富士丸の娘
忠行、忠門、経邦、清邦、忠相、長福、藤原有実
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藤原 有貞(ふじわら の ありさだ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族藤原南家右大臣藤原三守の七男。官位従四位下近江権守

経歴

姉の貞子が仁明天皇女御であったことから幼少時から天皇に近侍し、その寵幸を蒙った[1]承和11年(844年)若くして従五位下叙爵し、丹波介に任ぜられ遙任で務めるが、翌承和12年(845年)仁明天皇の更衣・三国町との密通を疑われ常陸権介左遷された。

文徳朝に入ると、散位を経て仁寿2年(852年縫殿頭と再び京官に復帰し、のち斉衡3年(856年右兵衛佐、斉衡4年(857年)左兵衛佐、天安2年(858年)従五位上・右近衛少将に叙任されるなど武官を歴任する。

清和朝でも引き続き右近衛少将を務める一方、伊勢権介阿波権介因幡守讃岐権介と地方官も兼務した。また、この間の貞観6年(864年正五位下に昇叙されている。貞観8年(866年従四位下備中守に叙任されて地方官に転じ、貞観10年(868年近江権守に遷っている。

貞観15年(873年)3月26日卒去享年47。最終官位は前近江権守従四位下。

人物

権貴の家柄であったがそれを誇ることがなく、意に逆らう人がいても、必ずしもその人を避けたりはしなかったという[1]

官歴

六国史』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ a b 日本三代実録』貞観15年3月26日条

参考文献


藤原有貞(ふじわら の ありさだ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 18:37 UTC 版)

応天の門」の記事における「藤原有貞(ふじわら の ありさだ)」の解説

業平催した藤原派の宴に参加していた貴族藤原南家当主

※この「藤原有貞(ふじわら の ありさだ)」の解説は、「応天の門」の解説の一部です。
「藤原有貞(ふじわら の ありさだ)」を含む「応天の門」の記事については、「応天の門」の概要を参照ください。

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