陵・霊廟とは? わかりやすく解説

陵・霊廟

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持統天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵桧隈大内陵:ひのくまのおおうちみささぎ)に治定されている。天武天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は上円下方八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」。 大化2年出され薄葬令により天皇としては初め火葬された。この陵は古代の天皇陵としては珍しく治定間違いがないとされる天武天皇とともに合葬され、持統天皇遺骨は夫の寄り添うように銀の骨つぼ収められていた。しかし、1235年文暦2年)に盗掘遭った際に骨つぼだけ奪い去られ遺骨近く捨てられたという。 藤原定家の『明月記』に盗掘顛末記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室様子書かれている。『明月記』には「女帝御骨においては、銀の筥を盗むため、路頭棄て奉りと言う塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。ひどい話だ。」とあり、崩御500年後に夫・天武天皇引き離され打ち捨てられ持統天皇悲惨さ物語っている。 上記とは別に奈良県橿原市五条野町にある宮内庁畝傍陵墓参考地(うねびりょうさんこうち)では、持統天皇天武天皇が被葬候補者想定されている。遺跡名は丸山古墳五条野丸山古墳)。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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仁徳天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原中陵もずのみみはらのなかのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある遺跡名「大仙陵古墳大山古墳)」に治定されている(北緯343350東経135度29分14.5秒 / 北緯34.56389度 東経135.487361度 / 34.56389; 135.487361 (百舌鳥耳原中陵仁徳天皇陵)))。宮内庁上の形式前方後円。墳丘525メートル後円部286,33メートル前方部347メートルもあるという調査結果2018年4月12日発表された。墳丘長、体積共に日本一前方後円墳であり、世界的に見て最大級墳墓である。 『古事記』には「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」、『日本書紀』には寿陵であった記され、「(八十七年)冬十月癸未の朔己丑に、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」とある。『延喜式諸陵寮には「百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町南北八町陵戸五烟。」と記されている。陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中からモズ現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけられる(なお、モズ大阪府である)。また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵反正天皇陵南陵履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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明治天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により桃山陵墓地にある伏見桃山陵(ふしみのももやまみささぎ)に治定京都府京都市伏見区桃山町)されている。宮内庁上の形式は上円下方京都畿内)に葬られた、最後天皇である。 皇居では、皇霊殿宮中三殿一つ)において他の歴代天皇皇族と共にその御霊祀られている。 大正9年1920年)、明治神宮造営に伴い御祭神として祀られた。その後関東神宮(在関東州廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル廃社)などの海外神社多く祀られた。戦後北海道神宮(在札幌)にも合祀された。

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陵・霊廟

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醍醐天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区醍醐古道町にある後山科陵(のちのやましなみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘長く醍醐寺管理にあったため、所在確定できる数少ない平安時代の陵の1つである。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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聖武天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市法蓮町にある佐保山南陵さほやまのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式山形遺跡名は「法蓮北畑古墳」。 なお、光明皇后佐保山東陵埋葬されている。また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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舒明天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

舒明天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県桜井市大字忍阪にある押坂内陵(おさかのうちみささぎ北緯3430分27.18秒 東経135度52分32.28秒 / 北緯34.5075500度 東経135.8756333度 / 34.5075500; 135.8756333 (押坂内陵(舒明天皇陵)))に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方遺跡名は「段ノ塚古墳」で、下方部は一辺105メートルを測り、上円部の基礎実際に八角形をなす上八下方とされる埋葬について、『日本書紀』では天皇崩御翌年皇極天皇元年12月13日643年1月8日)に喪を起こし皇極天皇元年12月21日に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られたうえで、皇極天皇2年9月6日643年10月23日)に「押坂陵」に改葬されたとする。『延喜式諸陵寮諸陵式)では現在と同じ「押坂内陵」の名称で記載され大和国城上郡所在で、兆域は東西9町・南北6町で陵戸3烟を付すとしたうえで、遠陵に分類する加えて、陵内には田村皇女糠手姫皇女)押坂墓、陵域内には大伴皇女坂内墓、陵域内東南には鏡女王鏡王女)押坂墓が所在するとする。 その後、陵は所在不明となったが、元禄探陵の際に当時「段ノ塚」と呼ばれていた本古墳舒明天皇陵に決定された。幕末元治元年1864年9月には修陵開始され慶応元年1865年11月竣工した。現在は陵内の糠手姫皇女押坂墓、近在大伴皇女坂内とともに宮内庁管理下にある(鏡女王押坂墓は治定外)。また明治天皇陵(伏見桃山陵以降天皇陵採用する上円下方の陵形は、本古墳モデルになっている。 なお、初葬地とされる滑谷岡」の所在は明らかでなく、諸説がある。飛鳥時代中頃古墳のうちでは、近年発見され小山田古墳奈良県高市郡明日香村川原北緯3428分20.52秒 東経135度48分34.30秒 / 北緯34.4723667度 東経135.8095278度 / 34.4723667; 135.8095278 (小山田古墳舒明天皇葬地滑谷岡か)))が一辺70メートル程度測る巨大方墳で、石舞台古墳上回る飛鳥時代最大級規模になることから、上記の「滑谷岡」に比定する説が挙げられている(ただし蘇我蝦夷の「大陵」に比定する説もある)。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに舒明天皇の霊が祀られている。 鏡王女忍阪大伴皇女坂内

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応神天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は惠我伏崗陵(恵我藻伏岡陵:えがのもふしのおかのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市誉田6丁目にある遺跡名「誉田御廟山古墳」に治定されている。墳丘長約420メートル前方後円墳である。宮内庁上の形式前方後円。 『日本書紀』には陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。『古事記』には「御陵川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」とある。『延喜式諸陵寮には「惠我伏崗山陵」として「兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と見える誉田御廟山古墳大仙陵古墳仁徳天皇陵)に次ぐ(第2位規模5世紀造営ともいわれる大前方後円墳である。ただし考古学絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある2011年宮内庁により考古学者らの立ち入り調査認められた。 上記とは別に大阪府堺市北区百舌鳥本町にある遺跡名「御廟山古墳」が宮内庁により百舌鳥陵墓参考地(もずりょうさんこうち)として治定されており、応神天皇が被葬候補者想定されている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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後堀河天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある觀音寺陵(観音寺陵、かんおんじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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後鳥羽天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造十三重塔また、島根県隠岐郡海士町には隠岐海士町陵(おきあまちょうみささぎ)と通称される火葬塚がある。遺骨大部分は今の火葬塚納められたが、明治6年明治天皇の命により大阪水無瀬神宮合祀された。明治7年、祠殿は取り壊され山陵その後、第82後鳥羽天皇火葬塚として、宮内庁管理されている。 広島県三次市作木町香淀大山にも「天皇山」と呼ばれる山があり、後鳥羽院御陵呼ばれる陵が存在し同じく三次市作木町香淀川毛には後鳥羽院尊儀という角石塔が伝えられている(後鳥羽伝説)。 佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院地区にも隠岐島逃れた後鳥羽院潜幸し、この地で没したとの伝承があり、行宮とした教心寺(昭和20年代現在の善信寺」と改名の裏手には、後鳥羽院山稜伝えられる墳墓後鳥羽上皇山稜」がある。大正元年調査では石裏に「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝と書かれた石棺発見され当時宮内省にも報告された。 皇居では、皇霊殿宮中三殿一つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、大阪府三島郡島本町にあった水無瀬離宮の跡は水無瀬神宮となり、後鳥羽院祭神として祀られている。そのほか宝治元年1247年)に鶴岡八幡宮敷地内建立され今宮は、後鳥羽院主神とし、順徳院土御門院護持僧の長賢を合祀している。

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後陽成天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)にある。

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陽成天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区浄土寺真如町にある神楽岡東陵かぐらがおかのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式八角丘。 また、皇居皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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明正天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿一つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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後白河天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区三十三間堂廻り町にある法住寺陵ほうじゅうじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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孝明天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある後月東山陵(のちのつきのわのひがしやまみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘孝明天皇埋葬にあたっては、文久の修陵事業活躍した山陵奉行戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来仏式葬の石塔から古式改められ歴代天皇墓所泉涌寺裏山に、円墳模した現陵が築かれた。ただし、葬儀そのもの泉涌寺において仏式営まれた。歴代天皇最後に仏式葬儀営まれ天皇となった皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに祀られている。また、平安京最初天皇桓武天皇祀る平安神宮へ、平安京最後天皇として1940年昭和15年皇紀2600年)に合祀された。そのほか愛知県武豊町玉鉾神社祀られている。

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崇徳天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

所在地香川県坂出市青海町御山2677番地 陵(みささぎ)は、宮内庁により香川県坂出市青海町にある白峯陵(しらみねみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。 香川県中央位置する連山五色台西側白峰北側中腹標高260m地点位置し四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺隣接している。かつてアクセスはその白峯寺へ至る遍路道登山道専らであり、このように山中位置していることからも容易でなかったが、戦後になって県道180号鴨川停車場五色台線が整備されたことから自動車でのアクセスが可能となった。 また白峯陵では毎年9月21日に御正宸祭(ごしょうしんさい)の儀が執り行われ、この日に限り奥の柵まで開放され鳥居をくぐり参拝することができる。 崩御地である四国讃岐所在し土御門天皇火葬塚除けば四国唯一の天皇陵である。また、配流先で造営され陵墓のうち、宮内庁天皇陵として治定されたのは白峰陵と兵庫県南あわじ市淳仁天皇淡路陵の2か所のみである。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 京都市東山区祇園町南側崇徳天皇御廟があり、毎月白峯神宮神官による月次祭執り行われている。

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仲哀天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある遺跡名「岡ミサンザイ古墳」に治定されている。墳丘242メートル前方後円墳である。宮内庁上の形式前方後円。 『古事記』には「御陵河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。『延喜式諸陵寮には「兆域東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」と見える岡ミサンザイ古墳は幅50m以上の周濠巡らされているが、中世城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。

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神功皇后」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ北緯3442分22.38秒 東経135度47分7.22秒 / 北緯34.7062167度 東経135.7853389度 / 34.7062167; 135.7853389 (狹城盾列池上陵(神功皇后陵)))に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。遺跡名は「五社神古墳」で、墳丘275メートル前方後円墳である。 神功皇后の陵について、『古事記』では「御陵沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみみささぎ)に在り」、『日本書紀』では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。 承和10年843年)、盾列陵で奇異があり、調査結果神功皇后陵成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵みなされるようになり、神功皇后神話での事績から安産祈願霊験ありとして多くの人が参拝していた。 その後西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵五社神古墳とされ、文久3年1863年)に五社神古墳神功皇后陵治定され、現在に踏襲されている。 2008年宮内庁日本考古学協会などの要請応じ五社神古墳立ち入り調査許可した。これは、考古学者要請応えて古墳調査許可され初めての例となった。ただし調査古墳外周表層だけとされたため、調査ではさしたる成果上がっておらず、宮内庁調査確認円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。この古墳4世紀中から末5世紀初め築造とされていたが、円筒埴輪列によってやや新しく5世紀)なるのではないか推測される

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光明天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町泰長老にある大光明寺陵(だいこうみょうじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘崇光天皇陵・治仁王墓と同兆域である。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。肖像京都市東山区泉涌寺所蔵

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崇光天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町泰長老にある大光明寺陵(だいこうみょうじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘光明天皇陵・治仁王墓と同兆域である。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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平徳子」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵は寂光院隣接地にある(宮内庁管轄大原西陵)。また安德天皇とともに各地水天宮祀られている。また、京都府京都市東山区にある長楽寺にも墓がある。

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ニニギ」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は可愛山陵(えのみささぎ)。宮内庁により鹿児島県薩摩川内市宮内町神亀山に治定されている。 延喜式諸陵寮の項では日向国にあると書かれ、また田邑陵(文徳天皇陵)の近く東西1町、南北1町の地を画して神代三陵を祭るための兆域とするとある。古代日向国現在の宮崎県狭義日向国)と鹿児島県薩摩国大隅国)を含む広域渡っていたので、埋葬伝承地南九州各地にあった明治政府は、明治7年鹿児島県薩摩川内市新田神社可愛山陵であると治定した。他の日向三代の神陵も鹿児島県内治定している。その後宮内省調査により明治29年宮崎県東臼杵郡北川町可愛岳えのだけ山麓古墳を「可愛山陵伝承地」、宮崎県西都市西都原古墳群ある男狭穂塚を「可愛山陵参考地」と定めた

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後光明天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔承応3年1654年9月25日入棺10月15日泉涌寺にて奉葬された。陵は石造九重塔である。この大葬の時、禁中出入していた魚屋奥八兵衛進言によって、従来火葬荼毘)を改め土葬の制を採用したその後昭和天皇に至るまで、歴代天皇土葬された。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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後小松天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。深草北陵には持明院統歴代葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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冷泉天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町・鹿ヶ谷西寺前町にある櫻本陵(桜本陵:さくらもとみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘。 『日本紀略によれば桜本寺前野で火葬し、その山傍に遺骨埋葬したという。桜本寺の遺址から、明治期に現陵に治定された。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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村上天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある村上陵(むらかみみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘山城国葛野郡田邑北中尾に葬られ記事が『日本紀略』に見える。 また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに村上天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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円融天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区宇多野福王子町にある後村上陵(のちのむらかみみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘遺体円融寺北原火葬付し、父村上天皇陵の傍ら遺骨納められた。今日でも龍安寺裏の山に円融院火葬塚残っている。 また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに円融天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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花山天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。 『日本紀略』に葬所は「紙屋川の上法音寺の北」とあり、「法音寺北陵」とも称したので、幕末法音寺旧跡もとづいて現在地治定された。 前出花山院菩提寺には後世の人が作った天皇の墓がある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後桜町天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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称光天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後柏原天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)にある。

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陵・霊廟

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元正天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式山形。 また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後奈良天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)にある。

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陵・霊廟

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後土御門天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 また、遺骨一部は、父の後花園天皇同様に京都市上京区般舟院陵はんしゅういんのみささぎ)に分骨された。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)にある。

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陵・霊廟

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仁賢天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうさかもとみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。遺跡名は「ボケ山古墳野中ボケ山古墳)」で、墳丘122メートル前方後円墳である。 仁賢天皇11年10月に奉葬された。元禄探陵において所在不明とされたが、河内学僧覚峰は現陵に擬定し、ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の誤り考証した。この成果に基づき幕末に現陵に治定して修補加えた中軸線は市辺推定地方向向いている。北西陪冢1基がある。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、神戸市西区押部谷町木津には、仁賢顕宗両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。この神社の他にも西区内や明石市三木市には所縁称する神社数多くある。

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陵・霊廟

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景行天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は山邊道上陵(山辺道上陵:やまのべのみちのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある遺跡名「渋谷向山古墳」に治定されている。墳丘300メートル前方後円墳である。宮内庁上の形式前方後円。 『古事記』には「御陵山邊の道上にあり」とある。『延喜式諸陵寮では「山邊道上陵」として兆域は東西2町・南北2町、陵戸1烟で遠陵としている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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光厳天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区京北井戸町丸山常照皇寺内にある山國陵(山国陵:やまくにのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘崩御翌日常照皇寺後山火葬そのまま陵とした。遺勅により、陵上に松柏植えられたという。「常照寺後山陵」とも称されたが、幕末修陵の際に現陵号に改定した。なお、分骨所が大阪府河内長野市天野町金剛寺、髪塔が京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町金剛院にある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後円融天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。深草北陵には持明院統歴代葬られており、「深草十二帝陵」とも称される崩御翌日泉涌寺において火葬し、その遺骨納めた深草法華堂が現陵にあたる。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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平城天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市佐紀町にある楊梅陵(やまももみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘遺跡名は「市庭古墳」。 この陵は平城京大極殿跡のすぐ北に位置するかつては全国最大円墳考えられてきたが、昭和37年から38年1962年 - 1963年)にかけての発掘調査により前方部平城京築造の際取り壊され前方後円墳だったことが判明したため、この古墳平城天皇の墓とするのは無理があると考えられるようになったとされる。 また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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花園天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区粟田口三条坊町にある十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)に治定されている。宮内庁による形式円丘埋葬崩御2日後である。

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陵・霊廟

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反正天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原北陵もずのみみはらのきたのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市堺区三国ヶ丘町2丁にある遺跡名「田出井山古墳」に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。墳丘148メートル前方後円墳である。上記とは別に宮内庁から大阪府堺市北区百舌鳥西之町にある遺跡名「土師ニサンザイ古墳」が東百舌鳥陵墓参考地(ひがしもずりょうさんこうち)として反正天皇の空墓に想定されている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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成務天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある遺跡名「佐紀石塚山古墳」に治定されている(北緯3442分0.74秒 東経135度47分14.89秒 / 北緯34.7002056度 東経135.7874694度 / 34.7002056; 135.7874694 (狭城盾列池後陵(成務天皇陵)))。墳丘218メートル前方後円墳である。宮内庁上の形式前方後円。 『日本書紀』には「狭城盾列陵」、『古事記』には「沙紀之多他那美(たたなみ)」、『扶桑略記』には「池後山陵」、『百練抄』には「盾列山陵」とある。『延喜式諸陵寮には「兆域東西一町南北三町守戸五烟」と見える成務天皇古墳畿内ではないという有力学説も過去にはあった。成務天皇の宮が畿内に無いためであり、非実在説も宮が畿内に無いことを根拠ひとつとしている。 『扶桑略記によれば康平6年1063年3月興福寺の僧静範らが山陵発掘して宝器領得し、5月山陵使遣わされ宝器返納され、事件座した17人は伊豆国その他に配流された。他にも勾玉などが盗掘され被害受けている。 平安初期承和のころには、すでに神功皇后陵とされていた。これは陵号のうち後の文字シリと読むことを忌みカミといって神功皇后陵陵号とまぎれたものかという(和田英松)。のちに陵の所在失ったが、元禄以後多くの説が成務陵に現在の地を推し幕末修陵のときおおいに修治加えられ竣工に際して慶応元年広橋右衛門督遣わされ奉幣が行なわれた。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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継体天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋野陵(みしまのあいののみささぎ三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、墳丘227メートル前方後円墳である。しかし、本古墳築造時期5世紀中頃とみられている。 一方大阪府高槻市郡家新町今城塚古墳前方後円墳墳丘190m)は6世紀前半築造考えられることから、歴史学界では同古墳真の継体天皇陵とするのが定説となっている。この古墳被葬者生前から造られ始めた寿陵であると考えられている。この古墳宮内庁による治定変更が行われていないために立ち入り認められ1997年からは発掘調査行われている。2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され埴輪祭祀場等には埴輪レプリカ復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。 同古墳ではこれまで家型石棺破片と見られる石片三種確認されている。その内訳は、熊本県宇土市近辺阿蘇溶結凝灰岩ピンク石、奈良県大阪府の境に位置する二上山溶結凝灰岩白石兵庫県高砂市竜山石で、少なくとも三基の石棺安置されていたことが推測できるこのうち竜山石大王家材として多く用いられたものである。これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されと見られる2016年には、過去付近石橋使われていた石材今城塚古墳石棺一部であった可能性発表された。 推定石棺また、皇居皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに御霊祀られている。

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陵・霊廟

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仁明天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵(ふかくさみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形。 これは文久修復のさいに造られたもので根拠乏しく、本来の深草陵は同区深草瓦町善福寺周辺考えられている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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清寧天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。遺跡名は「白髪山古墳」で、墳丘112メートル前方後円墳である。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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顕宗天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵かたおかいわつきのおかのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。 上記とは別に奈良県大和高田市築山にある宮内庁の磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)では、顕宗天皇が被葬候補者想定されている。遺跡名は「築山古墳」。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、神戸市西区押部谷町木津には、顕宗仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。この神社の他にも西区内や明石市には所縁称する神社数多くある。 陪冢飛地い号 陪冢飛地ろ号 陪冢飛地は号

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陵・霊廟

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光格天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある後月輪陵のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔先代までの月輪陵と同じ寺域所在する天保11年11月25日1840年12月18日)に御(おふね)に奉納され12月4日12月27日)に入棺12月20日1月12日)に奉葬された。倹約のため、御にはがなかったという。翌年1月19日2月10日)に石塔完成し即日供養修された。同月27日2月18日)には陵前において諡号奉告が行われ、この時の記録初めて「後月山陵」の陵号が見える。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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文徳天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区太秦三尾町にある田邑陵(たむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘遺跡名は「太秦三尾古墳」。 中世以降、陵の所在地はまった不明となっており、江戸時代には天皇の杜古墳京都市西京区御陵塚ノ越町)が候補とされていた。幕末谷森善臣比定従い、現在宮内庁によって京都市右京区太秦三尾町陵墓定められているが、これは横穴式石室を持つ古墳時代後期とみられる円墳であり、平安時代陵墓としては不適当考えられている。 また皇居では宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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伏見天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。深草北陵には持明院統歴代葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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仲恭天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草本寺山町にある九條陵(九条陵、くじょうみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘上記とは別に京都府京都市東山区本町にある宮内庁東山本町陵墓参考地ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)では、仲恭天皇が被葬候補者想定されている。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。また若宮八幡宮社京都府京都市東山区)では、左相殿祀られる。これは、東山本町陵墓参考地の場所にかつて存在した塚本社からの移祀である。

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陵・霊廟

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後伏見天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。深草北陵には持明院統歴代葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後二条天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区北白川追分町にある北白河陵(きたしらかわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘徳治3年1308年8月28日北白川殿で火葬しそのまま陵とした。中世荒廃したが、元禄探陵の時に当所が陵に擬定され、幕末修補加えた。なお、分骨所が父・後宇多天皇蓮華峯寺陵内にある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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四条天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。なお、父の後堀河天皇観音寺陵も泉涌寺寺内地に所在している。 仁治3年1242年1月19日入棺同月25日泉涌寺後山の当陵に奉葬された。現存する陵は九重石塔である。この陵地は、340余年後の天正14年1586年)に陽光院太上天皇が奉葬されて以降後水尾天皇から仁孝天皇に至る13代の天皇および皇后陵が営まれることとなった。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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淳和天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市西京区大原野南春日町にある大原野西嶺上陵おおはらののにしのみねのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘淳和上皇自身意向により火葬され、その遺骨近臣藤原吉野の手によって大原野西山京都市西京区大原野南春日町小塩山山頂付近散骨されたと言われている。山陵を築く事を禁じられていたため「延喜諸陵式」に陵墓記されておらず、当地には長らく小石築かれ円塚のみであったが、幕末陵墓修復の際、小塩山山頂付近大原野西嶺上陵称する陵が築かれた。 なお、小塩山長岡京が都であった時代天皇陵築造予定地とみなされていた長岡京北郊地域範囲含まれるとされ、生母藤原旅子祖母高野新笠陵墓とも離れていないことが指摘されており、散骨地の選定影響与えた可能性がある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿一つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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嵯峨天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨朝原山町にある嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘嵯峨天皇承和9年842年7月17日葬られ遺詔によって国忌荷前置かれず「延喜諸陵式」に登載されなかった。嘉祥3年中納言安倍安仁宮内大輔房世王が嘉瑞奉告し12月30日、また2人遣わされ立太子の由を奉告元暦元年即位奉幣使発遣された。のち陵の所在失われ近世諸陵探査のとき「諸陵周垣成就記」には「山城国葛野郡嵯峨山の北に葬。葬所は不相知候得共、嵯峨二尊院寺内の山に有る同所清涼寺五大堂前両寺に陵有之候、両寺共に御朱印地」という。「雍州府志」も「扶桑京華志」も八角堂(のち蓮華峯寺陵に治定)と清涼寺石塔とを並記、「山城志」が初め現在の地を推し蒲生君平によると陵には7個の自然石巨岩があったという(「山陵志」)。 幕末修陵のときこの説が採られると修治加えられ竣工にさいして慶応元年5月5日山陵修輔竣工巡検使柳原中納言遣わされ奉幣した。陵号は嵯峨山陵、嵯峨山上陵が通じて用いられたがその後嵯峨山上陵に定められた。 場所は大覚寺西北嵯峨野の北にある御廟山の山頂位置する。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿一つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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亀山天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町天龍寺内にある龜山陵(亀山陵:かめやまみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 遺体荼毘付され嵯峨野にあった金剛院亀山殿法華堂法皇御願南禅寺高野山金剛峯寺それぞれ分骨されたが、亀山殿法華堂以って現陵とされた。法華堂形式の陵である。また、天龍寺隣接した右京区嵯峨亀ノ尾町亀山公園には火葬塚がある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 福岡市博多区東公園銅像建てられている(1904年完成)。

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陵・霊廟

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後深草天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。深草北陵には持明院統歴代葬られており、「深草十二帝陵」とも称される深草山中葬られたのは、天皇生前希望という。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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土御門天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府長岡京市金ヶ原金原寺にある金原陵(かねがはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式八角丘。 徳島県鳴門市大麻町池谷には土御門天皇御祭神とする阿波神社があり、境内火葬塚がある。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、大阪府三島郡島本町水無瀬神宮では、祭神として祀られている。

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陵・霊廟

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後宇多天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨朝原山町にある蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂・石造五輪塔大覚寺殿にて崩御しその3日後に蓮華峰寺の傍山に葬られたという。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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白河天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある成菩提院陵(じょうぼだいいんみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。 この陵の近所には、別に同陵の有力な比定候補地存在し、ここは陵墓参考地として宮内庁管轄地となっている。 また、白河法皇当初自身死後土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺僧兵報復としてその墓を暴き遺体辱めんと計画していたことを知り自身後世同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。そうして天永2年1111年)に法皇は自らの墓所として鳥羽離宮泉殿三重塔建立する至った。しかし、法皇崩御時にはまだ遺骨納めるための成菩提院出来ていなかったため、衣笠山山麓法皇遺体荼毘付され火葬塚京都市北区金閣小学校近く現存する)、香隆寺に一旦埋葬された。そして天承元年1131年7月鳥羽上皇成菩提院完成させる白河法皇遺骨をそこに改葬した。 そのほか皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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雄略天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある「島泉丸山古墳高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳高鷲平塚古墳)」に治定されている(古墳2基を合わせて治定)。それぞれ直径75メートル円墳一辺50メートル方墳宮内庁上の形式円丘『古事記』には、顕宗天皇が父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく雄略陵を破壊しようとしたので、意祁命(後の仁賢天皇)が自ら雄略陵の墳丘一部のみを破壊して溜飲をさげさせたとある。また『日本書紀』にも、顕宗が陵を破壊しようとしたが皇太子億計(仁賢)がこれを諌めて思い止まらせたとする上記とは別に大阪府松原市西大塚にある宮内庁大塚陵墓参考地おおつかりょうぼさんこうち)では、雄略が被葬候補者想定されている。遺跡名は「河内大塚山古墳」で、墳丘335メートル前方後円墳である。ただし埴輪が無い等の特徴から前方後円墳終末期のものである可能性高く、そうであれば雄略天皇の崩年と築造年代数十年の開きがある。 また、皇居では皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇御霊祀られている。

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陵・霊廟

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欽明天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字平田にある檜隈坂合陵(桧隈坂合陵:ひのくまのさかあいのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。遺跡名は「梅山古墳平田梅山古墳)」で、墳丘長140メートル前方後円墳である。 『古事記』には記載なし。『日本書紀』延喜式』には「檜隈坂合陵」とある。比定には、橿原市見瀬丸山古墳五条野丸山古墳)とする説もある。なお、檜隈坂合陵には後に612年推古天皇20年)に堅塩媛改葬されている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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宣化天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵:むさのつきさかのえのみささぎ)に治定されている。皇后橘仲皇女との合葬陵で、宮内庁上の形式前方後円。遺跡名は「鳥屋ミサンザイ古墳」で、墳丘138メートル前方後円墳である。 『古事記』には記載なし。『日本書紀』延喜式』には「身狭桃花鳥坂上陵」とある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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朱雀天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町にある醍醐陵(だいごのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘北西にある父帝醍醐天皇山科陵からは遠くない位置にある。古く醍醐天皇陵が「上ノ御陵」、朱雀天皇陵が「下ノ御陵」と呼ばれていた。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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六条天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある清閑寺陵せいかんじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘かつては高倉天皇陵と同所にあったが、近世になって区分された。 また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後一条天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区吉田神楽岡町にある菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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宇多天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある大内山陵(おおうちやまみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。 火葬後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされた。所在早く失われ江戸時代になって現在の大内山陵に治定された。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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光孝天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区宇多野馬場町にある後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘。「小松山陵(こまつやまみささぎ)」とも。 江戸時代には陵の所在はまったくの不明となっており、明治期になり京都市右京区宇多野馬場町の現陵の場所に定められた。ただし、比定確たる根拠があったわけではなく仁和寺西南にあたる現在の場所は文献記録とも矛盾する指摘されている。 上記とは別に京都府京都市右京区御室大内にある宮内庁御室陵墓参考地(おむろりょうぼさんこうち)では、光孝天皇が被葬候補者想定されている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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後朱雀天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺山の龍安寺内にある圓乘寺陵(円乗寺陵:えんじょうじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘

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三条天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市北区衣笠西尊上院町にある北山陵(きたやまみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘衣笠鏡石町火葬塚がある(一条天皇火葬塚同所)。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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二条天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市北区平野八丁柳町にある香隆寺陵(こうりゅうじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘永万元年1165年7月28日二条院里第で崩御し8月7日香隆寺の北の野で火葬し遺骨一時香隆寺本堂蔵めた。のち二条院移して三昧堂を建て、嘉禎2年1236年5月17日遺骨をこの堂に蔵めた。中世山陵所在失い元禄年間行なわれ諸陵探索の際にも定説を得なかった。江戸時代初期史家黒川道祐はその著書雍州府志』の中で「二条院在洛北船岡山北麓、陵上有五輪石塔」と記しており、国学者松下見林元禄9年1696年)に著した前王廟陵記』もこれに従って「歴帝陵考」で「愛宕郡岡山蓮台寺境内畑中古家あり、後朱雀堀河二条三帝難決」としている。陵上の石塔九輪の塔と手水鉢千利休作ったものと伝わるが、このことからも当時山陵荒廃していた様子察することができる。幕末修陵の際にも決定せず、陵地発不能として『中右記記載により考定した香隆寺旧址中点付近の良地を卜し修陵の外なしとして、明治22年1889年6月3日裁可治定をもって廟陵が造営された。 なお今皇居では、宮中三殿のひとつの皇霊殿で他の歴代天皇皇族とともに二条天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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ウガヤフキアエズ」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)。宮内庁により鹿児島県鹿屋市吾平町上名吾平山にあるに治定されている(北緯3117分16.64秒 東経130度54分54.78秒 / 北緯31.2879556度 東経130.9152167度 / 31.2879556; 130.9152167 (吾平山上陵(伝天津日高彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊陵)))。宮内庁上の形式洞穴埋葬地は、日本書紀に「日向吾平山上陵」と記載があるが、その伝承の地は南九州各地にある。明治7年明治政府は、それらの中から旧薩摩藩学者意見参考鹿児島県鹿屋市(旧 肝属郡吾平町戸山流れ姶良川開いた岩窟戸窟」内の2つの塚を吾平山上陵治定した。現在は宮内庁書陵部管轄している(他の日向三代の神陵も鹿児島県内治定)。 しかし日向国人々からの反論強く国学者宮内庁調査によって、明治29年鵜戸神宮背後の速日峯山上が「御陵墓伝説地 吾平山上陵」の参考地とされている。他に宮崎県西臼杵郡高千穂町とする説もある。

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陵・霊廟

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ホオリ」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)。宮内庁により鹿児島県霧島市溝辺町麓口の円墳治定されている(位置北緯3149分36.83秒 東経130度41分28.79秒 / 北緯31.8268972度 東経130.6913306度 / 31.8268972; 130.6913306 (高屋山上陵(伝天津日高彦火火出見尊陵)))。宮内庁上の形式円丘埋葬地伝承地南九州各地にあり、明治元年三島通庸らが、明治3年田中頼庸らが、明治6年樺山資雄それぞれ調査し翌年明治7年1874年)に明治政府鹿児島県霧島市にある霧島山麓を高屋山上陵治定した。これは古事記の「高千穂山の西」という記述に基づき、「高千穂山」を高千穂峰みなして定めたのである。他に宮崎県高千穂町内の古墳鹿児島県肝付町国見山鹿児島県南さつま市野間岳宮崎県宮崎市村角町高屋神社なども彦火火出見尊の神陵という伝承がある。

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陵・霊廟

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順徳天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘崩御翌日佐渡真野山にて火葬されたが、寛元元年1243年4月遺骨都に持ち帰られ翌月後鳥羽院大原法華堂の側に安置された。堂は後に荒廃して所在不明となったが、元禄探陵の際に当所が陵に擬定され、明治22年1889年正式に治定された。 なお、新潟県佐渡市真野にある真野御陵(まののみささぎ)は正式に火葬塚であるが、古来地元から御陵として崇敬されてきたもので、延宝7年1679年)に佐渡奉行曽根吉正が修補加え明治7年1874年)から政府管理下にある。ちなみに、この陵は宝暦12年(1762年)に起こった佐渡沖地震の際、石垣崩れ被害があったという。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。また大阪府三島郡島本町水無瀬神宮では、祭神として祀られている。

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近衛天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある安樂壽院南陵安楽寿院南陵あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)に治定されている。ここは京都南郊で、鳥羽称され一帯位置し鳥羽法皇離宮内に自らや家族墓所として設定していた場所でもある。鳥羽法皇保延5年1139年)に自らの墓所として安楽寿院境内三重塔(本御塔)を建てて遺言通りにそこに葬られたが、久安4年1148年)頃には皇后藤原得子美福門院)の墓所として三重塔新御塔)も建てていた。しかし、得子は遺骸をそこに葬られるのを拒否し遺言通り遺骨高野山納められた。そのために新御塔は「空いたまま」となっていたが、長寛元年1163年になって知足院にあった近衛天皇遺骨をここに移して新たに納めることとなった近衛陵は宮内庁上の形式では多宝塔となり、これは歴代天皇陵では唯一である。当初三重塔であった新御塔であるが、慶長元年1596年)の慶長伏見地震倒壊してしまい、豊臣秀頼の命により多宝塔として再建された。 また皇居では、宮中三殿一つ皇霊殿において、他の歴代天皇皇族とともに近衛天皇の霊が祀られている。

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高倉天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある後清閑寺陵(のちのせいかんじみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。清閑寺旧境内山腹所在する治承5年1181年1月14日天皇崩御の夜、遺詔によって清閑寺法華堂に奉葬された。のちに法華堂消滅したが、祭祀継続されており、幕末には聖護院宮管理にあった明治29年1896年)、六条天皇清閑寺陵区別して現陵号を設定。陵域内には、法華堂基壇と見られる墳丘と、小督局の墓と伝え宝篋印塔がある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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元明天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は、山形崩御さきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡宝山良岑に竈を造り火葬し他処改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作りを芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」といういわゆる葬儀簡素化の詔を出したので、崩御後12月13日喪儀用いず山陵葬った。 陵号は『続日本紀』奉葬の条には「山陵」、天平勝宝4年3月の条には「直山陵」、遺詔に「宝山良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した中世になると陵墓正確な場所がわからなくなったが、『前王廟陵記』は那富士墓の位置に、『大和志』は大奈辺古墳に、幕末修陵の際に現在の陵墓治定され、修補加え慶応元年3月16日広橋右衛門督遣わして竣工状況を視し、奉幣した遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊見て田間落ちていたのを発掘し奈良春日社安置したのを、明和年間藤井貞幹見て東大寺要録』を参酌して元明天皇刻字之碑を考定した。文久年間修陵の際にこれを陵側に移し明治29年1896年)に藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑建造しかたわら建立した。 また皇居東京都千代田区千代田)では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに元明天皇の霊も祀られている。

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陵・霊廟

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天智天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御天智天皇10年12月3日グレゴリオ暦672年1月10日相当するので、1月10日御陵で正辰祭が行われる(1月7日ユリウス暦)。

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陵・霊廟

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崇峻天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

崇峻天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県桜井市大字倉橋にある倉岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘『日本書紀』崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰群臣を詐めて曰はく、『今日東国の調を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉岡(くらはし)陵に葬りまつる。」とある。『延喜式諸陵式に「無陵地幷無戸」とある。『陵墓要覧』では所在地奈良県桜井市大字倉橋金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする。 現在、崇峻天皇陵は、倉柴垣宮の旧地伝えられてきた小字天皇屋敷」(桜井市倉橋)にある。同地に、崇峻天皇位牌祀る金福寺があったことから、陵地として決定したという。1876年明治9年)、奈良県十市郡倉橋にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦崇峻天皇陵として治定されたが、1889年明治22年)に現在の陵に改定された。 ただし、根拠には乏しいといい、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳赤坂天王山古墳崇峻陵とする森浩一見解有力視されるようになっている。同古墳6世紀末から7世紀初頭築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳被葬者崇峻天皇とする説もある。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後醍醐天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘通常天皇陵南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都帰りたいという後醍醐天皇願い表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ニ埋マルトモ魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。また、遺言に従って「御終焉御形ヲ改ス」として、火葬行われず土葬にて埋葬されとされる久水俊和土葬裏付ける史料はないものの、天皇が崩じた場合には土葬による山陵造営通例であるため、後醍醐天皇崩御後院号付けずに「天皇としての崩御天皇崩)」に拘った南朝土葬後に山陵造営した可能性が高いとしている。 奈良県大和国)内に葬られ最後天皇である。 また明治22年1889年)に同町に建てられ吉野神宮祀られている。 皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 後醍醐天皇紫衣許して官寺とした總持寺神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇尊像尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇600年遠忌記念して昭和12年1937年)に建立された。 足利尊氏後醍醐菩提を弔うために天龍寺造営している。また足利義政は小雅久や吉田兼倶といった学者意見従い東山山荘(現慈照寺)の東求堂後醍醐位牌安置して礼拝した

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陵・霊廟

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安閑天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式前方後円。遺跡名は「高屋築山古墳」で、墳丘122メートル前方後円墳である。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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草壁皇子」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵は、奈良県高市郡高取町眞弓丘陵。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに霊が祀られている。

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陵・霊廟

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桃園天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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桜町天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後桃園天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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仁孝天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある後月輪陵のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後花園天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区京北井戸町常照皇寺内にある後山國陵(後山国陵:のちのやまくにのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造宝篋印塔光厳天皇陵と同域に所在する文明3年1471年1月3日悲田院にて火葬し埋骨し翌月天皇遺詔によって常照皇寺光厳天皇陵の傍に移した幕末修陵の際に光厳天皇陵と併せて山国陵」と称したが、明治2年1869年)現陵号に改定。なお、分骨所が京都市上京区般舟院前町般舟院陵はんしゅういんのみささぎ)、火葬塚上京区扇町大應寺境内にある。この火葬塚は、京都府内における近世以前皇室陵墓火葬塚の中で、学術上最も確実なもの1つであるといわれる。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後西天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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霊元天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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安寧天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市吉田町にある俗称「アネイ山」に治定されている(北緯3429分24.80秒 東経135度46分38.01秒 / 北緯34.4902222度 東経135.7772250度 / 34.4902222; 135.7772250 (畝傍山西南御陰井上陵(安寧天皇陵)))。宮内庁上の形式山形。 陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山美富登(みほと)」の所在とあるほか、『延喜式諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世所伝失われ元禄修陵では所在誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている。 また皇居では、宮中三殿1つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに安寧天皇の霊が祀られている。 御陰安寧天皇神社

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陵・霊廟

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孝昭天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県御所市大字三室にある俗称博多山」に治定されている(北緯3427分27.86秒 東経135度43分51.49秒 / 北緯34.4577389度 東経135.7309694度 / 34.4577389; 135.7309694 (掖上博多山上陵(孝昭天皇陵)))。宮内庁上の形式山形。 陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」の所在とある。一方先代旧事本紀』では崩御翌年葬った見え崩御38年後に葬ったとする『日本書紀』記録相違することから、後者改葬と見る説もある。『延喜式諸陵寮では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとし、兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世所伝失われ元禄の探陵で現陵に治定された。陵近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社孝昭宮)があるが、これは古く丘上にあったものを幕末修補の際に現在の東側隣接地移したものになる。 また皇居では、宮中三殿1つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに孝昭天皇の霊が祀られている。 孝昭天皇神社孝昭宮)

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陵・霊廟

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孝霊天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)。宮内庁により奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目丘陵治定されている(北緯3435分22.56秒 東経135度42分6.19秒 / 北緯34.5896000度 東経135.7017194度 / 34.5896000; 135.7017194 (片丘馬坂陵(孝霊天皇陵)))。宮内庁上の形式山形。 陵について『日本書紀』では前述のように「片丘馬坂陵」、『古事記』では「片岡馬坂上」の所在とあるほか、『延喜式諸陵寮では「片丘馬坂陵」として兆域は東西5町・南北5町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世所伝失われ元禄の探陵で現陵に治定された。 また皇居では、宮中三殿1つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに孝霊天皇の霊が祀られている。

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懿徳天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市西池尻町にある俗称マナゴ山」に治定されている(北緯3429分20.04秒 東経135度46分54.43秒 / 北緯34.4889000度 東経135.7817861度 / 34.4889000; 135.7817861 (畝傍山南繊沙渓上陵(懿徳天皇陵)))。宮内庁上の形式山形。 陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山南繊沙渓上陵」、『古事記』では「畝火山真名子の上」の所在とあるほか、『延喜式諸陵寮では「畝傍山南繊沙渓上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世所伝失われ幕末修陵に際して現陵に治定された。なお、橿原市畝傍町イトクノモリ古墳はその名から懿徳とされることもあったが、一説皇后陵だともいわれる。 また皇居では、宮中三殿一つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに懿徳天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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孝安天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県御所市大字玉手にある玉手丘陵上に治定されている(北緯3427分18.56秒 東経135度44分56.81秒 / 北緯34.4551556度 東経135.7491139度 / 34.4551556; 135.7491139 (玉手丘上陵(孝安天皇陵)))。宮内庁上の形式円丘。陵について『日本書紀』では前述のように「玉手丘上陵」、『古事記』では「玉手崗上」の所在とあるほか、『延喜式諸陵寮では「玉手丘上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。しかし、中世に陵の所在失われ元禄年間以来検討されて室宮山古墳擬せられたが、『歴帝陵』の一本および『大和志』が現在の地を推して以来定説となった幕末修陵時におおいに修治加えられ、その竣工に際して慶応元年3月12日広橋右衛門督遣わされ修陵奉告が行なわれた。 また皇居では、宮中三殿1つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに孝安天皇の霊が祀られている。 孝安天皇

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陵・霊廟

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孝元天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は劔池嶋上陵(剣池島上陵:つるぎのいけのしまのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市石川町にある遺跡名「中山1-3号墳」に治定されている(北緯3428分52.14秒 東経135度48分11.85秒 / 北緯34.4811500度 東経135.8032917度 / 34.4811500; 135.8032917 (劔池嶋上陵(孝元天皇陵)))。円墳2基・前方後円墳1基からなる宮内庁上の形式前方後円。 陵について『日本書紀』では前述のように「劔池嶋上陵」、『古事記』では「剣池之中岡上」の所在とあるほか、『延喜式諸陵寮では「劔池嶋上陵」として兆域は東西2町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世所伝失われ元禄の探陵で現陵に治定された。 また皇居では、宮中三殿1つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに孝元天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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崇神天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵:やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県天理市柳本町にある遺跡名「行燈山古墳」に治定されている。墳丘242メートル前方後円墳である。宮内庁上の形式前方後円。 『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。『延喜式諸陵寮では「山邊道上陵」として兆域は東西2町・南北2町、守戸1烟で遠陵としている。行燈山古墳は、形状帆立貝形古墳初期前方後円墳前方部小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代改修工事よるものとも言われている。なお行燈山古墳より少し前に造られ西殿塚古墳前方後円墳全長220m)を真陵とする考え方もある。また江戸時代には渋谷向山古墳(現・景行陵)が陵墓とされていた。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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誠仁親王」の記事における「陵・霊廟」の解説

親王墓所太上天皇追尊されたため「陵」と称される。陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は無方塔。

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正親町天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)にある。

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陵・霊廟

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開化天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市油阪町にある遺跡名「念仏寺山古墳」に治定されている(北緯3441分0.49秒 東経135度49分26.44秒 / 北緯34.6834694度 東経135.8240111度 / 34.6834694; 135.8240111 (春日率川坂上陵(開化天皇陵)))。墳丘長約100メートル前方後円墳宮内庁上の形式前方後円。 陵について『日本書紀』では前述のように「春日率川坂本陵(坂上陵)」、『古事記』では「伊邪河之坂上」の所在とあるほか、『延喜式諸陵寮では「春日率川坂上陵」として兆域は東西5段・南北5段、在京10烟を毎年あてる旨とともに遠陵としている。近世には近隣念仏寺墓地になったため墳丘削られたが、幕末墓地移転と陵の修補なされて現在に至っている。 また皇居では、宮中三殿1つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに開化天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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後嵯峨天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町天龍寺内にある嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式方形堂。 亀山天皇と兆域を同じくし、同形式の檜皮葺宝形造法華堂が並ぶ。後嵯峨天皇文永9年1272年2月19日薬草院で火葬され翌日遺骨を銀の壺に納めて金剛院安置し文永11年1274年)、法華堂落慶のとき同堂に移し納めた中世山陵所在不明に帰した。『元禄諸陵周垣成就記』は陵の所在は「金原法華堂」として火葬冢を「嵯峨二尊院裏山」という。松崎祐之『歴史徴』は天龍寺内方西北古墳という。蒲生君平山陵志』は亀山天皇合葬で故浄金剛院法華堂とする。『山陵私記』はのちの火葬所を陵に擬する。『陵墓一隅抄』は初めて、天龍寺方丈雲居庵の四辺と、のちの陵の位置指摘する谷森善臣山陵考』は同地擬して幕末修陵のとき同地治定され、元治元年1864年11月起工慶応元年1865年5月6日竣工に際して山陵修補竣工巡検使野々宮中納言遣され奉幣があった。亀山天皇とともに「浄金剛院法華堂」といい、のち亀山天皇の「亀山殿法華堂に対して嵯峨殿法華堂」と称され明治39年1906年3月嵯峨陵」と号され、明治45年1912年3月嵯峨南陵」と改称された。後伏見天皇および亀山天皇とともに火葬所は天龍寺裏山にある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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允恭天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)。宮内庁により大阪府藤井寺市国府1丁目にある遺跡名「市ノ山古墳市野山古墳)」に治定されている。宮内庁上の形式前方後円で、墳丘228メートル前方後円墳である。 上記とは別に大阪府藤井寺市津堂にある遺跡名「津堂城山古墳」は宮内庁指定藤井寺陵墓参考地ふじいでらりょうぼさんこうち)として允恭天皇が被葬候補者想定されている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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弘文天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。これとは別に弘文天皇御陵とされる墳墓複数伝わっている。 白山神社古墳 - 千葉県君津市俵田弘文天皇陵 - 神奈川県伊勢原市日向 小針1号墳 - 愛知県岡崎市小針町 大友皇子御陵 - 愛知県岡崎市東大友町 自害峯の三本杉 - 岐阜県不破郡関ケ原町藤下 鳴塚古墳 - 三重県伊賀市鳳凰寺 膳所茶臼山古墳 - 滋賀県大津市秋葉台 皇子山古墳 - 滋賀県大津市皇子山 白山神社古墳千葉県君津市) 伝弘文天皇陵[伝弘文天皇陵](神奈川県伊勢原市小針1号墳愛知県岡崎市膳所茶臼山古墳滋賀県大津市皇子山古墳1号墳滋賀県大津市) 節内の座標示した地図 - OSM内の座標出力 - KML 表示 また皇居では、皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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一条天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺山 の龍安寺内にある圓融寺北陵円融寺北陵えんゆうじのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式円丘天皇生前、父円融院の隣に土葬されることを望み近臣熟知するところであったが、道長故院荼毘付してからそのこと思い出し遺骨円融寺納めたという(寛仁4年1020年6月16日夜)。 なお、一条天皇大喪儀における葬法誤りについて論じた論文があり、それによれば淳和天皇以降在位中の天皇葬儀土葬太上天皇葬儀火葬という慣例があったが、退位直後次代天皇から太上天皇として称号奉上受けず崩御し醍醐天皇天皇の例として土葬が行われた。一条天皇場合天皇意思だけでなく醍醐天皇先例倣え土葬行われるべきであるが、道長以下の廷臣太上天皇の例に倣って火葬行ったことになる。この誤り本当に勘違いよるもの意図的なものかは不明であるが、次に在位中に崩御し息子後一条天皇の際には崩御事実隠して譲位儀式行った上で太上天皇として火葬にされ、それ以後在位中の天皇崩御そのもの隠される慣例確立されていることから、一条天皇大喪儀における誤り天皇大喪儀における観念変化在位中の天皇崩御ならびそれを前提とした土葬否定)の過渡期発生した出来事とする評価がされている。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 03:27 UTC 版)

後水尾天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺内にある月輪陵つきのわみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式石造九重塔後水尾以後は孝明に至るまで歴代天皇全て泉涌寺内に葬られている(泉涌寺内には後水尾以前鎌倉時代後堀河四条両天皇の陵がある)。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:15 UTC 版)

桓武天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により桃山陵墓地内にある柏原陵かしわばらみささぎ)に治定京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎)されている。宮内庁上の形式円丘上記とは別に伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁大亀陵墓参考地おおかめだにりょうぼさんこうち)では、桓武天皇が被葬候補者想定されている。 在世中に宇多野(うたの)への埋葬希望したとされるが、不審事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社祟りであるとする結果出され改め伏見の地が選ばれ柏原陵営まれた。『延喜式』に記され永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬集めた柏原陵在所中世動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉築いた伏見城敷地内入ってしまったため、深草伏見の間とのみ知られていた。元禄年間修陵深草鞍ヶ谷町蓮華院境内谷口古墳考定され、その後幕末改め桃山町の現陵の場所に定められた。もっともその根拠乏しいと見られ別に桃山丘陵頂き付近に真陵の位置求める説もあるため、確かな場所は不明とするほかない。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿一つ)において、他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。なお、後述するように平安京への遷都行い、かつ同京最初天皇となったことにちなんで、明治28年1895年)に平安遷都1100年記念して桓武天皇祀る平安神宮創祀されている。 宮城県仙台市青葉区芋沢明神にある宇那禰神社にも桓武天皇祭神として祀られています。平安神社宇那禰神社の二社だけだと言う

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陵・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 01:15 UTC 版)

神武天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町遺跡名・俗称四条ミサンザイ」 に治定されている(北緯342951東経135度47分16.5秒 / 北緯34.49750度 東経135.787917度 / 34.49750; 135.787917 (畝傍山東北陵(神武天皇陵)))。ただし埋蔵文化財包蔵地とはされていない宮内庁上の形式円丘記紀によると畝傍山北方白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子神懸りした際に「高市社の事代主神身狭社の生霊神」が表れ神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器奉れ」と神託受けたため、 神武陵に使者送って挙兵報告したとされる天武期には陵寺として大窪寺建てられとみられる延喜式第21巻の『諸陵式』によると、神武天皇陵は、平安初め頃には、東西1町、南2町の広さであった貞元2年977年)には神武天皇かりのこの地に国源寺建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。 江戸時代初め頃から神武天皇陵探し出そうという動き起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂始めた幕府天皇陵立派にすることで、幕府権威より一層高めようとした。元禄時代陵墓調査をし、歴代天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時神武天皇陵治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後文久3年1863年)に神武陵はミサンザイに決まり幕府が15000両を出して修復し同時期に神武天皇陵だけでなく、百余り天皇陵全体修復行ったこのように神武天皇陵治定紆余曲折歴史があり、国源寺明治初年神武天皇陵神域となった場所から大窪寺跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。 確証乏し陵墓選定ではあったものの、明治時代以降は文字通り神格化進んだ1916年大正6年)には、畝傍山中腹にあった洞村208戸)が天皇陵見下ろしているとして集団移転させられ出来事もあった。 現陵は橿原市大久保町洞(古く高市郡白檮<かし>大字山本)に所在し畝傍山からほぼ東北300m離れており、東西500m南北400m広大な領域占めている。毎年4月3日には宮中よびいくつかの神社神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使参向し、奉幣行なっている。また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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陵・霊廟

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綏靖天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)の名は桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市四条町遺跡名・俗称塚山」「塚根山」に治定されている(北緯3430分2.71秒 東経135度47分21.65秒 / 北緯34.5007528度 東経135.7893472度 / 34.5007528; 135.7893472 (桃花鳥田丘上陵(綏靖天皇陵)))。宮内庁上の形式円丘直径30メートル円墳推測される。 陵について『日本書紀』では前述のように「桃花鳥田丘上陵」、『古事記』では「衝田岡(つきだのおか)」の所在とあるほか、『延喜式諸陵寮では「桃花鳥田丘上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている。しかし中世には荒廃して所在失われた元禄の探陵の際に諸説生じ慈明寺町スイセン古墳前方後円墳墳丘長55m)に綏靖天皇陵が、現陵に神武天皇陵比定されていた。しかし幕末修陵に際して改められ明治11年1878年)に現陵が綏靖天皇陵に治定された。円墳状であるものの古墳であるかは従来明らかでなかったが、平成29年度2017年度)に初め実施され考古歴史学代表者立ち入り調査によれば古墳可能性が高いと推測される。陵のある橿原市四条町周辺では、昭和62年1987年以降調査において藤原京造営時に平された四条古墳群存在が明らかとなっており、この古墳群神武陵・綏靖陵との関連指摘される(「四条古墳群参照)。 また皇居では、宮中三殿1つ皇霊殿において他の歴代天皇皇族とともに綏靖天皇の霊が祀られている。そのほか阿蘇神社では「金凝神」として十二宮祀られている。

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陵・霊廟

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推古天皇」の記事における「陵・霊廟」の解説

陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。子の竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳である。 『日本書紀』では推古天皇36年628年3月崩御ののち、同年9月遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い。一方で『古事記』では、「御陵大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い。『延喜式諸陵寮では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され河内国石川郡所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする。『扶桑略記』では康平3年1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったという。その後元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在報告している。なお、現陵近く二子塚古墳を真陵に比定する説もあるほか、改葬前の陵(大野岡上)については植山古墳奈良県橿原市)に比定する説がある。 また皇居では、皇霊殿宮中三殿1つ)において他の歴代天皇皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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