ごびょうやま‐こふん〔ゴベウやま‐〕【御廟山古墳】
御廟山古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/20 14:02 UTC 版)
御廟山古墳 | |
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墳丘全景(手前に前方部、右奥に後円部) | |
別名 | 百舌鳥御廟山古墳 |
所属 | 百舌鳥古墳群 |
所在地 | 大阪府堺市北区百舌鳥本町1丁 |
位置 | 北緯34度33分17.52秒 東経135度29分25.71秒 / 北緯34.5548667度 東経135.4904750度座標: 北緯34度33分17.52秒 東経135度29分25.71秒 / 北緯34.5548667度 東経135.4904750度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長203m |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 埴輪など |
築造時期 | 5世紀前半 |
被葬者 | (宮内庁推定)第15代応神天皇 |
陵墓 | 宮内庁治定「百舌鳥陵墓参考地」 |
特記事項 | 全国第35位の規模[1] |
地図 |

国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)は、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。内濠は国の史跡に指定されている(史跡「百舌鳥古墳群」の一部として)。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第15代応神天皇)として陵墓参考地に治定されている。
概要
長持形石棺片
百舌鳥古墳群のほぼ中央、大仙陵古墳の南東に位置する。墳丘長約203メートルで、百舌鳥古墳群では4番目の大きさである[2]。墳丘は3段に築かれ、南側に造り出しがある。発掘調査により、かつては二重濠があったことが確認されている。陪塚は数基あったとされるが、万代山古墳(もずやまこふん)のみが現存している[2]。
主体部の構造や副葬品などは不明。現在では宮内庁が陵墓参考地に指定している。
2008年に墳丘部周囲の崩落補修、倒木などの撤去工事が行われ、同年11月28日に、宮内庁と堺市がそれぞれの管理区域の発掘調査を行い、29と30日には環濠部に設けられた通路からの一般公開が行われた。その際の測量により、従来は約186メートルとされていた全長が、約200メートルであることが確認された。また、江戸時代前期に環濠が農地用水の溜池として利用されていた際に、環濠の拡張工事が行われ、墳丘部が一部削り取られていたことも判明した。
2018年に内濠が国の史跡に指定された(史跡「百舌鳥古墳群」の一部として)[3]。
陪塚
・万代山古墳:直径25メートル高さ4.3メートル 現在は円形だが当時は帆立貝形古墳だった可能
性もある。
墳丘
墳丘の規模は次の通り[2]。
- 墳丘長:203メートル
- 後円部直径:113メートル
- 前方部幅:136メートル
交通アクセス
脚注
- ^ 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ、2018年5月13日更新版)。
- ^ a b c 百舌鳥古墳群(堺市) & 2014年, pp. 43–44.
- ^ 平成30年10月15日文部科学省告示第193号
参考文献
- 『堺の文化財 百舌鳥古墳群』堺市文化観光局文化部文化財課、2014年。
- 「百舌鳥陵墓参考地 墳丘裾護岸その他整備工事に伴う事前調査」『書陵部紀要 陵墓篇 第61号 (PDF)』宮内庁書陵部、2010年。 - 宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
- 『埋葬からみた古墳時代 女性・親族・王権』(歴史文化ライブラリー) 吉川弘文館, 2018.5
- 十河良和『関西大学博物館紀要』関西大学博物館、2014年。
外部リンク
- 御廟山古墳 - 堺市ホームページ
固有名詞の分類
- 御廟山古墳のページへのリンク