陪塚とは? わかりやすく解説

ばい‐ちょう【陪塚/陪×冢】

読み方:ばいちょう

主人の墓に伴う従者の墓の意》大きな墓のそばにある小さな墓。副葬品納めるだけのものがある。ばいづか


ばい‐づか【陪塚】

読み方:ばいづか

ばいちょう(陪塚)


陪塚

読み方:バイチョウ(baichou)

古墳のそばに造られ小さな古墳

別名 陪冢


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/09 08:17 UTC 版)

陪塚(ばいちょう・ばいづか、陪冢とも)は、日本古墳時代に築造された古墳の様式。




「陪塚」の続きの解説一覧

陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:42 UTC 版)

造山古墳 (岡山市)」の記事における「陪塚」の解説

名称形状規模特徴榊山古墳造山第1号墳円墳もしくは前方後円墳 後円部径約40メートル 馬形帯鈎出土。その他、神獣鏡鈴等も出土造山第2号墳 方墳 一辺40メートル 周濠存在外堤上に埴輪列を伴い100体以上の埴輪出土造山第3号円墳か? 径約30メートル 造山第4号円墳もしくは前方後円墳 墳丘長さ55メートル 墳丘端から円筒埴輪形象埴輪家形短甲形)が出土千足古墳造山第5号墳) 前方後円墳帆立貝形古墳墳丘長さ75メートル 3段築成。九州北西部装飾古墳類似した初期横穴式石室をもつ。石室内に直弧文刻まれた石障がある。 造山第6号円墳30メートル 横穴式石室をもつ。 ※第5号墳(帆立貝形古墳千足古墳)は初期横穴式石室主体であり、円墳の1基から初期須恵器や陶質土器出土していることを考え合わせると、陪塚(ばいちょうばいづか)と考えられているこれらの6基の古墳群は、造山古墳築造時期異な古墳含み、陪塚とするのは適切ではないとみられている。 榊山古墳造山第1号墳造山第2号墳 造山第3号造山第4号千足古墳造山第5号墳)

※この「陪塚」の解説は、「造山古墳 (岡山市)」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「造山古墳 (岡山市)」の記事については、「造山古墳 (岡山市)」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/22 21:04 UTC 版)

王塚古墳 (神戸市)」の記事における「陪塚」の解説

王塚古墳周囲では陪塚(陪冢)3基の築造伝えられ、うち次の2基が現存する。 北陪塚(位置)「飛地い号」として玉津陵墓参考地陪冢治定通称「幣塚」。王塚古墳北方の幣塚公園内位置する直径10メートル円墳状であるが、詳細不明。 東陪塚(位置)「飛地ろ号」として玉津陵墓参考地陪冢治定王塚古墳東方位置する一辺15メートル方墳状であるが、詳細不明。 北陪塚(幣塚、飛地い号) 東陪塚(飛地ろ号)

※この「陪塚」の解説は、「王塚古墳 (神戸市)」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「王塚古墳 (神戸市)」の記事については、「王塚古墳 (神戸市)」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 20:26 UTC 版)

両宮山古墳」の記事における「陪塚」の解説

両宮山古墳周辺では中小古墳数基が分布するが、そのうち次の1基は陪塚と推定される和田茶臼山古墳(わだちゃうすやまこふん所在地赤磐市和田位置形状帆立貝形古墳 規模墳丘55メートル後円部直径41.5メートル推定)、前方部長さ15メートル前方部幅19.5メートル 両宮山古墳後円部北側位置する墳丘主軸両宮山古墳とほぼ直交し前方部西方に向ける。墳丘2段築成と見られる。現在では墳丘後円部のみを遺存するが、発掘調査により前方部確認されたほか、2重周濠を伴うことが判明したまた、両宮山古墳同様に葺石埴輪検出されていない築造時期5世紀後半-末頃と推定される外濠両宮山古墳共有すると見られるなど、両宮山古墳とは計画的に配置され古墳様相類似することから、和田茶臼山古墳被葬者両宮山古墳被葬者親密な関係にあるとされる。 この和田茶臼山古墳古墳域は、1978年昭和53年)に国の史跡指定されている(史跡両宮山古墳」に追加指定)。 なお、両宮山古墳前面には森山古墳・正免東古墳非現存)も築造されるが、両古墳場合には葺石埴輪を伴う点が注目される一帯では朱千駄古墳小山古墳廻り山古墳といった古墳築造認められるが、埴輪はいずれにおいても検出されている。

※この「陪塚」の解説は、「両宮山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「両宮山古墳」の記事については、「両宮山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 05:53 UTC 版)

仁馬山古墳」の記事における「陪塚」の解説

古墳周辺では、北側南側次の各1基の陪塚(陪冢)の築造認められる。 仁馬山北墳 - 円墳畑地開墾の際の削り残しとする説もある。 仁馬山南墳 - 円墳

※この「陪塚」の解説は、「仁馬山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「仁馬山古墳」の記事については、「仁馬山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 21:56 UTC 版)

壇場山古墳」の記事における「陪塚」の解説

壇場山古墳周囲では陪塚数基(10程度か)の築造知られ、うち次の2基が現存する林堂東塚古墳りんどうひがしづかこふん、位置史跡壇場山古墳 第一、二、三古墳」のうち「第一古墳」。壇場山古墳後円部東側位置する墳丘大きく削られており、詳細不明之堂古墳(くしのどうこふん、位置史跡壇場山古墳 第一、二、三古墳」のうち「第二古墳」。壇場山古墳後円部南西側位置する墳丘大きく削られており、墳形不明墳丘やや西寄りには長持形石棺短辺部が露出しており、埋葬施設長持形石棺直葬とされる。名称の「之堂」は、この石棺形状が「の胴」に見えたことに由来する林堂東塚古墳第一古墳之堂古墳第二古墳之堂古墳墳頂の長持形石棺

※この「陪塚」の解説は、「壇場山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「壇場山古墳」の記事については、「壇場山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:53 UTC 版)

室宮山古墳」の記事における「陪塚」の解説

室宮山古墳北東には、陪塚としてネコ古墳猫塚古墳)がある(北緯3426分39.88秒 東経135度44分2.37秒 / 北緯34.4444111度 東経135.7339917度 / 34.4444111; 135.7339917 (陪塚:ネコ古墳))。このネコ古墳室宮山古墳の周堤に乗るようにして築造された方墳で、一辺70メートル、高さ約10メートル測る1888年明治21年)頃に発掘され竪穴式石室鉄器発見されたという。その後の調査では、墳丘表面から緑泥片岩刀剣類鉄鏃三尾三角板革綴短甲頸甲などが検出されている。 出土した甲冑類が多いことから、このネコ古墳被葬者武器庫管理者原初的官僚)と推定する説がある。

※この「陪塚」の解説は、「室宮山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「室宮山古墳」の記事については、「室宮山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:44 UTC 版)

太田天神山古墳」の記事における「陪塚」の解説

天神山古墳東北方には、陪塚と見られる円墳残存する(A陪塚、位置)。規模は、直径36メートル・高さ3.2メートル天神山古墳主軸延長線上に概ね位置し出土した円筒埴輪天神山古墳出土品同種になる。この陪塚の築造背景として、大阪府羽曳野市墓山古墳と陪塚の向墓山古墳形態指摘される。このA陪塚は『上毛古墳綜覧』では「九合村67号墳」として登載されている。 また、前方部南西隅の外堤上で古墳跡が認められており、こちらも天神山古墳の陪塚と想定されている(B陪塚、位置)。『上毛古墳綜覧』ではこの古墳登載はない。なお、B陪塚では古くから横穴存在言い伝えられており、天神山古墳とは無関係後期古墳可能性がある。 A陪塚 B陪塚想定

※この「陪塚」の解説は、「太田天神山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「太田天神山古墳」の記事については、「太田天神山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 04:19 UTC 版)

能褒野王塚古墳」の記事における「陪塚」の解説

宮内庁では能褒野墓の飛地陪冢(陪塚)としてい号・ろ号・は号・に号・ほ号の5基、域内陪冢としてい号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号・と号・ち号・り号の9基の計14基を治定する。 能褒野王塚古墳周囲では、以上14基のほか数基を加えた10数基の円墳方墳分布認められ、これらは「能褒野古墳群」と総称される。これらのほとんどについて、実際には陪塚ではなく古墳時代後期下って築造された古墳であると考えられている。 2011年度平成22年度)には15号墳(は号陪冢)・16号墳(ろ号陪冢に関して試掘調査実施され前者直径18メートル円墳後者直径18メートル円墳判明した。また周囲小円墳跡2基が認められ古墳群構成古墳数はさらに多くなる可能性指摘されている。また2013年度平成25年度)にも域内陪冢い号・ろ号・ほ号・へ号・と号・ち号・り号、飛地陪冢に号・ほ号に関して試掘調査実施されそのうち域内り号では横穴式石室確認されている。

※この「陪塚」の解説は、「能褒野王塚古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「能褒野王塚古墳」の記事については、「能褒野王塚古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/04 22:57 UTC 版)

白鳥古墳 (平生町)」の記事における「陪塚」の解説

陪塚(陪冢)としては、後円部南西18メートルに1基が存在する長軸24メートル短軸14メートル長方形状で、高さは約2.3メートル内部は未調査であり明らかでない。なお、陪塚ではなく白鳥古墳の周堤帯の一部と見る説もある。

※この「陪塚」の解説は、「白鳥古墳 (平生町)」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「白鳥古墳 (平生町)」の記事については、「白鳥古墳 (平生町)」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 23:12 UTC 版)

島泉丸山古墳」の記事における「陪塚」の解説

古墳の陪塚(陪冢)について考古学的に詳らかでない。一方で宮内庁では次の1基を陪冢治定している。 飛地い号(通称隼人の墓」、羽曳野市島泉7丁目:位置丸山古墳北方所在する古墳名は「隼人塚古墳はやとづかこふん)」。『日本書紀』記事上の雄略天皇殉死した隼人の墓に想定される一辺20メートル測る方墳とされるが、遺構・出土品築造時期などの内容詳らかでなく、立地的には丸山古墳の陪塚である可能性はあるがそれも詳らかでない。江戸時代には既に本古墳隼人の墓に比定する伝承存在しており、享保15年1730年)には並河誠所によって碑が建立されている。かつてはハイト塚」とも称され、現在も歯痛神として信仰される

※この「陪塚」の解説は、「島泉丸山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「島泉丸山古墳」の記事については、「島泉丸山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 23:59 UTC 版)

宝来山古墳」の記事における「陪塚」の解説

内の座標示した地図 - OSM内の座標出力 - KML 表示古墳の陪塚(陪冢)は定かでなく、考古学的には伴わなかったものと推測される宮内庁治定菅原伏見東陵陪冢は、湟内陪冢1ヶ所、飛地陪冢6ヶ所(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号)の計7ヶ所。詳細それぞれ次の通り。 湟内陪冢伝田道間守墓、奈良市尼ヶ辻町字西池位置宝来山古墳墳丘南東周濠内に浮かぶ小島宮内庁により田道間守の墓に仮託される。田道間守について、『日本書紀』『古事記』ではその墓に関する記載はないが、『釈日本紀』所引『天書逸文では景行天皇田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇近く葬ったとする。小島考古学的な調査行われていないが、江戸時代山陵絵図明治の『御陵図』に島の存在描かれていないため、実際に後世周濠拡張に伴う外堤削平の際に残され外堤一部推測される。ただし『廟陵記』などで周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の記載があることから、その塚を前提として小島残されたとする説もある。現在は小島対岸拝所設けられている。 飛地い号(通称兵庫山」、奈良市宝来町堂垣内位置宝来山古墳北西200メートル位置する遺跡名は「兵庫古墳」。直径40メートル測る大型円墳である。江戸時代には牛頭天皇社があったほか、元禄以後安康天皇陵に考定する説も散見される古墳南側には平城京三条大路が通るはずであり、三条大路はこの兵庫古墳によって狭められたものと推測される飛地ろ号(奈良市平松町字北内:位置宝来山古墳のくびれ部西方位置する内容詳らかでないが、実際に古墳である可能性指摘される飛地は号(奈良市尼ヶ辻町字中谷千手谷):位置宝来山古墳南方位置する内容詳らかでないが、実際に古墳である可能性指摘される飛地に号(奈良市尼ヶ辻町字馬田位置宝来山古墳前方部東方位置する内容詳らかでないが、実際に古墳である可能性指摘される飛地ほ号(奈良市尼ヶ辻町字天王位置宝来山古墳後円部東方位置する内容詳らかでない。 飛地へ号(奈良市尼ヶ辻町字上:位置宝来山古墳北東方に位置する内容詳らかでない。 以上のほか、宝来山古墳後円部西方には削平された古墳跡(平松北古墳)が認められており、溝の検出や、家形埴輪円筒埴輪出土があった。そのさらに西方でも円形地割残っており、そちらも古墳仮称宝来垣内古墳)の可能性指摘される。また以上を総合して宝来山古墳周囲には従属的な小型古墳群存在したとする説がある。 湟内陪冢 拝所 飛地ろ号 飛地は号 飛地に号 飛地ほ号 飛地へ号

※この「陪塚」の解説は、「宝来山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「宝来山古墳」の記事については、「宝来山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 21:17 UTC 版)

大仙陵古墳」の記事における「陪塚」の解説

陪塚は「ばいづか」と読み陪冢ばいちょう)ともいう。陪塚は近親者従者葬ったとされる大古墳の近く存在する小さな古墳である。大仙陵古墳宮内庁指定・管理する陪塚は12基ある。坊主山円墳直径10m)、源衛門山(円墳直径約40m)、大安寺山(円墳直径55m)、茶山円墳直径55m)、永山前方後円墳墳丘長104m、周濠あり)、丸保山帆立貝式、墳丘長87m、周濠あり)、山(帆立貝式、墳丘長36m、周濠あり)、の谷(円墳直径47m)、亀山方墳一辺26m)、狐山円墳直径23m)、竜佐山帆立貝式、墳丘長67m、周濠あり)、孫太夫山(帆立貝式、墳丘長56m、周濠あり)である。しかし永山古墳規模大きく造出し有する前方後円墳であること、坊主山三重外縁から264mと遠いことから陪塚とは考えにくい。逆に坊主山より近くありながら宮内庁指定していない塚廻(円墳直径35m)、鏡塚直径15m)、夕雲一丁南(方墳)、収塚(帆立貝式)、昭和初年頃まで存在していた帆立貝一基は陪塚の可能性が高い。以上により陪塚は15基あるとされている。 竜佐山古墳 孫太夫山古墳 永山古墳

※この「陪塚」の解説は、「大仙陵古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「大仙陵古墳」の記事については、「大仙陵古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 13:49 UTC 版)

コナベ古墳」の記事における「陪塚」の解説

コナベ古墳前方部西側から後円部北東にかけては、10基の陪塚が並んでいる。陪塚大和第16号-18号墳および大和第20号-26号墳がそれであり、古墳北側大和第16号墳と第17号墳が並び北東第18号墳と第20号墳が、北西には第21号墳と第22号墳がそれぞれ位置し前方部西側には、北より第23号墳、第24号墳、第25号墳、第26号墳の4基の陪塚が並ぶ。いずれも比較明瞭に確認することができ、周濠沿って整然と並んでいるため、古墳時代中期の陪塚の典型例として知られるまた、西側の陪塚と現況外堤とのあいだは、いわゆる周庭帯となっていて、この部分二重濠になる可能性がある。 10基の陪塚は、北西立地する大和第21号墳が径42メートル円墳であるほかは、すべて一辺11メートルないし35メートル方墳であり、うち7基は陵墓参考地指定されている。1997年大和20号墳の発掘調査により、コナベ古墳後円部中心から陪塚へ延伸した線と、それぞれの方墳陪塚の中軸線が重なるのではないか考えられるようになったまた、大和第20号墳の周濠では、石をふいて苑池とした遺構が見つかっており、上述コナベ古墳における奈良期の石敷遺構同様のものと見なされている。第20号墳は陪塚ながら周濠ともない、そこからは円筒埴輪朝顔形埴輪のほか、家形埴輪壺形埴輪埴輪などの形象埴輪出土している。

※この「陪塚」の解説は、「コナベ古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「コナベ古墳」の記事については、「コナベ古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 20:16 UTC 版)

女狭穂塚古墳」の記事における「陪塚」の解説

男狭穂塚古墳女狭穂塚古墳周辺では、円墳2基(西都原169号墳・西都原170号墳)・方墳1基(西都原171号墳)の計3基の古墳築造されており、いずれも男狭穂塚古墳または女狭穂塚古墳の陪塚(陪冢)と推測されるいずれも陵墓参考地治定外)。本項目では女狭穂塚古墳と関係が深いと見られる西都原169号墳・西都原171号墳について解説する西都原170号墳については「男狭穂塚古墳#陪塚」参照)。 西都原169墳 形状:円墳 規模直径49メートル、高さ6.5メートル、周堀幅7.5-10メートル 調査歴1912年大正元年発掘調査、1998-2003年(平成10-15年宮崎県教育委員会による再調査 男狭穂塚古墳西側位置する西都原170号墳と並び西都原古墳群では最大級円墳である。墳丘3段築成。墳丘表面では、墳頂・テラス円筒埴輪列が、斜面葺石認められているほか、形象埴輪(壺形・家形形・盾形・靫形・甲形・冑形・船形埴輪)が樹立したとされる主体部埋葬施設不明であるが木棺直葬可能性が高いとされ発掘調査では小型珠文鏡・直刀刀子鉄斧銅釧・竹鉄鏃等が検出されている。以上より築造年代5世紀前半頃と推定される男狭穂塚古墳に近い位置であるが、出土埴輪特徴女狭穂塚古墳酷似する。なお、かつて埴輪子持家(国の重要文化財)および埴輪船国の重要文化財)がこの169号墳出土とされていたが、再調査により170号墳出土確認されている。 西都原171墳 形状:方墳 規模一辺約20.8メートル 調査歴1912年大正元年発掘調査、1998-2001年(平成10-13年宮崎県教育委員会による再調査 女狭穂塚古墳西側位置する西都原古墳群では2基しかない方墳1つ(もう1基は常心塚古墳 - 西都市上三財)。墳丘2段築成。墳丘表面では、葺石のほか墳頂・テラス円筒埴輪列が認められているほか、壺形埴輪形象埴輪家形盾形形・短甲埴輪)が検出されている。墳丘北西-南西-南東の3辺には周堀が巡らされる。以上より築造年代5世紀前半頃と推定される位置および出土埴輪から女狭穂塚古墳の陪塚と推測されるほか、女狭穂塚古墳相似形仲津山古墳大阪府藤井寺市)の陪塚が方墳であることとの関連性指摘される

※この「陪塚」の解説は、「女狭穂塚古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「女狭穂塚古墳」の記事については、「女狭穂塚古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 14:51 UTC 版)

雲部車塚古墳」の記事における「陪塚」の解説

雲部車塚古墳周囲では陪塚(陪冢)数基の築造知られ、うち次の3基が現存する。 南陪塚(北緯35度5分8.94秒 東経135度18分15.55秒 / 北緯35.0858167度 東経135.3043194度 / 35.0858167; 135.3043194 (陪塚:南陪塚(い号陪冢)))宮内庁治定飛地い号 雲部車塚古墳の南に位置する詳細明らかでないが、直径30メートル円墳状をなす。 北陪塚(北緯35度5分16.10秒 東経135度18分16.03秒 / 北緯35.0878056度 東経135.3044528度 / 35.0878056; 135.3044528 (陪塚:北陪塚(ろ号陪冢)))宮内庁治定飛地ろ号 雲部車塚古墳の北に位置する詳細明らかでないが、一辺27メートル方墳状をなす。 飯塚古墳(イ塚古墳北緯35度5分13.67秒 東経135度18分10.62秒 / 北緯35.0871306度 東経135.3029500度 / 35.0871306; 135.3029500 (陪塚:飯塚古墳))宮内庁治定:なし 雲部車塚古墳の西の小山上位置する直径30メートル円墳。ただし雲車塚古墳先行古墳可能性がある。 上記のほか、絵図によれば車塚鳥居塚2基・牛塚(塚)・隔塚・県守塚があったという(いずれも非現存)。 南陪塚(飛地い号) 北陪塚(飛地ろ号) 飯塚古墳

※この「陪塚」の解説は、「雲部車塚古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「雲部車塚古墳」の記事については、「雲部車塚古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:55 UTC 版)

西陵古墳」の記事における「陪塚」の解説

西陵古墳北方には第一古墳北緯3419分43.99秒 東経135度10分7.34秒 / 北緯34.3288861度 東経135.1687056度 / 34.3288861; 135.1687056 (陪塚:第一古墳))、第二古墳北緯3419分45.31秒 東経135度10分6.97秒 / 北緯34.3292528度 東経135.1686028度 / 34.3292528; 135.1686028 (陪塚:第二古墳))の円墳2基があり、いずれも西陵古墳の陪塚とされる。これらは西陵古墳とともに国の史跡指定されている。 なお、かつては陪塚と見られる古墳がもう1基存在したが、線路敷設時に破壊された。その際提瓶2個、高坏1個、壺2個、平瓶1個、刀身断片鉄鏃2本が出土したという。 第一古墳 第二古墳

※この「陪塚」の解説は、「西陵古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「西陵古墳」の記事については、「西陵古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:43 UTC 版)

作山古墳」の記事における「陪塚」の解説

作山古墳の陪塚(陪冢)の存在明らかでないかつては、くびれ部南側にある小丘陵が陪塚と見られ「作山第1古墳」と称されていたが、実際に前方部前面のものと同様に、未削平の残丘1つと見られる。なお、作山古墳北側丘陵尾根上には前方後円墳野宮古墳存在知られるが、作山古墳との関係は明らかでない

※この「陪塚」の解説は、「作山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「作山古墳」の記事については、「作山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:11 UTC 版)

男狭穂塚古墳」の記事における「陪塚」の解説

男狭穂塚古墳女狭穂塚古墳周辺では、円墳2基(西都原169号墳・西都原170号墳)・方墳1基(西都原171号墳)の計3基の古墳築造されており、いずれも男狭穂塚古墳または女狭穂塚古墳の陪塚(陪冢)と推測されるいずれも陵墓参考地治定外)。本項目では男狭穂塚古墳と関係が深いと見られる西都原170号墳について解説する西都原169号墳・西都原171号墳については「女狭穂塚古墳#陪塚」参照)。 西都原170墳 形状:円墳 規模直径47メートル、高さ3.5メートル 調査歴1912年大正元年発掘調査2004-2006年平成16-18年宮崎県教育委員会による再調査 女狭穂塚古墳西側位置する西都原169号墳と並び西都原古墳群では最大級円墳である。墳丘3段築成。墳丘表面では墳頂に円筒埴輪列や家形埴輪認められるが、葺石認められていない主体部埋葬施設不明であるが木棺直葬可能性が高いとされ発掘調査では短甲頸甲肩甲直刀鉄鏃等が検出されている。以上より築造年代5世紀前半頃と推定される男狭穂塚古墳女狭穂塚古墳とは等距離位置するが、出土埴輪特徴男狭穂塚古墳酷似する。 なお、再調査での出土埴輪片の検討により、埴輪子持家(国の重要文化財)および埴輪船国の重要文化財)はこの170号墳出土であることが確認されている(かつては169号墳出土とされた)。埴輪子持家は全長95.6センチメートルで、伏屋建物主屋)の四方に壁建式の附属屋入母屋造切妻造2棟ずつ)がとりつく類例のない埴輪になる。また埴輪船船形埴輪)は全長100.7センチメートルで、準構造船を表現しており、写実性が非常に高い埴輪になる。 埴輪 子持家(国の重要文化財東京国立博物館展示埴輪 船国の重要文化財東京国立博物館展示

※この「陪塚」の解説は、「男狭穂塚古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「男狭穂塚古墳」の記事については、「男狭穂塚古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 14:11 UTC 版)

行燈山古墳」の記事における「陪塚」の解説

内の座標示した地図 - OSM内の座標出力 - KML 表示 宮内庁治定山辺道勾岡上陵の陪塚(陪冢)は、域内陪冢1ヶ所、飛地陪冢3ヶ所(い号・ろ号・は号)の計4ヶ所。詳細それぞれ次の通り域内陪冢通称アンド山」、位置山辺道勾岡上拝所北側位置する古墳名は「アンド古墳」。前方後円墳で、墳丘120メートル測る段築認められず、葺石埴輪不明周濠は本来存在しない推測される主体部埋葬施設竪穴式石室と見られる築造時期行燈山古墳同時期と推定される飛地い号(通称柘榴塚」、天理市柳本町位置行燈山古墳後円部南側位置する。陪塚の可能性は薄いと見られる飛地ろ号(通称百塚」「白塚」「臼塚」、天理市柳本町位置行燈山古墳前方部南側位置する。陪塚の可能性は薄いと見られる飛地は号(通称「南アンド山」、天理市柳本町位置山辺道勾岡上拝所南側位置する古墳名は「南アンド古墳」。前方後円墳で、墳丘65メートル測る段築認められず、葺石埴輪不明周濠は本来存在しない推測される築造時期行燈山古墳同時期と推定される。 以上のほか、行燈山古墳西側にある大和天神山古墳天理市柳本町奈良県指定史跡)も行燈山古墳の陪塚とする説がある。この大和天神山古墳前方後円墳で、墳丘103メートル測る墳丘の東半は国道169号建設で削平されているが、その工事先立つ1960年昭和35年)の発掘調査奈良県立橿原考古学研究所)で、竪穴式石室から内行花文鏡4面などの銅鏡23面を含む副葬品多数国の重要文化財)が検出されている。これらの資料行燈山古墳考察する上で重要視される築造時期3世紀後半-4世紀前半頃と推定される域内陪冢アンド古墳左手前に後円部、右奥に前方部飛地い号 飛地ろ号 飛地は号(南アンド古墳)左に後円部、右に前方部大和天神山古墳

※この「陪塚」の解説は、「行燈山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「行燈山古墳」の記事については、「行燈山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 14:08 UTC 版)

網野銚子山古墳」の記事における「陪塚」の解説

網野銚子山古墳周囲では、次の陪塚2基の築造知られる。 小銚子古墳北緯3540分36.25秒 東経135度1分44.82秒 / 北緯35.6767361度 東経135.0291167度 / 35.6767361; 135.0291167 (小銚子古墳))史跡銚子山古墳 第一、二古墳」のうち「第一古墳」。網野銚子山古墳墳丘主軸延長線上、南西側後円部側)に位置する円墳で、直径36メートル・高さ4.8メートル測る墳丘2段築成。葺石埴輪認められている。主体部埋葬施設明らかでない寛平法皇古墳北緯3540分44.31秒 東経135度1分51.04秒 / 北緯35.6789750度 東経135.0308444度 / 35.6789750; 135.0308444 (寛平法皇古墳))史跡銚子山古墳 第一、二古墳」のうち「第二古墳」。網野銚子山古墳墳丘主軸延長線上、北東側前方部側)に位置する古墳名はかつて宇多天皇寛平法皇)の廟所とする伝承があったことによる古墳時代相違)。現在は墳丘上に祠が鎮座するほか、石組巡らされ大きく改変加えられている。元々の墳形明らかでない。 本古墳については、江戸時代中期の『丹後宮津府志』や『丹哥府志』において、「寛平法皇陵」の名称で埋葬施設・出土品に関する事柄記載される。これによれば石櫃石棺または石室か:石室であれば古墳時代後期-終末期網野銚子山古墳無関係)があり、内部石枕のほか大刀1点陶器14-15点・勾玉見えたため、埋め戻して祠を建てたという。付近本覚寺には、この寛平法皇古墳からの出土という凝灰岩石枕伝世されるが、文献とは大きさ異なるため、確実に古墳からの出土かは明らかでない。この石枕京丹後市指定有形文化財指定されている。 小銚子古墳 寛平法皇古墳

※この「陪塚」の解説は、「網野銚子山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「網野銚子山古墳」の記事については、「網野銚子山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/30 23:39 UTC 版)

大鳥塚古墳」の記事における「陪塚」の解説

古墳では、次の1基が陪塚(陪冢)と推定される赤面山古墳せきめんやまこふん)所在地藤井寺市古室2丁目位置形状方墳 規模一辺15メートル 史跡指定:国の史跡赤面山古墳」(史跡古市古墳群」のうち) 主体部埋葬施設等詳細明らかでない

※この「陪塚」の解説は、「大鳥塚古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「大鳥塚古墳」の記事については、「大鳥塚古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 00:55 UTC 版)

明合古墳」の記事における「陪塚」の解説

明合古墳周辺では5基の方墳認められており(かつては8基存在か)、これらは明合古墳の陪塚と推測される各古墳詳細次の通り。 陪塚1号墳一辺8.0メートル大きく平されている。 陪塚2号墳通称小塚」)一辺22.0メートル残存する陪塚の中では最大規模北東部が削平を受けているがほぼ完存し葺石円筒埴輪列が認められる。 陪塚3号不明大きく平されている。 陪塚4号一辺16.0メートル西側が削平を受けている。付近では円筒埴輪片・形象埴輪片(形・盾形埴輪)・初期須恵器片が認められる。 陪塚5号墳一辺15.1メートル西側が削平を受けている。付近では埴輪片が散在するいずれも主体部埋葬施設および副葬品は未調査のため明らかでない。なお4号墳の西側には6号墳があったといわれるが、昭和30年頃の開墾消滅している。また主墳2号墳の間および西辺外側には基壇状地の痕跡認められており、祭祀地の可能性指摘される。 陪塚1号墳 陪塚3号墳 陪塚4号墳 陪塚5号墳 陪塚2号墳出土 須恵器台安郷土資料館展示

※この「陪塚」の解説は、「明合古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「明合古墳」の記事については、「明合古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 01:29 UTC 版)

摩湯山古墳」の記事における「陪塚」の解説

内の座標示した地図 - OSM内の座標出力 - KML内の座標出力 - GPX 位置データ出力 - RDF表示 摩湯山古墳付近には陪塚(陪冢)と推定される古墳として、南側馬子古墳位置)、北側イナリ古墳稲荷山古墳位置)がある。またメゲ谷という地に狐塚があったというほか、摩湯山古墳北東側淡路神社式内社境内でも円筒埴輪出土しており、同地でも古墳存在推定される。 それらのうち馬子古墳は、摩湯山古墳南側所在する方墳で、一辺35メートル測る墳丘2段築成。墳丘表面では円筒埴輪存在するとされる主体部埋葬施設粘土槨推定される1958年昭和33年)の長池摩湯山古墳前方部正面の池)の堤補修工事の際に墳丘大きく平されているが、その際に斜縁二神鏡・管玉15個が出土している。築造時期4世紀後半(または5世紀初頭)頃と推定される

※この「陪塚」の解説は、「摩湯山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「摩湯山古墳」の記事については、「摩湯山古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 22:28 UTC 版)

夫婦塚古墳 (鹿嶋市)」の記事における「陪塚」の解説

夫婦塚古墳では陪塚と見られる古墳として、後円部東側において次の2基が認められている。 北側古墳円墳直径17.5メートル、高さ1.25メートル周濠葺石等の詳細不明南側古墳円墳直径15.0メートル、高さ1.0メートル周濠葺石等の詳細不明

※この「陪塚」の解説は、「夫婦塚古墳 (鹿嶋市)」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「夫婦塚古墳 (鹿嶋市)」の記事については、「夫婦塚古墳 (鹿嶋市)」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/28 19:55 UTC 版)

淡輪ニサンザイ古墳」の記事における「陪塚」の解説

古墳には後円部取り囲むように陪塚7基があったといわれる。現在は6基が現存し宮内庁により宇度墓陪冢治定されている。

※この「陪塚」の解説は、「淡輪ニサンザイ古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「淡輪ニサンザイ古墳」の記事については、「淡輪ニサンザイ古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 23:47 UTC 版)

狐井塚古墳」の記事における「陪塚」の解説

宮内庁によって治定されている陪冢(陪塚)は次の5基。 飛地い号(大和高田市池田) - 円墳直径6メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地ろ号(大和高田市池田) - 円墳直径13メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地は号(大和高田市池田) - 円墳直径15メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地に号(大和高田市敷島町) - 円墳直径15メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地ほ号(領家1号墳大和高田市池田) - 円墳直径20メートル周濠有する出土品として埴輪円筒形家形盾形・靫形)・須恵器がある。 飛地い号 飛地ろ号 飛地は号 飛地に号 飛地ほ号(領家1号墳

※この「陪塚」の解説は、「狐井塚古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「狐井塚古墳」の記事については、「狐井塚古墳」の概要を参照ください。


陪塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 00:19 UTC 版)

富田茶臼山古墳」の記事における「陪塚」の解説

富田茶臼山古墳の陪塚(陪冢)としては、次の方墳3基が知られるいずれも後世に削平を受けて現在は地面にほぼ表出しないが、1993-1996年度(平成5-8年度)の発掘調査確認された。 1号陪塚(北緯3415分37.11秒 東経13414分32.76秒 / 北緯34.2603083度 東経134.2424333度 / 34.2603083; 134.2424333 (1号陪塚))長方形で、長辺16メートル×短辺14メートル葺石円筒埴輪検出されている。 2号陪塚(北緯3415分34.41秒 東経13414分33.65秒 / 北緯34.2595583度 東経134.2426806度 / 34.2595583; 134.2426806 (2号陪塚))長方形で、長辺24メートル×短辺20メートル墳丘2段築成。葺石円筒埴輪検出されている。 3号陪塚(北緯3415分33.18秒 東経13414分34.37秒 / 北緯34.2592167度 東経134.2428806度 / 34.2592167; 134.2428806 (3号陪塚))方形推定)で、一辺20-24メートル円筒埴輪検出されている。葺石不明。 これら古墳3基の築造企画には富田茶臼山古墳本体築造企画との一致見られ富田茶臼山古墳築造当初からの計画的配置推測される

※この「陪塚」の解説は、「富田茶臼山古墳」の解説の一部です。
「陪塚」を含む「富田茶臼山古墳」の記事については、「富田茶臼山古墳」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「陪塚」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陪塚」の関連用語

陪塚のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陪塚のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陪塚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの造山古墳 (岡山市) (改訂履歴)、王塚古墳 (神戸市) (改訂履歴)、両宮山古墳 (改訂履歴)、仁馬山古墳 (改訂履歴)、壇場山古墳 (改訂履歴)、室宮山古墳 (改訂履歴)、太田天神山古墳 (改訂履歴)、能褒野王塚古墳 (改訂履歴)、白鳥古墳 (平生町) (改訂履歴)、島泉丸山古墳 (改訂履歴)、宝来山古墳 (改訂履歴)、大仙陵古墳 (改訂履歴)、コナベ古墳 (改訂履歴)、女狭穂塚古墳 (改訂履歴)、雲部車塚古墳 (改訂履歴)、西陵古墳 (改訂履歴)、作山古墳 (改訂履歴)、男狭穂塚古墳 (改訂履歴)、行燈山古墳 (改訂履歴)、網野銚子山古墳 (改訂履歴)、大鳥塚古墳 (改訂履歴)、明合古墳 (改訂履歴)、摩湯山古墳 (改訂履歴)、夫婦塚古墳 (鹿嶋市) (改訂履歴)、淡輪ニサンザイ古墳 (改訂履歴)、狐井塚古墳 (改訂履歴)、富田茶臼山古墳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS