江田船山古墳とは? わかりやすく解説

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えたふなやま‐こふん【江田船山古墳】

読み方:えたふなやまこふん

熊本県玉名郡(なごみ)町にある5世紀前方後円墳。銀象眼銘文のある鉄製太刀出土した


江田船山古墳 (えたふなやまこふん)


江田船山古墳
附 塚坊主古墳・虚空蔵塚古墳

名称: 江田船山古墳
 附 塚坊主古墳・虚空蔵塚古墳
ふりがな えたふなやまこふんつけたりつかぼうずこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 熊本県
市区町村 玉名郡和泉町
管理団体 和泉町(昭36・825)
指定年月日 1951.06.09(昭和26.06.09)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日 昭和60.01.16
解説文: 船山古墳台地上に築かれ前方後円墳南西面し封土総長47メートル有する後円部中央に口を西に開いた横口式石棺があり前面に短い羨道状の架構具へている。石棺はその構造頗る雄大整美で屋根型を呈し前後面及び側面夫々一個縄掛突起造り出し身は四切石組合せ正面右の中央戸口穿っている。明治六年に発掘され帶金具、履、玉類、兜、鎧、刀剣鉾、鉄鏃馬具土器多数の■篏の銘のある刀身初めとして各種の裝■の構造特殊な点及び出土遺物特異なに於て我国の古墳中でも極めて顯著なものであり、古代文化を知る上に重要な遺跡である。又塚坊主古墳船山古墳南々西方にあり、前方円型後円部の南寄り天井部を失った横穴式石室遺存している。虚空蔵塚古墳船山古墳南々西方に位置し二段築成の円墳である。
壯大にして整正墳丘をなし、しかも特殊な外形示している点に於て特に価値あるものであり、我国の古代文化を知る上に重要な遺跡である。
S51-6-030江田船山古墳附塚坊主古墳・虚空蔵塚古墳.txt: 国見山系に源を発する菊地川中流域、その左岸には多くの低い台地発達している。その一つ江田台地には史跡江田船山古墳がある。
 この古墳全長50メートル前方後円墳で、後円部組合式家石棺置かれ、とくに銀象嵌銘鉄製環頭大刀出土は本古墳著名にし、昭和26年6月には史跡指定された。既指定地墳丘部を中心として指定したが、昭和50年実施され台地一帯確認調査結果、幅約20メートル周濠墳丘をめぐる事実判明した。そのためこの地域追加指定し古墳全域保存図ろうとするものである
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江田船山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/17 03:56 UTC 版)

江田船山古墳

墳丘(手前に前方部、右奥に後円部)
所在地 熊本県玉名郡和水町江田
位置 北緯32度58分16.63秒 東経130度36分0.02秒 / 北緯32.9712861度 東経130.6000056度 / 32.9712861; 130.6000056座標: 北緯32度58分16.63秒 東経130度36分0.02秒 / 北緯32.9712861度 東経130.6000056度 / 32.9712861; 130.6000056
形状 前方後円墳
規模 全長62m、高さ10m
出土品 銀象嵌銘大刀、銅鏡など(国宝
築造時期 5世紀-6世紀初頭
被葬者 ムリテ、他
史跡 1951年昭和26年)国の史跡
有形文化財 出土品(国宝
地図
江田船山
古墳
熊本県内の位置
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江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀(鉄刀)が出土したことで著名である[1]。国の史跡に指定されている。

概要

この古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測され、墳丘長62メートル[注 1]あり、盾形の周濠をもつ。古墳は1873年(明治6年)以降発掘され[2]、豊富な副葬品が出土している。これらの大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定されている[2]

古墳の周りには、短甲[3]を着けた武人の石人が配置されている。このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳[4]に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳[5]で最盛期を迎え、以後、消滅する。この岩戸山古墳が527~8年にヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の墓であると目されている。江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。なお、最近の研究では、この古墳の被葬者は3名であると考えられている[1]

鉄刀銘文

銀象嵌銘大刀(国宝)
東京国立博物館
銀象嵌による魚と鳥
銀象嵌による馬と花
(写真では花は不鮮明)

出土品のうち銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直刀には以下の75字の銘文がある。

  • 台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也(読みは東野治之による)
  • この銘文の読み方や内容、意義等については銀象嵌銘大刀の項目を参照。

大刀の刀身の平地には片面に花と馬、片面に魚と鳥が銀象嵌で表され、上記の銘文は棟の部分に銀象嵌で表されている。銘文にある「獲□□□鹵大王」は、を「蝮(たじひ)」、を「歯」と読んで、反正天皇 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが分かった。ワカタケル大王は、雄略天皇に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土したことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたことを示す[2]

被葬者のムリテ(无□(利ヵ)弖:无利弖)は雄略の宮廷で役所に勤務する文官「典曹人(てんそうじん)」として仕えた。また、東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」として仕えた。5世紀中葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させ、王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。

なお、金錯銘鉄剣の銘文は両刃剣の側面の幅広い部分に大きく彫られているが、銀象嵌銘大刀の銘文は片刃刀の幅の狭い峰(背)の部分に彫られている。金錯銘鉄剣と比べても判読不明な字が多いことの一因である。大正末期に日本刀研師により研磨された[6]ために象嵌が失われたと考えられている。

副葬品

短甲・頸甲・衝角付冑
金銅竜文透彫冠帽
金銅亀甲文冠帯金具残欠
神人車馬画像鏡 後漢 - 三国時代
金製長鎖三連式耳飾

以下の出土品が「肥後江田船山古墳出土品」の名称で、一括して国宝に指定されている(東京国立博物館蔵)。

  • 銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)1口
  • 金銀錯竜文鐶頭大刀(きんぎんさくりゅうもんかんとうたち)1口
  • 銀荘鐶頭大刀 1口
  • 刀剣類
    • 大刀身 11口
    • 剣身 6口
    • 銀刀荘具 一括
    • 鉾身 3口
    • 鉄鏃(てつぞく)残欠共一括
  • 銅鏡
    • 神人車馬画象鏡 1面
    • 画文帯神獣鏡 3面
    • 獣帯鏡 1面
    • 変形四獣鏡 1面
  • 玉類
    • 硬玉勾玉 1箇
    • 石製勾玉 2箇
    • ガラス勾玉 2箇
    • 碧玉管玉 24箇
    • 水晶丸玉 1箇
    • 銀製丸玉 1箇
    • ガラス玉 一括
  • 金鐶 1対
  • 耳飾
    • 金製長鎖三連式耳飾 1対
    • 金製心葉形垂飾付耳飾 1対
  • 冠帽類
    • 金銅竜文透彫冠帽 1箇
    • 金銅忍冬文冠帯金具残欠 1箇
    • 金銅亀甲文冠帯金具残欠 1箇
  • 金銅斜交文飾金具残欠 一括
  • 金銅飾履(しょくり)1足
  • 金銅帯金具 1箇
  • 金飾金具残欠 8箇
  • 甲冑
    • 衝角付冑(しょうかくつきかぶと)1頭
    • 短甲 残欠共 2領分(横矧板鋲留短甲、横矧板革綴短甲)
    • 鉄頸甲(あかべよろい)残欠 1領分
  • 馬具
    • 鉄轡(くつわ)鉄地金銅張鏡板付 1具
    • 鉄轡 1具
    • 鉄輪鐙(わあぶみ)1対
  • 銅鐶鈴 1箇
  • 須恵器
    • 蓋碗 1箇
    • 提瓶残欠 1箇
  • 附:其他出土品一切

多数の中国・朝鮮系の遺物が含まれていることが注目される。

史跡指定

1873年(明治6年)、地元の人物・池田佐十が「夢のお告げ」を受けて古墳を掘ったことが、江田船山古墳出土品発見の端緒となった。明治政府は白川県(現:熊本県)と交渉の上、発掘品を佐十から当時の金額90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移した[1]

整形をなし、しかも特殊な外観を示し、後円部に組合式家形石棺が置かれ、とくに銀象嵌銘の鉄製大刀が出土したところから古代文化を知るきわめて重要な遺跡として1951年(昭和26年)6月9日、国の史跡に指定された。

なお、1975年(昭和50年)に実施された江田台地一帯の確認調査の結果、幅約20メートルの周濠が墳丘をめぐる事実が判明したため、翌1976年(昭和51年)6月30日には、近接する塚坊主古墳および虚空蔵塚古墳が江田船山古墳の附(つけたり)として、国の史跡に追加指定されている。

交通アクセス

注釈

  1. ^ 周囲掘削によって、現在はより小さくなっている。『街道の日本史51 火の国と不知火海』p70

脚注

  1. ^ a b c 岩本税、島津義昭、水野公寿、柳田快明『新≪トピックスで読む≫熊本の歴史』弦書房、2007年、32頁。ISBN 978-4-902116-85-4 
  2. ^ a b c 松本寿三郎、吉村富雄『街道の日本史51 火の国と不知火海』(第一刷)吉川弘文館、2005年、70-72頁。 ISBN 4-642-06251-3 
  3. ^ 古墳時代に用いられた「よろい」の一種で、丈が短く、鉄または革製の板を革紐綴じまたは鋲留めして構成した。
  4. ^ 筑後市、130メートル
  5. ^ 八女市、132メートル
  6. ^ 象嵌された遺物のプラズマによる保存処理について、『保存科学』第34号(1995年)、東京文化財研究所保存科学研究センター

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