石人山古墳とは? わかりやすく解説

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八女古墳群
乗場古墳
石人山古墳
岩戸山古墳
善蔵塚古墳
弘化谷古墳
丸山塚古墳
丸山古墳
茶臼塚古墳

名称: 八女古墳群
 乗場古墳
 石人山古墳
 岩戸山古墳
 善蔵塚古墳
 弘化谷古墳
 丸山塚古墳
 丸山古墳
 茶臼塚古墳
ふりがな やめこふんぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 福岡県
市区町村 八女市吉田宅間・本、八女郡広川町筑後市
管理団体 八女市(大11・11・7),広川町(昭13・929),八女市(昭33・528),広川町(昭521118),広川町(昭521118)
指定年月日 1978.03.24(昭和53.03.24)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 前方圓型ニシテ丘陵頂上部ニ在リ後圓部石槨壁面ニ赤白及ビ緑ノ三色ヲ以テ文様ヲ描ク
長峯丘陵一部利用シテ築造セル前方後圓墳ナリ 封土二段ニ築カレ長徑三百七十尺、後圓部ノ徑約百七十四尺、前方部ノ幅約百八十六アリ周圍ニ空濠ノ阯ヲ存ス、後圓部前面ニハ武裝セル石人アリ小堂ヲ建テ之ヲ被覆セリ 又後圓部中央地下約九尺ニ石棺露出セシガ近年其ノ上部發掘シテニ直弧紋ヲ刻シ朱塗ヲ施セルコトヲ發見セリ 本古墳封土上ノ石人古來著名ノモノナリシガ裝飾モ亦稀有ノモノナリ
大字吉田の台陵上に存する前方後円墳で、前方部は西に面し墳丘主軸長さ約145mを有する宏壮なのである。現在、墳丘の南縁の一部道路通じ後円部及び前方部頂上社殿設けられてやや旧状を損し内部構造明かでないが、堀跡及び外堤とどめており、殊にこれらは北側及び西側において顕著である。會て西側及び北側外堤から円筒埴輪列が検出され東北側の外堤接す方形台地上から石頭部石人各種形象埴輪発見された。また封土内からも多数石人・石馬石盾・石壷等が出土した
この古墳は「筑後風土記」に見え筑紫国造磐井の墓墳の記事一致する部分もあることにおいて注意
S52-12-055八女古墳群(新名称).txt: 福岡県南部、築後平野に東方水繩山系から張り出した長峯丘陵上には大規模な八女古墳群が営まれている。これらは筑紫国造磐井一族との関連考えられる九州地方で最も著名な古墳群であり、東西約2~3キロメートル丘陵上の前方後円墳と約60基の円墳形成されている。そのうち前方後円墳乗馬古墳・石人山古墳・岩戸山古墳善蔵塚古墳の4基、円墳弘化谷古墳1基、計5基はすでに指定されていたが、新たに丸山塚古墳丸山古墳、英臼塚古墳の3基を追加指定し従前個別指定していたもの統合し、八女古墳群の名称で一括指定し、それらの保護図ろうとするものである
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石人山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 08:40 UTC 版)

石人山古墳
所属 八女古墳群
所在地 福岡県八女郡広川町一條
位置 北緯33度14分14.5秒 東経130度31分03.4秒 / 北緯33.237361度 東経130.517611度 / 33.237361; 130.517611座標: 北緯33度14分14.5秒 東経130度31分03.4秒 / 北緯33.237361度 東経130.517611度 / 33.237361; 130.517611
形状 前方後円墳
規模 全長107m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 石人、埴輪
築造時期 5世紀前半~中頃
被葬者 (推定)筑紫君磐井の祖父
史跡 昭和13年(1938年)国の史跡
特記事項 装飾古墳
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石人山古墳(せきじんさんこふん)は、福岡県八女郡広川町一條にある古墳。形状は前方後円墳八女古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「八女古墳群」のうち)。

筑紫君磐井の祖父の墓と推定される。また、かつては筑紫君磐井の墓に比定されていた[1]

概要

  • 墳丘長約107メートル[1]
  • 前方部幅約63メートル・高さ約11メートル
  • 後円部径約53メートル・高さ約12メートル

前方部2段、後円部3段の築成で、北側のくびれ部には造出が現存する。築造当初は周濠・周堤を有していたとみられ、現在でも前方部西側と後円部東側に周濠・周堤の一部が確認できる。

墳形や出土した須恵器の年代観から5世紀前半~中頃に築造されたと考えられ、岩戸山古墳の被葬者である筑紫君磐井の数世代前にあたり、磐井の祖父の墓ではないかとも考えられている[1]

当古墳は昭和13年(1938年)8月8日に国の史跡に指定された。昭和53年(1978年)3月24日付けで、史跡の追加指定・統合指定が行われ、指定名称が「八女古墳群」に変更された。[2][3]

石棺

家型石棺

後円部中央には緑泥片岩の平石積みによる古式の横穴式石室があり、内部に横口式組合式家形石棺が安置されている。蓋は寄棟造で底辺長2.8メートル、妻側に縄掛突起が造り出されている。身は4枚の板石を組み合わせており、高さ1.4メートル・長さ2.3メートルである。石棺蓋には直弧文や重圏文が浮き彫りされ、さらに丹彩されているが、これは最古期の装飾古墳として重要である[1]。石室は江戸時代に開口され天井部は失われているが[4]、保護施設に覆われておりのぞき込むようにして見学できる。

石人

石人

石室前の石人社には、国の重要文化財で古墳の名前の由来でもある武装石人が一体、石室側に背を向けて安置されている。この石人は古くから知られ、江戸時代の古記録にも登場する。みやま市石神山古墳の武装石人と並んで南筑後地区最古期のものである[1]。阿蘇溶結凝灰岩製で、高さ約1.8メートル、三角板短甲草摺をつけ、左脇には石刀を帯びるための抉り込みが見られる[1]

現在顔は潰れ、上半身の模様は不鮮明になっているが、江戸時代の模写図には目・鼻・口が描かれ往時をしのぶことが出来る。このような姿になった理由は、手足や腰、肩などに痛みがある人が、石人の同じ所を打つとそれが治ると信じられ、打ったりなでたりされてきたためである[5]

文化財

国の史跡

  • 石人山古墳(史跡「八女古墳群」のうち)
    1938年(昭和13年)8月8日、「石人山古墳」として国の史跡に指定。
    1978年(昭和53年)3月24日、既指定の史跡「岩戸山古墳」・「乗場古墳」・「石人山古墳」・「善蔵塚古墳」の4件を統合、丸山塚古墳・丸山古墳・茶臼塚古墳を追加指定して、「八女古墳群」に名称変更[6]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c d e f 「岩戸山歴史資料館 展示図録」14-16頁
  2. ^ 『図説日本の史跡3 原始3』、同朋舎出版、1991、p.206
  3. ^ 既指定の史跡「岩戸山古墳」「乗場古墳」「石人山古墳」「善蔵塚古墳」「弘化谷古墳」の5件を統合し、未指定の古墳3基(丸山塚古墳、丸山古墳、茶臼塚古墳)を追加指定したうえで、指定名称を「八女古墳群」とした。
  4. ^ 「日本古墳大辞典」313頁
  5. ^ 石人山古墳の武装石人 筑後市
  6. ^ 八女古墳群 - 国指定文化財等データベース(文化庁

関連項目

外部リンク



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