銘文(めいぶん)
金石文
金石文(きんせきぶん)は、金属や石などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指す。土器や甲骨などの類に刻まれたものを含む場合もある。
ここでは主として記念性、永遠性を持った碑文、銘文などについて述べる。ここでは、碑文(ひぶん)は石碑に記した文、銘文(めいぶん)はそれ以外の金石に記した文と考えて用いる。
概要
中国では、ある事件や人物の記録を後世に残すために記した文を「銘」といい、やがて春秋戦国時代の石鼓文、秦・漢時代以降には始皇七刻石をはじめとして、銘を刻んで「碑」を建てるようになった。このように碑文・銘文は、堅牢な金属や石に記されたのである。したがって碑文・銘文は一定の様式を持ち、また、さまざまな技巧が凝らされた。
日本では、古くは、福岡県福岡市の志賀島から出土した「漢委奴国王」(漢の倭の奴の国王)の金印、奈良県天理市石上神宮に伝わる七支刀など、中国や朝鮮半島の国から贈与、献上または下賜された遺品がある。また、日本で製作されたものとして、和歌山県橋本市隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡(東京国立博物館に寄託)、千葉県市原市の稲荷台1号古墳出土の鉄剣の銀象嵌銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌銘、熊本県江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀の銀象嵌銘などが知られている。
日本に所在する古碑としては、日本三古碑と呼ばれる上野国(群馬県)多胡碑、下野国(栃木県)那須国造碑、陸奥国(宮城県)多賀城碑が特に著名である。
上記以外の金石文には、碑、墓誌銘、造像銘、鐘銘、器物銘などがある。
世界的にはダレイオス1世が自己の業績を記したベヒストゥン碑文やプトレマイオス5世の徳を讃えたロゼッタ・ストーン、ダルマを統治理念としたアショーカ王の石柱碑・磨崖碑、中国唐代の大秦景教流行中国碑(西安碑林博物館所蔵)、唐と吐蕃とが国境を定めた唐蕃会盟碑などが著名である。
多くが時代の闇の彼方に姿を消すものの、金属や石などの剛健な物に記されていることから、発掘されることにより当時の出来事を鮮明に伝えるものとなる。歴史考古学的に、また言語学的に非常に重要な資料となる。
造像銘
像を造る際、製作者の名前や製作年度、由来などを記した銘文。東洋では主に仏像を造る際に記された。
中国では南北朝時代の北魏代、「龍門石窟」と呼ばれる洞窟に彫られた磨崖仏に記されたものが有名で、うち秀逸なもの20点が「龍門二十品」として選ばれ、六朝楷書の書蹟として知られる。
日本では飛鳥時代から行われ、法隆寺金堂の釈迦三尊像造像銘や薬師如来像造像銘など多くの遺品が知られる。
墓碑・墓誌銘
故人を顕彰するため、墓のそばに姓名・生前の業績・記念文を記して建てたもの。一般的に墓域内に「墓碑」として建てるのが普通であるが、中国では一時期建碑が禁じられたことがあったため、碑を石板に変えて棺のそばに埋めた。この場合は「墓誌」と称する。
中国では南北朝時代から隋代にかけて爆発的に流行し、当時の書道の実態を語る史料として大量に出土している。墓碑では「高貞碑」、墓誌では「刁遵墓誌」「張黒女墓誌」などが著名で、六朝楷書の書蹟として知られる。
また西安市(かつての長安)の工事現場で2004年に見つかった日本出身で唐に仕えた井真成の墓誌、大韓民国忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群百済で1971年に見つかった武寧王の墓誌なども知られる。
日本古代の墓誌の埋納は7世紀末~8世紀末まで行われ、最盛期は8世紀前半である。銘文を残存しているものは18点ある。
画像 | 埋葬者 | 年紀 | 字数 | 出土地 | 文化財指定 | 保管施設 | 文化庁 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名称 | 区分 | |||||||
複製 | 船王後 | 戊辰年(668年) | 162字(両面) | 大阪府柏原市 | 銅製船氏王後墓誌 | 国宝 | 三井記念美術館(個人所有) | [1] |
小野毛人 | 丁丑年(677年) | 48字(両面) | 京都府京都市 | 金銅小野毛人墓誌 | 国宝 | 京都国立博物館(崇道神社所有) | [2] | |
文禰麻呂 | 慶雲4年(707年) | 34字(片面) | 奈良県宇陀市 | 文祢麻呂墓出土品 | 国宝 | 東京国立博物館 | [3] | |
威奈大村 | 慶雲4年(707年) | 391字(蓋) | 奈良県香芝市 | 金銅威奈大村骨蔵器 | 国宝 | 京都国立博物館(四天王寺所有) | [4] | |
複製 | 下道国勝・国依の母 | 和銅元年(708年) | 47字(蓋) | 岡山県小田郡矢掛町 | 銅壺 | 国の重要文化財 | 圀勝寺 | [5] |
伊福吉部徳足比売 | 和銅3年(710年) | 108字(蓋) | 鳥取県鳥取市 | 銅製伊福吉部徳足骨蔵器 | 国の重要文化財 | 東京国立博物館 | [6] | |
道薬 | 和銅7年(714年) | 32字(両面) | 奈良県天理市 | 佐井寺僧道薬墓出土品 | 国の重要文化財 | 奈良国立博物館 | [7] | |
太安麻呂 | 養老7年(723年) | 41字(片面) | 奈良県奈良市 | 太安萬侶墓誌 | 国の重要文化財 | 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 | [8] | |
山代真作 | 戊辰年(728年) | 76字(片面) | 奈良県五條市 | 金銅山代忌寸真作墓誌 | 国の重要文化財 | 奈良国立博物館 | [9] | |
小治田安万侶 | 神亀6年(729年) | 64字(片面) | 奈良県奈良市 | 金銅小治田安万侶墓誌 | 国の重要文化財 | 東京国立博物館 | [10] | |
美努岡万 | 天平2年(730年) | 173字(片面) | 奈良県生駒市 | 銅製美努岡万連墓誌 | 国の重要文化財 | 東京国立博物館 | [11] | |
拓本 | 楊貴氏 | 天平11年(739年) | 43字(片面) | 奈良県五條市 | (非現存) | |||
行基 | 天平21年(749年) | 21字(身) | 奈良県生駒市 | 銅製行基舎利瓶残片 | 重要美術品 | 奈良国立博物館 | ||
石川年足 | 天平宝字6年(762年) | 130字(片面) | 大阪府高槻市 | 金銅石川年足墓誌 | 国宝 | 大阪歴史博物館 | [12] | |
宇治宿禰 | □雲2年(768年?) | 28字(片面) | 京都府京都市 | 東京国立博物館 | ||||
複製 | 高屋枚人 | 宝亀7年(776年) | 37字(片面) | 大阪府南河内郡太子町 | 高屋連枚人墓誌 | 国の重要文化財 | 叡福寺 | [13] |
紀吉継 | 延暦3年(784年) | 47字(片面) | 大阪府南河内郡太子町 | 紀吉継墓誌 | 国の重要文化財 | 妙見寺 | [14] | |
日置(郡)公 | なし | 33字(片面) | 熊本県玉名郡和水町 | (非現存) |
鐘銘
寺の梵鐘に寄進者名や製作年度、鐘の功徳、由来などを記した銘文。「国家安康、君臣豊楽」と銘された方広寺のそれが大坂の陣の口実となった。
世界遺産における位置づけ
「文化遺産」に属する。そのなかの「記念工作物」は、
建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件及び構造物、金石文、洞穴住居並びにこれらの物件の組合せであって、歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの
と定義されている(世界遺産条約第一条)。
なお、世界遺産条約では文化遺産として「記念工作物」のほか、「建造物群」と「遺跡」を掲げている。
現代における金石文の役割
多種多様な記録媒体が発達した21世紀初頭においても、またたとえ作成の目的を純粋な情報伝達に限ったとしても、記録としての金石文の必要性が完全に失われたわけではない。情報の受け手として現代の言語が絶滅した時代の人々や地球外知的生命体を想定する場合、必要とされる保存性は紙やインクが持つ耐久性を大幅に超える。また、電子媒体への記録も(たとえ媒体を物理的に保存できたとしても)適切にデコードされることはほぼ期待できない。上記の理由から、放射性廃棄物の地層処分が行われた場所など、遠未来の人類に確実に残さなければならない情報については、炭化ケイ素セラミックスのプレートに文字として刻印することが検討されている[1]。
純粋な記録だけでなく、さまざまな事物の記念物としての側面を持つ金石文は、現代でも事あるごとに造られている。
脚注
参考文献
この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 |
- 東野治之『日本古代金石文の研究』、岩波書店、2004年6月、(ISBN 4-00-024224-5)
- 蘇鎮轍『金石文に見る百済武寧王の世界』、彩流社、2001年12月、(ISBN 4882027232)
- 薮田嘉一郎『石刻-金石文入門』、綜芸舎、1976年11月(ISBN 4-7940-0033-2)
- 藪田嘉一郎編 『五輪塔の起原〔改訂〕 五輪塔の早期形式に関する研究論文集 』、綜芸舎 1981年(ISBN 4-7940-0034-0)
- 郭沫若 『両周金文辞大系考釈』
関連項目
外部リンク
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)
「天平十一年八月十二日記 / 歳次己卯」とあるが、年月日の後に歳次(干支)を記す例は当代の記録に見えず、また「記」と一旦文を閉じた後にその歳次が現れる点も気に掛かり、この2行には字形の違いも見られるため、これは「記」まで刻んだ後に「歳次己卯」の4文字が追刻されたと見られる。そこでこの4文字を除くと今度は銘文全体が右に偏ったものとなり、字配りの点で予め銘文を決定していたというよりも、「天平十一年八月十二日記」と刻んだ後に追って刻まれた可能性があり、やや杜撰である。
※この「銘文」の解説は、「楊貴氏墓誌」の解説の一部です。
「銘文」を含む「楊貴氏墓誌」の記事については、「楊貴氏墓誌」の概要を参照ください。
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:15 UTC 版)
鐘の表には、臨済宗の僧で琉球・相国寺(後述)の二世住持である渓隠安潜による漢文が刻まれ、「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」(書き下し)という一節は、日本と明国との間にあって海洋貿易国家として栄えた琉球王国の気概を示すものとされている、これは現在沖縄においてこの梵鐘が「万国津梁の鐘」と称されるゆえんである。 また後半は仏教の興隆が謳われ、これは当時内乱が打ち続いていた尚泰久王の治世において、仏教による鎮護国家思想を表したものとされている。1457年に尚泰久は朝鮮から大蔵経を取り寄せており、仏恩に報じるためにこの梵鐘を鋳造、建立したとされる。大意は次のようである。 中国と日本から齎された諸々の文化により琉球が繁栄し、世の主が大位を天授され民生を涵養し(琉球の)大地は青々としている。三宝を盛んにし四恩に報いるため(この)梵鐘を鋳造し王殿に懸ける。王は国制を中国に倣って敷き、先王の教えに倣い武芸を奨励する。梵鐘の音は三界の衆生を救い、世の主の大位と長寿を祝う。 以下四言詩が続く。全文は以下の通り。 琉球国者南海勝地而鍾三韓之秀以大明為輔車以日域為唇齒在此二中間湧出之蓬莱島也以舟楫為万国之津梁異産至宝充満十方刹地靈人物遠扇和夏之仁風故吾王大世主庚寅慶生尚泰久茲承宝位於高天育蒼生於厚地為興隆三宝報酬四恩新鋳巨鐘以就本州中山国王殿前掛着之定憲章于三代之後戢文武于百王之前下済三界群生上祝万歳宝位辱命相国住持溪隠安潜叟求銘々曰須弥南畔 世界洪宏吾王出現 済苦衆生截流玉象 吼月華鯨泛溢四海 震梵音声覚長夜夢 輸感天誠堯風永扇 舜日益明戊寅六月十九日辛亥大工藤原国善住相国溪隠叟誌之
※この「銘文」の解説は、「万国津梁の鐘」の解説の一部です。
「銘文」を含む「万国津梁の鐘」の記事については、「万国津梁の鐘」の概要を参照ください。
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 06:05 UTC 版)
「テムズ・スクラマサクス」の記事における「銘文」の解説
刀身のフソルクの銘文は以下の通りである。 サクスでの並び順標準的なルーンUSC古英語名ローマ字音訳ザルツブルク・ウィーン写本の並び順1 ᚠ feoh f 1 2 ᚢ ur(英語版) u 2 3 ᚦ þorn þ 3 4 ᚩ ós(英語版) o 4 5 ᚱ rad(英語版) r 5 6 ᚳ cen(英語版) c 6 7 ᚷ gyfu(英語版) g 7 8 ᚹ wynn w 8 9 ᚻ hægl(英語版) h 9 10 ᚾ nyd(英語版) n 10 11 ᛁ is(英語版) i 11 12 ᛄ ger(英語版) j 12 13 ᛇ eoh(英語版) ɨ 13 14 ᛈ ᛈ(英語版) p 14 15 ᛉ eolh x 15 16 ᛋ sigel(英語版) ( ᚴ と記されている。下記参照) s 16 17 ᛏ Tiw(英語版) t 17 18 ᛒ beorc(英語版) b 18 19 ᛖ eh(英語版) e 19 20 ᛝ ing ŋ 22 21 ᛞ dæ d 23 22 ᛚ lagu(英語版) l 21 23 ᛗ mann m 20 24 ᛟ eþel(英語版) (と記されている。下記参照) œ 24 25 ᚪ ac(英語版) a 25 26 ᚫ æsc(英語版) æ 26 27 ᚣ ᚣ(英語版) y 28 28 ᛠ ear(英語版) ea 27 この銘文には、まれな特徴がいくつかある。まず第一に、ルーン文字の順番が、より古い24文字のルーン・アルファベットの伝統的な配列や、ザルツブルク・ウィーン写本(ドイツ語版)に残されたアングロ・サクソン・フソルクの28文字の配列とぴったり一致しない。最初の19番目までのルーン文字は順番通りであるが、続く4文字(20番目から23番目の ᛝᛞᛚᛗ )は、他の出典とは一致しない混乱した並び方をしている。最後の2つのルーン文字(27番目と28番目のᚣᛠ)は、ザルツブルク・ウィーン写本の並びと順番が入れ替わっていると考えられるが、これらは元の24文字のルーン文字に遅れて付け加えられたため、並び順が安定していなかったと考えられる。特に最後の文字 ᛠ は、アングロ・サクソンの写本では極めて稀である(この銘文の他ではドーバーで見つかった Jɨslheard ᛄᛇᛋᛚᚻᛠᚱᛞ という名前に現れる)。 第二に、16番目のルーン文字 (ᛋ)はとても小さく、後付けされたため縮められたように見える。 第三に、いくつかのルーン文字の書体が通常とは異なっている。 12番目の ᛄ は円の代わりに水平線が一本書かれているが、菱形や十字は他の銘文や写本の例によく見られるものである。 16番目の ᛋ は通常と異なるが、これはいくつかの碑文(例えば聖カスバート(英語版)の聖堂のもの)にも見られる。このルーン文字の書式は、アングロ・サクソン語の写字体に用いられたインシュラー体のS(英語版)と非常に似た形状をしている(両者とも垂直の軸線に水平もしくは右上がりの横線がある)ため、この文字から借用したと確信する研究者もいる。一方エリオットは、左に分岐する一画を整理した上に、文字を鏡写しにした、通常のルーン文字を進化させたものと見なしている。 21番目の ᛞ は、中央で交差する三角形ではなく、三角形を形成する2本の斜めの線が交わる形で通常とは異なる。これはおそらく異常な形であると考えられる。 24番目の ᛟ は通常の形では2本の斜め線の脚を持つ代わりに、1本の垂直線を持つ変わった形をしている。この形はルーン文字の碑文と、しばしば写本のテキスト中にも見られる。アデレード大学の元英語教授ラルフ・エリオット(英語版)は、標準的なルーン文字を簡略化して表したものであると示唆している。 27番目の ᚣ は中央部に垂直線ではなく十字を伴うもので通常と異なる形である。 これらの風変わりな点は、銘文をデザインした職人がルーンの綴り方をよく知らなかったことを示していると考えられる。しかし特異な書体のいくつかは、ルーン文字を線材で象嵌するのが困難なことに起因する間違いであるかもしれない。 ベアグノズの名前の銘文は以下の通りである。 名前の銘文には珍しい特徴は見られないが、名前の右上には文字のように見える奇妙なデザインが2つあり、これは誰にも説明出来ていない。
※この「銘文」の解説は、「テムズ・スクラマサクス」の解説の一部です。
「銘文」を含む「テムズ・スクラマサクス」の記事については、「テムズ・スクラマサクス」の概要を参照ください。
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:00 UTC 版)
「法隆寺金堂釈迦三尊像」の記事における「銘文」の解説
詳細は「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」を参照 蓮弁形光背の裏面には造像の由来について記した銘文がある。銘文は14字14行で、四六駢儷体の格調高いものである。このように字数と行数を整えた例は中国の墓誌にみられる。文字は中国の5〜6世紀頃の書風を伝える。刻まれた文字の内面には鍍金が及んでいないとされるが、これについては写真映りをよくするために明治大正期に字の部分に詰め物をしたことの影響が指摘されている。銘文の原文と書き下し文を以下に示す(読み方には諸説ある)。 法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登淨土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟乘斯微福信道知識現在安隠出生入死随奉三主紹隆三寳遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造 (読み下しの例) 法興元丗一年(げんさんじゅういちねん)、歳(ほし)は辛巳に次(やど)る〔西暦621年〕十二月、鬼前太后〔間人皇女〕崩ず。明年正月廿二日、上宮法皇〔太子〕、病に枕して弗悆(ふよ)〔「弗」の次の漢字は「余」の下に「心」〕。干食(かしわで)王后〔膳妃〕、仍(より)て以て労疾、並びて床に著(つ)く。時に王后王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に依り、當(まさ)に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。若し是れ定業(じょうごう)にして以て世に背かば、往きて浄土に登り、早(すみやか)に妙果に昇らんことを」と。二月廿一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未年〔623年〕三月中、願いの如く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具を造り竟(おわ)る。斯の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠にして、生を出でて死に入り、三主〔間人皇女、太子、膳妃〕に随(したが)い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首(しばのくらつくりのおびと)止利仏師をして造らしむ。 (〔 〕内は補注。) 読み下しについては、以下のようにさまざまな異説がある。 「十二月、鬼前太妃崩」の「鬼」を日付の意に解釈し、「十二月鬼、前太妃崩」とする。 「弗悆」を次の「干食」につなげて、「食に弗悆(こころよ)からず。王后、」とする。 「當に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、」を「釈像を造りて、尺寸の王身、此の願力を蒙り、」とする。 「遂には彼岸を共にし」を「共に彼岸を遂(と)げ」とする。 以上のように、一部の字句の読み方や解釈に異論もあるが、銘文の大意は以下のとおりである。 西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である。 この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。福山敏男は1935年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、推古朝の作ではないとした。藪田嘉一郎も1950年の論文で釈迦三尊の光背銘は疑わしいとした。しかし、福山は1961年の論文では釈迦三尊光背銘を指して「飛鳥金石文の首位にあるもの」と評しており、自説を実質的に撤回している。福山は推古朝には「天皇」の語はなく、したがって「法皇」という用語もなかったとするが、これについては、栗原朋信(1965年の論文)が推古朝に天皇号がなかったとは証明できないとして批判した。東野治之は、木簡に書かれた文字で「皇」が「王」と同じ意味で使われる例の多いことから、「法皇」表記には問題がないとしている。 藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見は天平6年・734年の正倉院文書)、釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭も同様の説を述べている。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前の文字資料は乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した。
※この「銘文」の解説は、「法隆寺金堂釈迦三尊像」の解説の一部です。
「銘文」を含む「法隆寺金堂釈迦三尊像」の記事については、「法隆寺金堂釈迦三尊像」の概要を参照ください。
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 05:54 UTC 版)
「長谷寺銅板法華説相図」の記事における「銘文」の解説
文字面の大きさは縦14.2cm、横42.4cm。その中に27行、各行12字(19行目のみ7字)が配置され、当初、全319字あったとされている。が、銘文の右側が斜めに欠損し、50字を失っている。ただし、銘文の述作にあたって用いられた典籍として次の2つの史料が分かっており、その内の15字を補うことができている。 玄奘三蔵訳『甚希有経』(じんけうきょう、649年) 道宣撰『広弘明集』巻16所収の「瑞石像銘」と「光宅寺刹下銘」
※この「銘文」の解説は、「長谷寺銅板法華説相図」の解説の一部です。
「銘文」を含む「長谷寺銅板法華説相図」の記事については、「長谷寺銅板法華説相図」の概要を参照ください。
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 18:17 UTC 版)
「小臣艅犀尊」の記事における「銘文」の解説
小臣艅犀尊は、重要な歴史価値も具えている。腹中の鋳銘文4行総27字、 丁子(巳)、王𥃻(省)夔(京)、王易(賜)小臣艅夔貝、隹(維)王來正(征)人(夷)方、隹(維)王十祀又五、(肜)日。“丁巳、王 夔京を省し、王 小臣艅に夔貝を賜う、維れ王の来たり夷方を征する、維れ王の十祀又五、肜の日。” 丁子(巳):丁巳の日。殷人は干支紀日で、商代の干支の中、“巳”は“”と記され、“子”は“”と記されていた。 王𥃻(省)夔(京):商王が夔京を巡視した。“夔京”は地名である。 王易(賜)小臣艅夔貝:商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。“易”は賜に通じる、賞賜。“小臣”は官職名、商朝は建国より滅亡までずっとこの小臣という官職を設けていたものの、責任を負う業務はそれぞれ異なった。“夔貝”、金文では、貝を賜うのに往々にして地名を冠しており、賜った貝幣の戦利獲得の場所を示す。 隹(維)王来正(征)人(夷)方:商王が夷方を征討しに来た。“維”は語気詞。“正”は征に通じる、征討。“人方”は即ち夷方(中国語版)、東夷人の一支派、現在の山東省一帯に分布していた。 隹(維)王十祀又五:商王が即位して15年目。周代の“王十又五祀”に異なり、商代は全て“王十祀又五”と記する形式であり、他にも『版方鼎』の“唯王廿祀又二”もそうである。 (肜)日:肜祭の日。 「 丁巳の日、商王が夔京を巡視し、商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。商王が夷方を征討しに来たときのことであり、商王が即位して15年目、肜祭の日である。 」 この記載中の夷方の征伐については、同時期の甲骨文とその他の青銅器の銘文と相互に裏付けることができる。この器の銘文中の“王”は商代晩期の君主帝乙あるいは帝辛であり、それはこの器の鋳造が帝乙あるいは帝辛の時期であるはずである。 日本の中国史学者貝塚茂樹も殷末の東方経略に関する重要な記述のあるこの銘文に注目し、後に『古代殷帝国』(みすず書房)に結実する研究の一つとなる論文「殷末周初の東方經略に就いて」(1940年)を執筆した。
※この「銘文」の解説は、「小臣艅犀尊」の解説の一部です。
「銘文」を含む「小臣艅犀尊」の記事については、「小臣艅犀尊」の概要を参照ください。
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 09:07 UTC 版)
小臣艅犀尊は、重要な歴史価値も具えている。腹中の鋳銘文4行総27字、 丁子(巳)、王𥃻(省)夔(京)、王易(賜)小臣艅夔貝、隹(維)王來正(征)人(夷)方、隹(維)王十祀又五、(肜)日。“丁巳、王 夔京を省し、王 小臣艅に夔貝を賜う、維れ王の来たり夷方を征する、維れ王の十祀又五、肜の日。” 丁子(巳):丁巳の日。殷人は干支紀日で、商代の干支の中、“巳”は“”と記され、“子”は“”と記されていた。 王𥃻(省)夔(京):商王が夔京を巡視した。“夔京”は地名である。 王易(賜)小臣艅夔貝:商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。“易”は賜に通じる、賞賜。“小臣”は官職名、商朝は建国より滅亡までずっとこの小臣という官職を設けていたものの、責任を負う業務はそれぞれ異なった。“夔貝”、金文では、貝を賜うのに往々にして地名を冠しており、賜った貝幣の戦利獲得の場所を示す。 隹(維)王来正(征)人(夷)方:商王が夷方を征討しに来た。“維”は語気詞。“正”は征に通じる、征討。“人方”は即ち夷方(中国語版)、東夷人の一支派、現在の山東省一帯に分布していた。 隹(維)王十祀又五:商王が即位して15年目。周代の“王十又五祀”に異なり、商代は全て“王十祀又五”と記する形式であり、他にも『版方鼎』の“唯王廿祀又二”もそうである。 (肜)日:肜祭の日。 「 丁巳の日、商王が夔京を巡視し、商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。商王が夷方を征討しに来たときのことであり、商王が即位して15年目、肜祭の日である。 」 この記載中の夷方の征伐については、同時期の甲骨文とその他の青銅器の銘文と相互に裏付けることができる。この器の銘文中の“王”は商代晩期の君主帝乙あるいは帝辛であり、それはこの器の鋳造が帝乙あるいは帝辛の時期であるはずである。 日本の中国史学者貝塚茂樹も殷末の東方経略に関する重要な記述のあるこの銘文に注目し、後に『古代殷帝国』(みすず書房)に結実する研究の一つとなる論文「殷末周初の東方經略に就いて」(1940年)を執筆した。
※この「銘文」の解説は、「小臣ヨ犀尊」の解説の一部です。
「銘文」を含む「小臣ヨ犀尊」の記事については、「小臣ヨ犀尊」の概要を参照ください。
銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 21:11 UTC 版)
ブグト碑文の四面には銘文が刻まれており、そのうち3面はソグド文字/ソグド語で、残る一面はブラーフミー文字/サンスクリット語で書かれている。これによって当時の突厥可汗国の公用語がソグド語であり、テュルク語は公用語でなかったことが判明した。初め、モンゴルの学者によってこのソグド語銘文はウイグル文字/テュルク語とされたが(1968年)、のちにソ連のクリャシュトルヌィ、リフシツらによってソグド文字/ソグド語であることが明らかにされた(1971年)。
※この「銘文」の解説は、「ブグト碑文」の解説の一部です。
「銘文」を含む「ブグト碑文」の記事については、「ブグト碑文」の概要を参照ください。
「銘文」の例文・使い方・用例・文例
- 碑の銘文.
銘文と同じ種類の言葉
- >> 「銘文」を含む用語の索引
- 銘文のページへのリンク