井真成とは? わかりやすく解説

井真成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 02:02 UTC 版)

井 真成(せい しんせい/い まなり /い の まなり) 文武天皇3年(699年) - 天平6年/開元22年(734年))は、代の日本人留学生または官吏。日本名は不明。中国の古都・西安墓誌が発見された。


注釈

  1. ^ 東野治之は、「朝に立たば」は論語からの引用で仮定であり留学生のままだとしている[4]
  2. ^ 他には16行中空白5行の「大唐徳業寺亡尼墓誌」、空白7行の「大周故亡宮三品墓誌」と「大唐故夫人(張令間の妻)墓誌」[6]

出典

  1. ^ “填补历史空白 日本遣唐留学生墓志首次在西安发现”. 中国新聞網報道. (2004年10月12日). http://www.chinanews.com.cn/news/2004/2004-10-12/26/493191.shtml 2011年9月1日閲覧。  (中国語)2004年10月10日共同通信一部翻訳記事(10月11日産経新聞全文掲載)
  2. ^ a b 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 180–183, 氣賀澤保規「井真成墓誌と尚衣奉御という官職」.
  3. ^ 2004年10月11日産経新聞「遣唐留学生の墓誌を発見玄宗皇帝が官位贈る中国西安市」
  4. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 42, 東野治之「井真成の墓誌を読む」.
  5. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 182–183, 氣賀澤保規「井真成墓誌と尚衣奉御という官職」.
  6. ^ a b 王維坤 2008, pp. 29–31.
  7. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 105–106, 王維坤「遣唐留学生井真成の渡唐の背景と改名」.
  8. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 101, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  9. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 104–105, 王維坤「遣唐留学生井真成の渡唐の背景と改名」.
  10. ^ 藤田友治(編著) 2006, p. 168, 藤田友治「井真成の墓誌銘の研究」.
  11. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 94–95, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  12. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 46–47, 東野治之「井真成の墓誌を読む」.
  13. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 239-241、248-253, 土屋昌明「「井真成墓誌」を書道史から読み解く」.
  14. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 40, 東野治之「井真成の墓誌を読む」.
  15. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 106–107, 王維坤「遣唐留学生井真成の渡唐の背景と改名」.
  16. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 24, 王建新「新発見墓誌銘文と遣唐留学生・遣唐使」.
  17. ^ 藤田友治(編著) 2006, p. 166, 藤田友治「井真成墓誌銘の研究」引用、氣賀澤保規「遣唐使留学生『井真成墓誌』への疑問」雑誌『東アジアの古代文化』2005年春123号.
  18. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 169, 王建新「新発見の「井真成墓誌」とその基礎的研究」.
  19. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 191–192, 氣賀澤保規「井真成墓誌と尚衣奉御という官職」.
  20. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 92, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  21. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 137, 亀井明徳「井真成の墓の位置と構造はどうなっていたか」.
  22. ^ 王維坤 2008, pp. 19–20.
  23. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 113–114, 王維坤「遣唐留学生井真成の渡唐の背景と改名」.
  24. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 81、94-95, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  25. ^ NHKスペシャル-新シルクロード 第10集 西安 永遠の都 Archived 2004年10月28日, at the Wayback Machine.
  26. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 52–53, 東野治之「井真成の墓誌を読む」.
  27. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 64–77, 鈴木靖民「遣唐留学生井真成とその出自」.
  28. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 311, 加藤謙吉「井真成を育んだ中・南河内の渡来文化」.
  29. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 194–195, 氣賀澤保規「井真成墓誌と尚衣奉御という官職」.
  30. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 44, 東野治之「井真成の墓誌を読む」.
  31. ^ 王義廉・管寧「唐代来華日本人井真成墓誌考●」、 『小国歴史文物』、 2005年5月、日本語での紹介は 賈梅、伊集院葉子[訳]、窪田藍[訳]「唐「井真成墓誌」研究の総括」『専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報』第1巻、専修大学社会知性開発研究センター、2008年3月、115-121頁、doi:10.34360/00008530NAID 120006785745 
  32. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 90–91, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  33. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 140、143, 亀井明徳「井真成の墓の位置と構造はどうなっていたか」.
  34. ^ 栄新江 「従(井真成墓誌)看唐朝対日本留学生的礼遇」、 『西北大学学報(哲学社会科学版)』、 2005年第4期、日本語での紹介は 賈梅、伊集院葉子[訳]、窪田藍[訳]「唐「井真成墓誌」研究の総括」『専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報』第1巻、専修大学社会知性開発研究センター、2008年3月、115-121頁、doi:10.34360/00008530NAID 120006785745 
  35. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 86–88, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」引用:青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』「遣唐使の構成と手当」表、1965年 中央公論社.
  36. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 90, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  37. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 86–88, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  38. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, pp. 50–51, 東野治之「井真成の墓誌を読む」.
  39. ^ 藤田友治(編著) 2006, p. 94, 王勇「中国で井真成墓誌を読む」.
  40. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 88-91, 矢野建一「井真成墓誌と第10次遣唐使」.
  41. ^ 専修大学・西北大学共同プロジェクト(編) 2005, p. 140, 亀井明徳「井真成の墓の位置と構造はどうなっていたか」.
  42. ^ 藤田友治(編著) 2006, pp. 92–97, 王勇「中国で井真成墓誌を読む」.
  43. ^ 鈴木靖民「中国西安の日本遣唐使墓誌と墓主井真成」(初出:『東アジアの古代文化』123号(2005年)/所収:鈴木『日本の古代国家の形成と東アジア』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-02484-6
  44. ^ 王維坤 2008, pp. 25–26.
  45. ^ 韓昇 2009.
  46. ^ a b 2010年1月27日朝日新聞夕刊「《井真成》はどんな人? 中国で官吏説」
  47. ^ 中浜宏章 (2005年2月7日). “西安の墓誌”. 読売新聞. オリジナルの2005年11月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20051129183617/http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/ka50207a.htm 2011年9月1日閲覧。 



井真成

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九州王朝説」の記事における「井真成」の解説

2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市西北大学西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国皇族であると考えられる死後追贈され役職尚衣奉御」は、皇帝衣服管理する部門責任者単なる留学生与えられるものではない。当時この官職に就くことができたのは、皇子を含む皇室貴族けだった。 井真成の死は皇帝報告され葬儀費用は唐政府負担した記されているが、これは三等官以上の外国使節対す扱いである。 現在[いつ?]「井」という姓は九州熊本県産山村南小国町一の宮町などに多く存在する。 井は倭(ゐ)に通じる。

※この「井真成」の解説は、「九州王朝説」の解説の一部です。
「井真成」を含む「九州王朝説」の記事については、「九州王朝説」の概要を参照ください。

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