仏像
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仏像(ぶつぞう)とは、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像。
- ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
- ^ a b c d 高崎 & 木村 1995, p. 38.
- ^ a b c d 高崎 & 木村 1995, p. 39.
- ^ 高田修『仏像の起源』(岩波書店、初版1967年、復刊1994年ほか)『仏像の誕生』(岩波新書 1987年)、宮治昭『ガンダーラ仏の不思議』(講談社選書メチエ、1996年)
- ^ 岩崎 2001, pp. 23–26.
- ^ 岩崎 2001, p. 133.
- ^ 岩崎 2001, pp. 75–95.
- ^ 外部リンクの「明王」解説[出典無効]
- ^ 岩崎 2001, pp. 146–154.
- ^ 岩崎 2001, pp. 196–201.
- ^ 岩崎 2001, pp. 190–193.
- ^ 岩崎 2001, pp. 166–173.
- ^ 岩崎 2001, pp. 175–182.
- ^ 岩崎 2001, pp. 182–186.
- ^ 仏像の用材論については、金子啓明 岩佐光晴 藤井智之 能城修一 安倍久 『成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書 仏像の樹種から考える 古代一木彫像の謎』 東京美術、2015年12月25日、ISBN 978-4-8087-1041-5、を参照。[要ページ番号]
- ^ 「一木造」から「寄木造」の項目は、西川杏太郎 『日本の美術202 一木造と寄木造』 至文堂、1983年を主に参照した。[要文献特定詳細情報]
仏像
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昭和31年(1956年)、篤信家の手により銀杏弘法大師。 平成13年(2001年)つるぎ大師が奉納(共に90歳を超えられる老夫婦より)。 平成14年(2002年)般若秘鍵大師並びに三十三観音が奉納。 平成17年(2005年)浪切不動明王御分身が奉納。 平成22年(2010年)高野山真言宗管長金剛峯寺座主真言長者松長有慶大僧正御来山。
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仏像
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一字金輪仏頂尊は、仏画に表されることが多いが、仏像に現されるのは稀である。一例は中尊寺の安置されている一字金輪仏頂尊像(木造一字金輪坐像・重要文化財・秘仏)であり、奥州藤原氏三代秀衡の念持仏と伝えられている。
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仏像
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十一面観世音菩薩(本尊) - 県指定重要文化財、平安時代中期作。四臂(四本の手)を持つ。1967年3月31日指定。 不動明王(脇仏) 毘沙門天(脇仏)
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仏像
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観世音寺の金堂と講堂には、かつては多くの仏像が安置されていたが、1959年、境内に鉄筋コンクリート造の宝蔵が完成してからは、大部分の仏像がそちらへ移された。当寺所有の仏像で国の重要文化財に指定されているものは15件(18躯)を数えるが、このうち、聖観音立像は講堂に安置、阿弥陀如来立像は九州国立博物館に寄託されており、残りの13件(16躯)は宝蔵に移されている。これらの仏像はいずれも平安時代または鎌倉時代の作品であり、創建期(奈良時代)にさかのぼる仏像で完存するものはない。奈良時代の仏像関連遺品としては、かつて講堂に安置されていた塑造不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう、鎌倉時代に倒壊)の心木と面相部の断片、境内から出土した塑像の断片などが残るのみである。観世音寺では康平7年(1064年)と康治2年(1143年)に大火があり、現存する仏像の大部分はそれ以後の平安時代末期から鎌倉時代にかけての作である。一部に10世紀にさかのぼるとみられる像もあるが(兜跋毘沙門天立像、阿弥陀如来立像)これらの像の江戸時代以前の伝来は明らかではない。 当寺の仏像の特色としては、地方色の薄い、都風の作風の像が多いこと、クスノキ材を用いる像が多いこと(平安時代以降の日本の木彫仏は一般にヒノキ材のものが多い)に加え、丈六像が5躯あることが特筆される。丈六像とは、経典に釈尊の身長が一丈六尺とあることから、この高さを基準に造られた仏像のことである(立像の場合は像高約4.8メートル、坐像の場合は半分の約2.4メートル)。当寺の仏像では聖観音坐像(しょうかんのんざぞう)、阿弥陀如来坐像、不空羂索観音立像、十一面観音立像、馬頭観音立像が丈六像である。このうち、聖観音坐像(旧講堂本尊)は治暦2年(1066年)の講堂再興時の作。十一面観音立像はその3年後の延久元年(1069年)の作である。阿弥陀如来坐像(旧金堂本尊)と馬頭観音立像はやや下って12世紀前半の作。不空羂索観音立像は、奈良時代から安置されていた塑造の当初像が承久3年(1221年)に転倒・損壊した後、その再興像として翌貞応元年(1222年)に造立されたものである。 木造聖観音坐像 もと講堂本尊。重要文化財指定名称は「木造観音菩薩坐像」。クスノキ材の寄木造。像高は3.21メートル。像内に「藤原重友、重□(近)、紀為延」等の結縁交名(けちえんきょうみょう、結縁者の列記)の記がある。『扶桑略記』の治暦2年(1066年)11月28日、観世音寺再興供養の条に「金色丈六観世音像」とあるのが本像にあたり、同年頃の造立とみられる。 木造十一面観音立像 もと講堂安置。ヒノキ材の寄木造。像高は4.98メートル。像内に「延久元年七月、□□師賀斐講師暹明」等の造像結縁交名の記があり、賀斐(甲斐)講師暹明が延久元年(1069年)に造立したことがわかる。 木造聖観音立像 もと金堂安置、現・講堂安置。重要文化財指定名称は「木造観音菩薩立像」。クスノキ材の寄木造。像高は1.68メートル。像内に「大仏師良俊」等の造像結縁交名の記がある。11世紀の作。肥前杵島(きしま)沖の有明海から引き上げられたとの伝説から「杵島観音」と通称される。 木造馬頭観音立像 もと講堂安置。ヒノキ材の寄木造。像高は5.03メートル。四面八臂(前後左右に顔があり、8本の腕を有する)で忿怒相をあらわす。像内に「大仏師真快、明春、上座威儀師暹増」等の造像結縁交名の記があり、作者名(真快、明春等)は判明するが、造像年次の記載はない。寺伝では大治年中(1126 - 1131年)の作という。康治2年(1143年)の「筑前国観世音寺年料米相折帳」という文書に「新造馬頭観音」とあるのが本像にあたり、その頃に「新造」されたものとみられる。また、像内の結縁交名中の暹増という僧の活動時期とも併せ、本像は寺伝どおり12世紀前半の作品と判断される。 木造阿弥陀如来坐像 もと金堂本尊。定印(じょういん)を結ぶ(膝前で両手を組み、各手の第1・2指で輪をつくり、他の3指を伸ばす)。クスノキ材の寄木造。像高2.2メートル。前出の馬頭観音像同様、康治2年(1143年)の「筑前国観世音寺年料米相折帳」に「新造阿弥陀」とあるのが本像にあたり、その頃の作品とみられる。 木造不空羂索観音立像 もと講堂安置。クスノキ材の寄木造。像高は5.17メートル。三眼六臂、頭上に11の小面を有する。像内に「貞応元年八月十四日、行事良慶、大仏師僧琳厳」の造立銘があり、造立年(貞応元年 = 1222年)と作者(琳厳)が明らかである。前述のとおり、奈良時代に造られた当初像(塑像)が転倒・損壊した後に再興された像であり、像内には当初像の心木と面相部断片が納入されていた。本像は、同じ宝蔵にある平安時代末期作の馬頭観音像及び十一面観音像より時代が下り、作風も異なっている。本像の引き締まった面貌、脇腹を絞り抑揚のある体形、腰から下の衣文が左右対称でなく変化を付けている点などは鎌倉時代仏像の特色である。 木造十一面観音立像 もと講堂安置。ヒノキ材の寄木造。像高は3.03メートル。像内に「仁治三年九月廿七日」の造立記1巻が納入されていた(仁治3年は1242年)。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 14:12 UTC 版)
「横蔵寺 (加古川市)」の記事における「仏像」の解説
釈迦如来像 十一面千手千眼観音像(この像は伝承では運慶・湛慶の合作とするが史実ではない。) 子安地蔵菩薩像 阿弥陀如来坐像 毘沙門天像 増長天像 法道仙人像 持国天像 弁財天像 イボ取り地蔵石像
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仏像
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日蓮上人像 青梅市内在住で木彫家の油井外熊が三年をかけて制作したという。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 08:17 UTC 版)
堂内には木造薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将等の多数の仏像が安置されている。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 08:07 UTC 版)
堂内には21世紀初頭まで多数の仏像が安置されていたが、2011年の東大寺ミュージアム開館に際し、一部の仏像は同ミュージアムに移動されている。同ミュージアム開館以前の法華堂内の仏像の配置は次のとおりであった。すなわち、内陣中央の八角二重の仏壇上には中央に不空羂索観音像(乾漆)、その左右に日光菩薩・月光菩薩像(塑造)が立つ。八角仏壇の左右には梵天・帝釈天像(乾漆)が立ち、この両像の手前、やや本尊寄りの位置には一対の金剛力士像(乾漆)が、須弥壇の四隅には四天王像(乾漆)が立つ。このほか、本尊の後方左右には吉祥天・弁才天像(塑造)を安置し、梵天像の手前には不動明王二童子像(木造)、帝釈天像の手前には地蔵菩薩坐像(木造)がある。さらに本尊の背後に置かれた厨子には執金剛神像(塑造)を北向きに安置する。これら18体の仏像のうち、木彫の地蔵菩薩坐像と不動明王二童子像は中世の作品だが、残りの14体は奈良時代の制作である。これら14体のうち、本尊を含め、比較的像高の大きい9体は麻布を漆で貼り合わせて造形した脱活乾漆造、残り5体は塑造である。執金剛神像は秘仏で、開扉は毎年12月16日(開山良弁の忌日)のみである。 他に類例のない尊像構成のため、その典拠や、いずれの像が法華堂の当初像であるかについては諸説ある。奈良時代の像のうち、吉祥天・弁才天像が他の堂からの客仏であることは定説となっており、その他の像については、材質や像高の違いから、本尊を含む乾漆像9体が法華堂本来の像で、塑造の伝日光・月光菩薩像は他の堂から移されたものとする説と、逆に伝日光・月光菩薩像の方が当初の安置仏だとする説があった。本尊背後の執金剛神像については、『不空羂索神変真言経』の所説に基づき、本尊とセットで造立されたとする説と、他の堂から移されたとする説があった。1996年に、本尊が立つ八角二重の壇を精査したところ、二重壇の下段に八角形の台座が置かれていた痕跡が6か所確認され、これらは伝日光・月光菩薩像と現在、東大寺戒壇院にある四天王像(塑造)の計6体の台座跡とみなされている。以上のことから、法華堂の当初の安置仏は不空羂索観音像(乾漆)、日光菩薩・月光菩薩像(本来の像名は「梵天・帝釈天」か)、四天王像(現・戒壇院所在)、執金剛神像であったと考えられるに至っている。 2011年以降、日光菩薩像、月光菩薩像、吉祥天像、弁才天像、不動明王二童子像、地蔵菩薩像は法華堂から免震装置を備えた東大寺ミュージアムに移され、堂内に安置される仏像は10体となっている(不空羂索観音像、梵天・帝釈天像、金剛力士像(一対)、四天王像、執金剛神像)。堂内須弥壇の修理のため、法華堂の内部は2011年8月から非公開となり、本尊の不空羂索観音像も一時的に東大寺ミュージアムに移されていたが、2013年5月18日から公開が再開された。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 16:04 UTC 版)
本堂に安置される本尊は、聖観世音菩薩坐像。脇仏に多聞天と不動明王が並び、天台宗の三尊様式が見られる。聖観音菩薩は定朝、脇仏は運慶作と伝わる。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 00:31 UTC 版)
本尊阿弥陀三尊像 - 阿弥陀如来坐像は像高76㎝、材質は銀杏。寛政3年(1791年)4月8日の銘がある。脇侍の観世音菩薩立像・勢至菩薩立像はともに姫小松で、第二次世界大戦後に施入された。 善導大師立像 円光大師(法然)立像
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 16:56 UTC 版)
堂内の須弥壇中央に厨子が安置され、厨子内奥に本尊の鎧地蔵石像が置かれている。本尊の前立として、木彫の鎧地蔵像も安置されている。左脇壇に2体の阿弥陀如来立像、右脇壇には弘法大師坐像とかなり大きな阿弥陀如来坐像が置かれている。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 21:20 UTC 版)
金銅毘盧遮那仏座像 国宝第26号。新羅時代の作とされる金銅製の毘盧遮那仏。 金銅阿弥陀如来座像 国宝第27号。新羅時代の作とされる金銅製の阿弥陀如来像。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 09:59 UTC 版)
「ワット・サパーンヒン」の記事における「仏像」の解説
寺院の仏堂(モンドップ、mondop)の跡には「プラ・アッタロート」 (Phra Attharot、タイ語: พระอัฏฐารส) という名の高さ12.5mの大きな仏立像がある(施無畏印〈Abhaya mudrā〉)。また、もう1体の大きな仏像が20世紀中頃に発見された。仏像はドヴァーラヴァティー様式の特徴をもつが、シュリーヴィジャヤ王国において8世紀に創作された可能性が高い。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:40 UTC 版)
木造不動明王立像 木造弘法大師像 木造聖観音立像:平安時代 木造十一面観音立像(円空作):江戸時代。毎年五月五日のみ開帳。 木造十一面観音坐像(松本明慶作) 木造地蔵菩薩坐像(松本明慶作) 木造孔雀明王坐像(松本明慶作) 木造毘沙門天立像(松本明慶作)
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 22:37 UTC 版)
「密蔵院 (横浜市磯子区)」の記事における「仏像」の解説
本尊である不動明王像は1901年(明治34年)に仏師の山口久吉により制作された。高さは65cmで、「こんがら」と「せいたか」の2体の童子像(高さ32cm)とともに本堂正面に安置されている。このほか聖観世音菩薩像、正観音菩薩像、地蔵菩薩像、弘法大師像、十王像、愛媛県の繁多寺にあるものと同形の薬師如来像、横浜磯子七福神の布袋尊像が祀られている。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:12 UTC 版)
本尊脇の薬師如来は飛騨の仏師によるもので、姫薬師と呼ばれている。また、同じく本尊脇にある大日如来坐像は苗木藩の遠山友貞所縁の仏像であるが、廃仏毀釈により当寺に移されたものである。また、円空作の観音菩薩像を所蔵する。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:08 UTC 版)
所蔵の仏像には、次のようなものがある。 千手千眼観世音菩薩(本尊) 脇侍として弘法大師空海や興教大師覚鑁が控えている。 五智如来 地蔵菩薩 如意輪観世音菩薩 幸福地蔵尊 六面地蔵尊
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 05:08 UTC 版)
堂内安置の仏像について見ると、中央壇、右壇、左壇共に阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)を中心に、左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像(六地蔵)、手前に二天像(持国天、増長天)を配し、以上11躯の仏像から構成される群像を安置している。なお、ここで言う「右壇」「左壇」は本尊から見てのそれであり、拝観者からの視点では向かって左が「右壇」、向かって右が「左壇」であることは前述のとおりである。右壇の二天像のうち右方(向かって左)の増長天像は失われ、現在安置されている同像は近年の補作である。また、右壇の阿弥陀如来像は金色堂本来の像でなく、後世他所から移入された像であると見なされている。したがって、金色堂本来の仏像で現存するものは計31躯である。中央壇と左壇の阿弥陀如来像は膝前で両手を組む定印(じょういん)を結ぶが、右壇の阿弥陀如来像は右手を挙げ左手を下げる来迎印で、像高も一回り小さく、金色堂本来の像でないことは明らかである。像高は中央壇阿弥陀如来像が62.5センチメートル、左壇阿弥陀如来像が66.1センチメートル、右壇阿弥陀如来像が49.0センチメートルで、その他の諸像の像高は60 - 70センチメートル台である。金色堂は江戸時代にも修理が行われ、元禄17年(1704年)には江戸にて金色堂諸仏の出開帳が行われており(仙岳院文書)、こうした機会に仏像を移動した際に混乱の生じた可能性がある。また、江戸時代に阿弥陀如来像のうちの1躯が盗難に遭ったことも記録されている(平泉雑記)。須弥壇内に安置される遺体は、中央壇が藤原清衡、右壇が2代基衡、左壇が3代秀衡とするのが通説である。清衡は大治3年(1128年)没、基衡は保元2年(1157年)頃没、秀衡は文治3年(1187年)没で、約30年の間隔を置いて没している。須弥壇上の3組の仏像群も、上記3名の没年の前後に造立されたものと推定されているが、現状の仏像の配置は必ずしも平安時代のままではなく、後世に入れ替わった部分が多いと見なされている。各像はいずれも寄木造または一木割矧造で、漆箔を施し、用材はカツラ、ヒバ、ヒノキの3種がある。各像の様式、用材、木寄せ法等から、おおよその制作年代が推定されている。 上述のとおり、金色堂内の中央壇、右壇、左壇に安置された仏像群の配置は当初のままではなく、後世に一部が入れ替わっている。諸像の国宝指定(2004年)時の文化庁の解説によると、仏像群の本来の組み合わせと配置は以下のように考えられている。 中央壇の阿弥陀如来像は丸顔で典型的な定朝様(じょうちょうよう)を示し、定朝から3代目の円勢などの円派仏師の作風に通ずるところがあり、12世紀前半の制作と見なされることから、中央壇の本来の本尊と思われる。中央壇の両脇侍像も阿弥陀如来像と一具の作とみられる。一方、二天像に着目すると、中央壇の二天像は全体に細身で、腰を強く捻り、片脚と片手を高く上げ、袖を大きくひるがえすなど、激しい動きを表すつくりである。これに対して、左壇の二天像は穏やかな体勢である。右壇の二天像(1躯のみ現存)はこれらの中間的作風を示す。福島県いわき市白水阿弥陀堂の二天像(永暦元年・1160年頃の作)が金色堂中央壇像に類似することが指摘されており、様式からみれば、中央壇の二天像は12世紀半ばの作と推定される。左壇の、穏健な作風の二天像は、これより時代が上がり、中央壇の阿弥陀三尊像と一具のものと考えられる。一方、右壇の二天像(1躯のみ現存)は平安時代最末期の造像とみられる。六地蔵像については、作風や木寄せの技法などからみて、左壇の六地蔵像が中央壇の阿弥陀三尊と一具であったものとみられる。以上のことから、中央壇の阿弥陀如来像と両脇侍像、現・左壇の六地蔵像、現・左壇の二天像の11躯が本来の一具であり、金色堂上棟の1124年頃の作とみられる。これら11躯はいずれもヒノキ材の寄木造または一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)であり、丸顔で腹部に厚みをもたせた造形で、作風や材質にも共通性がある。中央壇の阿弥陀如来像は頭体を通じ正中線で左右に2材を矧ぐ寄木造である。一方、左壇の六地蔵像のうち1躯はやはり左右2材による寄木造、残りの5躯は一木を左右に割った一木割矧造であり、このように正中線で左右に割る技法も共通している。 残りの像についてみると、左壇の阿弥陀如来像の細面の面相は、右壇の両脇侍像のそれに通ずるところがあり、これらが本来の一具であったとみられる。また、右壇の両脇侍像の細身、腰高で頭部を小さく造るプロポーションは、中央壇六地蔵像および中央壇二天像と共通するものがある。したがって、左壇阿弥陀如来坐像、右壇両脇侍像、中央壇六地蔵像、中央壇二天像の11躯が本来の一具と推定される。これらの像はいずれもカツラ材の一木割矧造で、材質・構造の点でも共通性がある。これらは基衡が没した1157年頃の作とみられる。 したがって、残る左壇両脇侍像、右壇二天像(2躯のうち持国天像のみ現存)、右壇六地蔵像が本来の一具となり、これらは平安時代最末期、秀衡が没した1187年頃の作ということになる。これらの像はいずれも一木割矧造であるが、用材はまちまちである。すなわち、両脇侍像はヒバと思われる材、持国天像はヒノキまたはヒバと思われる材、六地蔵はカツラ材が4躯、ヒノキ材とヒバ材が各1躯となっている。 以上を整理すると、中央壇の阿弥陀三尊像と、左右壇の両脇侍像は本来の位置にあるが、本来右壇にあった阿弥陀如来像が左壇に移動しており、六地蔵像と二天像については、本来中央壇にあった像が左壇に、本来右壇にあった像が中央壇に、本来左壇にあった像が右壇にそれぞれ移動していることになる。なお、以上の説明は右壇を基衡壇、左壇を秀衡壇とした場合のものであり、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なした場合は説明が異なってくる。中尊寺刊行の図録『世界遺産中尊寺』の解説(浅井和春執筆)では、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なしているが、いずれの像を本来の一具とみなすかについては国宝指定時の文化庁の解説と同様である。 制 作 年 代該当する像備 考1124年頃(清衡晩年) 現・中壇 阿弥陀如来像 現・中壇 両脇侍像 現・左壇 六地蔵像 現・左壇 二天像 本来中央壇(清衡壇)に所属していた像 1157年頃(基衡没後) 現・左壇 阿弥陀如来像 現・右壇 両脇侍像 現・中壇 六地蔵像 現・中壇 二天像 本来基衡壇(通説では右壇、寺伝では左壇)に所属していた像 1187年頃(秀衡没後) (阿弥陀如来像は現存せず) 現・左壇 両脇侍像 現・右壇 六地蔵像 現・右壇 二天像(1躯のみ現存) 本来秀衡壇(通説では左壇、寺伝では右壇)に所属していた像
※この「仏像」の解説は、「中尊寺金色堂」の解説の一部です。
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仏像
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詳細は「仏像」を参照 初期仏教では、具体的に礼拝する対象はシンボル(菩提樹や仏足石、金剛座)で間接的に表現していたが、ギリシャ・ローマの彫刻の文明の影響もあり、紀元1世紀頃にガンダーラ(現在のパキスタン北部)で直接的に人間の形の仏像が製作されるようになり、前後してマトゥラー(インド)でも仏像造立が開始された。仏像造立開始の契機については諸説あるが、一般的には釈迦亡き後の追慕の念から信仰の拠りどころとして発達したと考えられている。仏像の本義は仏陀、すなわち釈迦の像であるが、現在は如来・菩薩・明王・天部など、さまざまな礼拝対象がある。 如来 - 「目覚めた者」「真理に到達した者」の意。悟りを開いた存在。釈迦如来のほか、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来など。 菩薩 - 仏果を得るため修行中の存在。すでに悟りを開いているが、衆生済度のため現世に留まる者ともいわれる。如来の脇侍として、または単独で礼拝対象となる。観音菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩など。 明王 - 密教特有の尊格。密教の主尊たる大日如来が、難化の衆生を力をもって教化するために忿怒の相をもって化身したものと説かれる。不動明王、愛染明王など。 天部 - 護法善神。その由来はさまざまだが、インドの在来の神々が仏教に取り入れられ、仏を守護する役目をもたされたものである。四天王、毘沙門天(四天王の一である多聞天に同じ)、吉祥天、大黒天、弁才天、梵天、帝釈天など。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:15 UTC 版)
十一面観音立像(本尊)平安時代に作られたとされる一木造の十一面観音像で秘仏。高さ66.1センチメートルで、本堂正面の厨子内に祀られている。 伝真済上人坐像真済の姿とされる坐像。江戸時代に造られた。寄木造、彩色、玉眼。高さ67.7センチメートル。 不動明王立像平安時代に造られた不動明王像。一木造の立像で高さ97.5センチメートル、彫眼、古色。 難陀龍王像江戸時代に造られた難陀竜王像。寄木造で高さ46.8センチメートル、玉眼、彩色、一部に漆箔。 雨宝童子像江戸時代に造られた雨宝童子像。寄木造で高さ39.9センチメートル、玉眼、彩色、一部に漆箔。 普賢延命菩薩坐像江戸時代に造られた普賢延命菩薩像。一木造で高さ9.8センチメートル、彫眼、一部に金泥。 阿弥陀如来立像江戸時代に造られた阿弥陀如来像。一木造で高さ19.4センチメートル、玉眼、金泥、漆箔。 地蔵菩薩立像江戸時代に造られた地蔵菩薩像。一木造で高さ16.2センチメートル、彫眼、彩色。 地蔵菩薩立像室町時代に宿院仏師の源次によって造られた地蔵菩薩像。寄木造で高さ58.1センチメートル、玉眼。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 14:46 UTC 版)
以下の仏像を所蔵する。本尊の薬師三尊は秘仏である。 木造薬師如来及び両脇侍像(薬師三尊) - 中尊(本尊) 木造薬師如来坐像 - 半丈六の坐像で、本尊薬師三尊が秘仏であるため、その「御前立」として安置されている。 千手観音坐像 毘沙門天立像 地蔵菩薩半跏像 木造薬師如来及び両脇侍像(薬師三尊) - 中尊の薬師如来坐像、左脇侍の日光菩薩立像、右脇侍の月光菩薩立像からなる三尊像である。薬師如来坐像は、榧(かや)材、日光菩薩立像、月光菩薩立像は檜材が用いられている。3体ともに内刳(うちぐり)のない、一木彫像である。薬師如来坐像は像高84cmで、平安時代前期の重厚な趣があるが、頭部や胸の厚みは薄く、温和な丸い顔立ちや簡素な衣文の表現には、地方色が認められる。日光菩薩は像高101.3cmで、頭部と躰体の比率もよく、肉どりも穏やかで、軽やかな量感把握をみせる造形に平安後期の特色が伺える。 「御前立」の木造薬師如来坐像は、半丈六(高さ134.6cm)の坐像である。寄木造で檜材が用いられ、左手に薬壺を持つ一般的な像容である。伏し目の温雅な表情や、なだらかな肉取り、均整のとれた体躯、整理された衣文の表現などに、平安時代後期の定朝様の作風の特色が伺える。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 10:22 UTC 版)
回廊の外縁をめぐる壁には432体(各面108体)の仏像が安置されている。仏像は、方形壇の各面で、面ごとに異なった印相を結んでいる。各面第4層(第三回廊)までの368体(各面92体)については、それぞれ以下のようになっている。 東側:阿閦如来で指地の印 南側:宝生如来で満願の印 西側:阿弥陀如来で弥陀定印 北側:不空成就如来で無畏の印 第5層(第四回廊)の64体は、東西南北ともに毘盧遮那仏で法身説法印を結んでいる。 阿閦如来(東面) 宝生如来(南面) 阿弥陀如来(西面) 不空成就如来(北面) 転法輪印を結ぶ釈迦如来 円形壇の72体の転法輪印の仏像は釈迦如来と考えられており、このことより、ボロブドゥール全体が密教の系統を引く巨大な立体曼荼羅であるとする説が有力である。
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仏像
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「ワット・パナンチューン」の記事における「仏像」の解説
寺院のうち最も高い建物である大きな礼拝堂 (wihan) には、1334年からの高さ19メートルとなる巨大な金色の仏坐像が納められている。この崇高な仏像は、タイ人からは「ルワンポートー」(Luang Pho Tho、タイ語: หลวงพ่อโต、「大師」)、中国系タイ人には「サムパオコーン」(Sam Pao Kong、タイ語: ซำเปากง、「三宝公」)と呼ばれる。この仏像は船乗りの守護仏とみなされている。また、伝承によると1767年、ビルマによるアユタヤの破滅の前に「聖なる目から臍まで涙が流れた」という。 この像は歴史の上で数回復元されている。王モンクット(ラーマ4世)は、1854年に修復されたその像を「プラ・プッダ・トライラタナ・ナーヨック」 (Phra Puttha Thrai Ratana Nayok) と名付けた。「トライラタナ」は「三宝(仏・法・僧)」(サンスクリット)の意である。仏像は、煉瓦の上に漆喰が施されたものであり、1901年には、火災により社殿とともに損傷したが、ラーマ5世(在位1868-1910年)の時代のうちに修復された。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:25 UTC 版)
「観音寺 (桜井市南音羽)」の記事における「仏像」の解説
厨子入不動明王立像、厨子入千手十一面観音立像、阿弥陀如来立像(2軀)、薬師如来坐像、弥勒菩薩坐像(2軀)、弘法大師半跏像、毘沙門天立像、弘化3年銘の先祖像など。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 13:28 UTC 版)
「燈明寺 (木津川市)」の記事における「仏像」の解説
旧境内に建つ収蔵庫内には、千手観音立像、十一面観音立像、馬頭観音立像、不空羂索観音立像(伝・如意輪観音)、聖観音立像が安置される。各像はいずれも木造で、鎌倉時代末期の作とみられる。正徳3年(1713年)、海住山寺の僧如範の著になる『南山城三十三所順礼』には、燈明寺の本尊は「六観音」とある。六観音とは、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音、准胝観音(またはこれに換えて不空羂索観音)を指すが、燈明寺収蔵庫に現存する観音像は5体のみである。元禄9年(1696年)の『燈明寺縁起』にも当寺には千手観音立像を中尊として、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音、聖観音の5体を安置する、とある。現存する5体は像高もまちまちで、すべてが一具の作とは考えられない。不空羂索観音立像(伝・如意輪観音)の胎内からは徳治3年(1308年)の年紀のある、結縁交名の紙片3紙が発見されている。紙片の墨書から、この像は興福寺の別会五師が関与して制作されたことがわかる。別会五師とは、春日社若宮の「御祭」などの行事にかかわった僧侶集団であり、この不空羂索観音立像と、造高の近い千手観音立像、十一面観音立像は興福寺周辺の仏師の作とみられる。これらの仏像は、川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団が所有・管理している。
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仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:33 UTC 版)
本尊は『藤沢-わがまちのあゆみ』では日蓮上人、『新編相模国風土記稿』では一塔両尊となっている。 日蓮聖人坐像 - 像高25.5センチメートル、寄木造り、玉眼、彩色、作者: 市太夫(日本橋大仏師)、元禄2年(1689年)。 一塔両尊。 四大菩薩。 四大天王。
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仏像
「仏像」の例文・使い方・用例・文例
- 木彫りの仏像
- 専門家の判定ではこの仏像は200年前のものだ
- 仏像
- ネパール・チベット密教の仏像・曼荼羅、アジアの雑貨を扱っています
- この仏像は国宝です。
- その木彫り師は仏像を得意としている。
- この仏像は木で作られている。
- 彼は仏像を木で彫った。
- その彫刻家は木で仏像を刻んだ。
- この仏像の年代は正確に推定することができない。
- 木彫りの仏像.
- 仏像はがらんどうだ.
- 仏像を刻む
- 仏像は台の上に安置してある
- Greece の彫刻はその美は言うまでも無く仏像のような落ち着きがある
- この仏像は作が好い
- 倚像という,座っている姿の仏像
- 板を仏像の形に切り取り,彩色した物
- 銅板を仏像の形に打ち出した物
- 一光三尊という仏像
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