マトゥラ【Mathura】
マトゥラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/21 06:01 UTC 版)
座標: 北緯27度29分34秒 東経77度41分00秒 / 北緯27.492664度 東経77.683468度
- 1 マトゥラーとは
- 2 マトゥラーの概要
- 3 交通
マトゥラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:47 UTC 版)
仏像が盛んに造られるようになったのは、紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっている。クシャーナ朝のカニシカ王は釈迦の教えに触れて仏教の保護者となった。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印した。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャーワル)の遺跡からはクシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されている。 マトゥラーの仏像は肩がいかり肩で力強く、量感に富む仏像が造られた。これはさらに洗練され、グプタ朝時代の完成された仏像に引き継がれていった。 世界の仏像 ビーマラーン舎利容器/金製。アフガニスタンのビーマラーン出土。大英博物館蔵。 バーミヤーン大仏(破壊前)/5-6世紀、アフガニスタン。 石窟庵如来坐像/新羅統一時代(8世紀)朝鮮。 ボロブドゥール如来坐像/8-9世紀、インドネシア。 浄土寺 阿弥陀三尊像/鎌倉時代(13世紀)、日本の兵庫県小野市。
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マトゥラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 12:57 UTC 版)
紀元前から紀元後1世紀のマトゥラーは、宗教都市であると同時に、ガンジス川の支流ヤムナー川に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀にはシュンガ朝のプシュヤミトラの支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが 、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式についてはヘレニズム由来ではなく、同地におけるマウリヤ朝以来の他宗派の芸術(ヤクシャ像、ヤクシー像[バラモン教]・ジナ像[ジャイナ教])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の肉髻)、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。白毫相(白い毛房)、耳朶の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは三十二相八十種好で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである。
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