阿弥陀三尊
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阿弥陀三尊(あみださんぞん)は、仏教における仏像安置形式の一つである。
阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍[1]の観音菩薩と、右脇侍[1]の勢至菩薩を配する三尊形式である。根拠は『無量寿経』・『観無量寿経』である。
観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。
脇侍の観音菩薩は、頭上の髻の正面に阿弥陀の化仏(けぶつ)を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶を表すので、両脇侍は比較的区別がつけやすい。
日本では、東京国立博物館が収蔵する「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)」[2](重要文化財、飛鳥時代)や、橘三千代の念持仏と伝えられる法隆寺の「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」[3](国宝、飛鳥時代、大宝蔵院収蔵)などが古い作例である。
形式
主に下記の形式がある。
- 三尊とも立像(りゅうぞう)
- 三尊とも坐像
- 中尊坐像・脇侍立像
- 中尊坐像・脇侍跪坐(きざ)[4]
中尊は坐像、脇侍は跪坐とするものは、来迎形式の阿弥陀三尊像である。この場合、左脇侍の観音菩薩は往生者を迎え取るための蓮台を捧げ持ち、右脇侍の勢至菩薩は合掌する例が多い。 中尊は右手を施無畏の印、左手を刀印を結んだ像が一般的である。
また、地蔵菩薩と龍樹菩薩を含めて五尊像とした作例もみられる。
日本の国宝に指定されている阿弥陀三尊像
「太字」は、国宝指定名称。

浄土寺
- 中尊寺(岩手県)
- 「金色堂堂内諸像及天蓋」の諸像(31躯)のうち「木造阿弥陀如来及両脇侍像」
- 中央壇三尊・左壇[5]三尊・右壇[6]両脇侍の計8躯が国宝に指定[7]される。
- 平安時代、中尊坐像・脇侍立像、中尊寺金色堂安置。
- 清凉寺(京都府)
- 「木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(棲霞寺旧本尊)」
- 平安時代、三とも尊坐像、霊宝館安置。
- 仁和寺(京都府)
- 「木造阿弥陀如来及両脇侍像(金堂安置)」
- 平安時代、中尊坐像・脇侍立像。
- 三千院(京都府)
- 「木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(往生極楽院阿弥陀堂安置)」
- 平安時代、中尊坐像・脇侍跪坐。
- 法隆寺(奈良県)
- 「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」
- 飛鳥時代、中尊坐像・脇侍立像、大宝蔵院収蔵。
- 浄土寺(兵庫県)
- 「木造阿弥陀如来及両脇侍立像(浄土堂安置)」
- 鎌倉時代、快慶作、三尊とも立像。
日本の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像
「太字」は、重要文化財指定名称。
- 願成寺(福島県)
- 「木造阿弥陀如来及両脇侍坐像」
- 三尊ともに寄木造で鎌倉時代初期の作。
- 心光院(京都府)
- 「木造阿弥陀如来及両脇侍像」
- 中尊坐像(寄木造漆箔)は平安時代後期、脇侍跪坐像(木造漆箔玉眼)は室町時代の作。
善光寺の阿弥陀三尊像
一般に三尊像を包み込むように大型の後背を付けたものを一光三尊形式と呼ぶ。鎌倉時代に浄土宗によって、善光寺の阿弥陀三尊像を模したものは一光三尊形式をとり、阿弥陀如来を本尊、両脇侍を観音、勢至とみなすと決められ、以来この形式を「善光寺式阿弥陀三尊」と呼ぶ[8]。
善光寺式阿弥陀三尊の元となった、信州善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」(本堂の瑠璃壇内部に安置)は、「絶対秘仏」である。 『扶桑略記』の中の「善光寺縁起」などによれば、中尊は一尺五寸(約50センチメートル)、両脇侍は一尺(約33.3センチメートル)と法量が記されている。
その秘仏本尊を模して作られたとされる前立本尊「金銅阿弥陀如来及両脇侍立像〈一光三尊仏/(内仏殿安置)〉」(鎌倉時代)は、重要文化財に指定されている。
その前立本尊も、「善光寺前立本尊御開帳」以外は非公開で御宝庫に収蔵されている。朝の勤行や法要などの限られた時間のみ瑠璃壇の前の金色の幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇を部分的に拝観できる。
脚注
- ^ a b 左脇侍・右脇侍とは、中尊から見ての「左」「右」を意味する。したがって、拝観者から見た場合、中尊の向かって右が左脇侍、向かって左が右脇侍である。
- ^ 「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)」・・・法隆寺献納宝物「四十八体仏」の1つ。
- ^ 「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」は、「橘夫人厨子」(国宝指定名は、「木造厨子」)内に安置されている。
- ^ 跪坐…ひざまずく
- ^ 左壇…中央壇に向って右側の須弥壇。
- ^ 右壇…中央壇に向って左側の須弥壇。
- ^ 計8躯が国宝に指定…右壇の両脇侍…右壇の阿弥陀像は、金色堂本来の像ではなく他所から移入したものと見なされている。そのため、国宝の31躯のうちには含まれず、附(つけたり)指定の扱いとなっている。詳細は、中尊寺金色堂#仏像を参照のこと。
- ^ 久野健 編『彫刻』<日本史小百科>、近藤出版社、1985年 pp.222-223.
関連項目
外部リンク
阿弥陀三尊像
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金堂西の間本尊。中尊と左脇侍(観音菩薩)は銅造阿弥陀如来及び脇侍像 2躯 康勝作(金堂安置)として重要文化財に指定。鎌倉時代の作。像高は中尊64.6センチ、左脇侍55.4センチ。右脇侍(勢至菩薩)は1994年の補作。光背裏の銘文によれば、当初の像が承徳年間(11世紀末)に盗難に遭い、台座だけがむなしく残されていたため、寛喜3年(1231年)からこの像を造り始め、翌貞永元年(1232年)に開眼供養されたという。原型の作者は康勝、鋳工は平国友である。康勝は運慶の四男の仏師で、本像以外の現存作品としては六波羅蜜寺の空也上人像、東寺御影堂の弘法大師像などがある。阿弥陀像の服制、裳懸座や光背のデザインなどは金堂東の間の薬師如来像と似ており、康勝が飛鳥時代の様式を模して作った復古作である。とはいえ、中尊の面相の実人に近い写実的表現は鎌倉時代風であり、時代の差が歴然と現れている。中尊の印相はいわゆる阿弥陀の定印(じょういん、腹前で両手を組む)だが、これは両界曼荼羅中の阿弥陀像にみられる密教系の印相で、飛鳥時代にはみられないものである。両脇侍のうち、左脇侍像(観音菩薩)は阿弥陀像と一具の作であるが、右脇侍像(勢至菩薩)は明治時代初期に寺外に流出し、右脇侍の立つ位置には、全く別の観音菩薩像(奈良時代の作)が置かれていた。本来の右脇侍像は長年所在不明であったが、パリのギメ美術館の収蔵庫に保管されていたことが1989年に判明。翌年、仏像研究者の久野健によって法隆寺西の間阿弥陀如来の脇侍像と確認された。1994年の「国宝法隆寺展」ではギメの勢至菩薩像が日本へ里帰りし、三尊揃っての展示が実現した。現在金堂阿弥陀如来の右脇侍として安置されているのは、ギメの勢至菩薩像を模して1994年に新たに鋳造された像である。両脇侍像は、もと金堂「東の間」薬師如来の脇侍として安置されていた2体の菩薩像(現在は大宝蔵院へ移動)と着衣や装身具の形式が似ており、古像を範とした模古作である。 以上のように、阿弥陀三尊像自体は鎌倉時代の作だが、その下にある木造台座は、その一部が飛鳥時代のものである。この台座は、金堂「中の間」釈迦三尊像台座や「東の間」薬師如来像台座と同形式で、台脚部の上に箱形を2段に積み上げた形のものである。下段の箱形(下座)に比し、上段の箱形(上座)は一回り小さくなっている。このうち、下座のみが飛鳥時代の作で、上座は鎌倉時代に追加された。下座は請花と反花がクスノキ材で、他の部分がヒノキ材。上座は反花も含めすべてヒノキ材である。上座・下座の四面にはそれぞれ彩色の絵画がある。下座の絵画は現状では剥落が激しく、肉眼では図様を確認することはほとんど不可能であるが、山岳、樹木、飛天、四天王などが描かれ、全体としては須弥山世界を表すものと考えられている。下座正面は山岳と2体の飛天が描かれ、背面は山岳を描く。側面は左右とも2体ずつの天部像を描き、合せて四天王を表したものと思われる。上座の絵画は下座と作風がまったく異なる、鎌倉時代の作品である。上座正面は補陀落浄土図、背面は五台山文殊図、東側面は霊鷲山図を描く。西側面の図は、雲上に黒衣の僧が乗り、合掌する姿が描かれている。僧が西方極楽浄土へ向かうところを描いたものであるが、通常の「来迎図」と異なって図中には来迎する阿弥陀如来の姿は描かれておらず、この僧は自力で台座上の阿弥陀如来のもとへ向かっているものと解釈されている。 以上のように、金堂「西の間」の木造台座は下座部分が飛鳥時代のものであり、「西の間」天井から下がる木造天蓋も飛鳥時代の作である。しかし、西の間に当初どのような仏像が安置されていたのかは定かでない。鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』(顕真著)は、「金堂西の間にもとあった阿弥陀三尊像は聖徳太子が自身と母と妃とのために作らせたものであった」と明記している。しかし、金堂西の間にそのような阿弥陀三尊像が安置されていたということは、古い記録では確認できない。天平19年(747年)の『資財帳』には、「東の間」薬師像と「中の間」釈迦像は明記されているが、阿弥陀像についての記載はない。また、平安時代(11世紀末)の記録である『金堂仏像等目録』によれば、当時金堂西壇(西の間)に安置されていたのは阿弥陀三尊ではなく、「小仏18体」であった。前述のとおり、阿弥陀三尊像の光背銘には、「承徳年間(11世紀末)に盗賊が入った」との記載があるが、盗まれたものについては「仏像」とあるのみで、「阿弥陀三尊」と明記はされていない。また、当該盗難事件については、法隆寺の他の記録では確認できない。 「西の間」の台座下座の天板上面は黒漆塗とするが、その中央に円形に黒漆を塗り残した部分(径64センチ)があることが、『昭和資財帳』作成時の調査によって判明した。これは、当初は下座天板の上に何かの像が乗っており、その像の台座に隠れて見えなくなる部分を円形に塗り残したものと考えられる。法隆寺の近くにある中宮寺の菩薩半跏像の台座径がこの塗り残しの大きさに近いことから、「金堂西の間には中宮寺菩薩像が安置されていた」との説がNHKのテレビ番組で紹介されたことがある。しかし、これは事実誤認であることが西川杏太郎によって明らかにされた。中宮寺菩薩像は、榻座(とうざ)という円筒状の台座に腰掛けており、その径は前述の黒漆の塗り残しの径に近い。しかし、榻座の下にはさらに一回り大きい反花座と框座があり、下框の径は107.7センチで、大きさがまったく異なっている。大橋一章は2006年の論文で、この天板上には法隆寺夢殿本尊の救世観音像が安置されていたのではないかとの説を提出している。大橋によれば、救世観音像の台座下框の径は74センチで、前述の黒漆の塗り残しの大きさに近い。また、救世観音像は聖徳太子の等身像と伝承されていることから、太子信仰の寺である法隆寺の金堂に安置する像としてふさわしく、ある時期から金堂「西の間」本尊が不在となっている理由も、救世観音像が夢殿に移されたことで説明がつくという。
※この「阿弥陀三尊像」の解説は、「法隆寺の仏像」の解説の一部です。
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