古い記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:06 UTC 版)
「サーン・アバスの巨人」の記事における「古い記録」の解説
イギリスの田園地帯に掘られた、石灰岩を利用した地上絵はほかにもあるが、サーン・アバスの巨人もそうであるように非常に古い時代につくられたものだと考えられがちである。しかし巨人について言及した文献は遡っても17世紀後半のものしかない。中世の史料には、トレンドルとして知られる鉄器時代の土塁に関連して(巨人が画かれている丘陵である)トレンドル・ヒル に言及にしているものはあるが、巨人については書かれていない。ブリストル大学のJ.H.ベティはこの一帯に関してはそれ以前の史料が全くみつからないことを指摘している。例えば、1540年代の詳細な調査資料や1617年のジョン・ノーデンによる土地調査にも、トレンドルや他のランドマークについては書かれていても、巨人に対する言及はない。これは3,000年前のアフィントンの白馬が11世紀後半にはすでに当時の文献に登場しているのとは対照的である。 サーン・アバスの巨人が初めて記録に現れるのは、1694年11月4日の日付でサーン・アバスの村のセントメアリー協会から来た教区委員が書き込んだ帳簿で、そこには「3シリング、巨人の修復のため」とある。1734年、ブリストル主教はサーン・アバスを巡察のため訪問するが、その際に巨人について質問をしており、1738年には好古家のフランシス・ワイズが手紙の中で巨人について触れている。このときの主教の言葉や、その後のウィリアム・ステュークリなど様々な人の巨人についての見解を巡っては、1764年のロンドン考古協会の会合で議論がおこなわれている。 1763年以降、「古代の遺物」に対する世間の関心が高まったことをうけて、当時の雑誌にも巨人に関する文章が登場しはじめた。最初の調査記録は1763年9月に出版されたRoyal Magazineに掲載されている。同じような調査はその後も1763年10月のSt James Chronicle、1764年7月のGentleman's Magazine 、1764年版のThe Annual Register にも掲載されている。1770年代のはじめには好古家のジョン・ハッチンス(英語版)が「The History and Antiquities of the County of Dorset」という本を書いて、サーン・アバスの巨人に関して過去に書かれた様々な記述をまとめている(この本は彼の死後の1774年に出版された)。 ハッチンスによれば、巨人が掘られたのはわずかに前世紀であるという地元の言い伝えがあり、さらに当時は巨人の足のあいだに大雑把に3つの文字が掘られていて、その上に明らかにアラビア数字で「748」と入っていたが、いまではその特徴は失われている。ハッチンスの説明は19世紀の初期にでた何冊かのガイドブックにそのまま取り入れられている。 「ベンジャミン・プライスによる1768年のサーン・アバスの測量図」と呼ばれる地図には巨人の存在も書き込まれていて、この地図はドーセット歴史センターに掲示されているが、一方でイギリス国立公文書館の記録とつきあわせると、この地図は1790年代のものであることが明らかである。 19世紀にはいると、巨人の描写をする際に必ずと言っていいほどペニスには省略されるようになった。その慎み深さは当時の一般的な感覚であったか、すでにその部分は草に覆われてしまっていたかのいずれかだが、この時代に巨人はあっという間に誰も顧みなくなり、草も伸び放題であったようである。ようやく1868年になって当時の所有者であったリバー卿ことホレス・ピットリバーズの命のもと巨人は「可能な限り元の状態に」修復された。 様々な時代に描かれたサーン・アバスの巨人 1764年にGentleman's Magazine に掲載された、最古の巨人のスケッチ。高さ55メートルという測量結果も記載されている。 1764年のスケッチ(おそらく1763年に描かれたもので、ロンドン考古協会 (Society of Antiquaries of London)に届けられた) ジョン・サイデンハムによる1842年のスケッチ ウィリアム・プレんだーリースによる1892年のスケッチ
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