釈迦三尊
釈迦三尊像
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詳細は「法隆寺金堂釈迦三尊像」を参照 国宝。指定名称は「銅造釈迦如来及び両脇侍像」。金堂「中の間」本尊であり、内陣中央部、木造二重の箱形台座(その形状から宣字形台座と称する)の上に、中尊の釈迦如来坐像と両脇侍菩薩立像が安置される。三尊全体の背後に大型の舟形光背があり、これとは別に両脇侍はそれぞれ宝珠形の光背を負う。銅造鍍金で像高は中尊が87.5センチ、左脇侍(向かって右)が92.3センチ、右脇侍(向かって左)が93.9センチ。 本三尊像の作者は、光背銘によれば司馬鞍首止利仏師、すなわち鞍作止利(鳥)である。止利の生没年は不明だが、祖父の司馬達等(読みは「しばだっと」「しめだちと」など)は『日本書紀』によれば継体天皇の時代に渡日した漢人(あやひと、渡来人)とされ、その出自は中国南朝の梁とも朝鮮半島の百済ともいう。いずれにしても、止利は渡来人の子孫ということになる。『書紀』に見える止利の最初の事績は、飛鳥寺の銅繍(銅造と刺繍)の丈六仏像の造仏工に任じられたことである。 舟形光背の裏面には造像の由来について記した銘文がある。銘文は14字14行で、四六駢儷体の格調高いものである。銘文の大意は以下のとおりである。 西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である。 この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。福山敏男は1935年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、推古朝の作ではないとした。福山は推古朝には「天皇」の語はなく、したがって「法皇」という用語もなかったとするが、これについては、栗原朋信(1965年の論文)が推古朝に天皇号がなかったとは証明できないとして批判した。藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見は天平6年・734年の正倉院文書)、釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭も同様の説を述べている。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前の文字資料は乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した。
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釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)
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