本像をめぐる問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:00 UTC 版)
「法隆寺金堂釈迦三尊像」の記事における「本像をめぐる問題」の解説
『昭和資財帳』作成時の調査所見によると、釈迦像の像内には鋳造時に溶銅が回りきらなかった箇所に鋳掛けをした跡が3か所に見られるのに対し、東の間の薬師像の像内には鋳掛けはみられず、技法的に進歩が見られるという。型持の処理については、釈迦像では鋳掛けと象嵌を併用しているが、薬師像では象嵌のみで処理されている。こうした技法面からも、釈迦三尊像は東の間薬師像に先行する作品とみられる。 釈迦三尊像は、光背(挙身光)の上端に折損はあるものの、火災に遭って焼けたような痕跡はない。もし釈迦三尊像が『書紀』にいう670年の火災以前から法隆寺に安置されていたのだとしたら、火災時に焼損なく運び出すことは不可能ではないかという意見がある。これについて美術史家の町田甲一は次のように答えている。寺院の火災は、塔への落雷・出火が原因となって、他の建物に類焼する場合が多い。法隆寺の場合も、まず塔が落雷で出火したが、釈迦三尊像を安置する仏堂に火が移るまでには時間があり、その間に像と光背を別々にして運び出すことは可能だったのではないかということである。しかし、『昭和資財帳』作成時の調査所見によると、釈迦像と光背を合わせた重量は422キログラムであり、形態も複雑で、これを損傷なく搬出することはきわめて困難とみられる。また、光背の端部は厚みが薄く、前述の損傷は必ずしも火災時にできたものとは限らない。 釈迦三尊像の完成は聖徳太子の死去の翌年の623年、薬師如来像の完成はそれより後とすると、それ以前の法隆寺には本尊はなかったのか、聖徳太子在世中に発願・完成された仏像はなかったのかという疑問が出てくる。これについて前出の町田甲一は、古代の金銅仏制作には長い期間を要したはずで、銘文に623年の完成とあっても、実際の制作はもっと早い時期、すなわち太子の生存中に始まっていたはずだとする。釈迦三尊像銘文によれば、この三尊像は太子が発病してから1年と少しで完成したことになっている。しかし、たとえば山田寺講堂の本尊(その頭部のみが奈良・興福寺に現存)の場合は天武天皇7年に制作を開始し、完成したのは同14年であり、これより半世紀も前の作品である法隆寺釈迦三尊像が1年強で完成したとは考えがたい。したがって、銘文には623年とあっても、実際の制作はその数年前から始まっていたはずだということである。
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