こう‐はい〔クワウ‐〕【光背】
光背
光背
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:24 UTC 版)
最初期のムハンマド画には光背が必ずあるわけではないが、ある場合はキリスト教美術の様式にもみられるような丸い形だった。その後、仏教あるいは中国的な様式である炎のように伸びた光背、後光がより一般的になっていった。光背あるいは炎は頭のまわりに描かれるだけでなく、体全体を覆っている場合がほとんどであり、光だけが描かれて身体そのものはみえない挿絵もある。このように光に包むことで真実主義による表象から生じる問題を避けるとともに、ムハンマドの人ととなりは文章で伝えられる。身体が描かれているときは、顔はベールで被われていることもある。こういった描き方は、ペルシアのサファヴィー朝の勃興のときから始まっており、崇拝と畏敬の念を表わすために行われている。ムハンマドだけでなくその妻や他のイスラムの預言者も、絵の中に登場するときは同じように描かれている。 イスラム美術の初期の研究者であるトーマス・W・アーノルドは、かつて次のように述べていた。「イスラム教徒は、仏教やキリスト教がそうであったように信仰に付随するものとしての絵画をけっしてよろこばなかった。モスクで宗教画が飾られることはないし、異教の教えを説明したり信心を深めるための写実的な美術品もない」。イスラム教とキリスト教を比較して、「したがって、イスラム美術には宗教画の伝統などない。どのような様式の描写であっても美術史的な発展を遂げたことはなく、宗教的なテーマに関する画家ごとの流派もなかった。キリスト教の教会における権威に相当するような宗教思想の指導者に関する手引きなどもってのほかである」。 ムハンマドの肖像は、今日でも議論の分かれる問題であり、中東ではそれを許容しない国が多い。例えば、1963年にはメッカへ巡礼したトルコ人の描いた記事がパキスタンでは発禁となった。なぜならヴェールのないムハンマドを描いたミニアチュールの画像を含んでいたからである。 おそらくナッカシュ・オスマン(英語版)による、1595年に完成したオスマントルコ語写本の預言者伝(英語版)より、ムハンマドの誕生 ヒラー山のムハンマド メッカに向かうムハンマドと、天使ジブライール、イスラーフィール、アズライール バドルの戦いに臨むムハンマド ムハンマドとその仲間の前でナディール・イブン・ハーリス(英語版)の首をはねるアリー ラシードゥッディーンが編纂した『集史』より、ムハンマドとバヒラの邂逅(エジンバラ大学図書館所蔵の写本、1315年頃のムザッファル朝時代のタブリーズで描かれた挿絵) 『集史』よりナディール族(英語版)の降伏を受け入れる(乗馬姿の)ムハンマド カアバで異教の偶像を破壊するムハンマド カアバに黒石を奉納するムハンマドのミニアチュール画(『集史』より、1315年頃) 『預言者伝』より「カアバのムハンマド」。ムハンマドの顔はヴェールで覆われている The destruction of idols at the Kaaba. Muhammad (top left and mounted at right)[要出典] is represented as a flaming aureole. From Hamla-i haydarî ("Haydar's Battle"), Kashmir, 1808. Muhammad's Call to Prophecy and the First Revelation; in the Majmac al-tawarikh (Compendium of Histories), c. 1425; Timurid, Herat, Afghanistan Journey of the Prophet Muhammad in the Majmac al-tawarikh (Compendium of Histories), c. 1425; Timurid. Herat, Afghanistan. Miraj image from 1539–43, reflecting the new, Safavid convention of depicting Muhammad veiled. An image from the Houghton Shahnameh (Metropolitan Museum of Art). Detail showing Muhammad, Ali, and the companions at the Massacre of the Prisoners of the Jewish Tribe of Beni Qurayzah, 19th-century text by Muhammad Rafi Bazil. Both Muhammad (upper right) and Ali (center) are depicted as columns of flame rather than illustrated directly. Muhammad and Khadija performing the first wudu, as illustrated in the Siyer-i Nebi The Investiture of Ali at Ghadir Khumm, MS Arab 161, fol. 162r, AD 1309/8 Ilkhanid manuscript illustration. Death of Muhammad Muhammad's ascent into the Heavens, a journey known as the Mi'raj, as depicted in a copy of the Bostan of Saadi. "Mohammed's Paradise", Persian miniature from The History of Mohammed, BnF, Paris.
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光背
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「法隆寺金堂釈迦三尊像」の記事における「光背」の解説
蓮弁形光背は頭光(ずこう)・身光部とその外側の周縁部からなる。中尊の頭部の後に当たる頭光部は全体が円形をなす。頭光の中心部には蓮肉部の大きい単弁の蓮華文を置き、これの周囲には同心円状に輻状文帯、重圏文帯、連珠文帯、忍冬唐草文帯が順にめぐる。各帯の輪郭は太い突線で区切られている。頭光部の頂上には蓮台上の火焔宝珠を表す。頭光部の直下の身光部は、左右端に蓮華荷葉文の垂直の帯を置き、これらに挟まれた中央部は無文である。光背の周縁部は全面にS字状・逆S字状の渦巻き状の文様を表すが、これは火焔を表現したものである。周縁部には計7体の化仏(けぶつ)を表す。 蓮弁形光背の上端部は損傷してひびが入り、前方に折れ曲がっている。前述のとおり、創建法隆寺は670年に火災に遭っており、前述の光背の損傷は、火災時に釈迦三尊像を搬出する際に生じたものではないかと想定する研究者もいる。蓮弁形光背の外枠の側面には左右とも13個の枘穴が残っており、もとはここに何かを取り付けていたとみられる。これについては、他の事例から類推して、光背周縁部のさらに外側に飛天像を取り付けていたのではないかとの説が、明治時代に平子鐸嶺によって唱えられている。蓮弁形光背の外側に飛天像を取り付けた実例は、たとえば法隆寺献納宝物中の甲寅年銘光背にみられる。両脇侍像の光背は、複弁蓮華文の周囲に忍冬唐草文、そのさらに外側に火焔文を表す。
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