勃興 (1990年–1995年)
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「マスコア」の記事における「勃興 (1990年–1995年)」の解説
1990年代、ハードコアパンク・シーンはエクストリームメタルを素直に受け入れ始めたが、同時にイデオロギーに強く染まっていった。人気バンドの多くが、サブカルチャーや宗教、政治的なグループの一員になった。コンヴァージやコウアレス、ボッチを筆頭に、マスコアバンドの中にはストレート・エッジやクリシュナ思想のグループに影響を受け始めるものもいた。他方、マスコアにかなりの影響を与えたが、より型破りな音楽性のバンドはアンダーグラウンドにとどまった。 マスコアの先駆者としてあげられることの多いDazzling KillmenとCrawは、その当時ノイジーなマスロックと考えられていた。デビュー・アルバムはそれぞれ、1992年と1993年にリリースされている。彼らの特徴は「メタリック・ポストハードコア」なサウンドだが、拍子がコンスタントに代わり、ボーカルが「気が狂った人が発する動物的な音」を出す点でも特異だといえる。Dazzling Killmenのメンバーのうち3人はジャズ・スクールで知り合ったが、Crawにはクラシック音楽のパーカッション奏者とジャズ・ベーシストがメンバーにいる。どちらのバンドのライブにも、サックス奏者が参加したことがある。 1989年に、ニュージャージー州出身のRorschachがユースクルー・シーン内で結成されたが、すぐに複雑で不協和なメタリックハードコアを志向していく。彼らはDie Kreuzenやブラック・フラッグなどのハードコアパンクのほか、ヴォイヴォドやスレイヤーなどのスラッシュメタルから影響を受けていた。Rorschachが1993年に解散すると、ギタリストのKeith Huckinsは1994年にデッドガイ(英語版)に加入し、1995年に発売された1stアルバム『Fixation on a Co-Worker』に参加している。両者の不協和なサウンドは初期のマスコアバンドに多大な影響を与えた。 この時期、重要なマスコアバンドがいくつか結成されている。例えば、1993年にワシントンで結成されたボッチ(英語版)、1994年ミズーリ州で結成されたコウアレス(英語版)、コネチカット州のCable、スイス出身のKnut、1995年にマサチューセッツ州で結成されたケイヴ・イン(英語版)とヴァーモント州出身のDrowningmanである。1990年には、マサチューセッツでコンヴァージが結成されているが、シーンと「関連するような」曲を書いたり演奏したりし始めたのは1994年のことであった。急成長するマスコア・シーンについて、ザ・ディリンジャー・エスケイプ・プランの創始者であり、ギタリストのBen Weinmanは次のように述べている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}俺が最初にいた(ハードコアパンクの)シーンは本当に頭が固かった。(中略)当時のシーンはマジで思想を中心に回ってたんですよ。ヴィーガニズム、キリスト教、クリシュナ、ストレート・エッジ。そういった全てのことが、当時プレイしていたバンドみんなにとって大きなことだったんです。(中略)そこからただの派閥とか人気コンテストみたいなものになっていったんですよね。(彼らは)音楽に興味を持たず、素晴らしいミュージシャンでもなかったし、やる気もなかった。情熱も創造性もない、昔のバンドのパクリみたいな曲を書いていただけ。(中略)(Dazzling KillmenやDeadguyなどのように)ただひたすら音楽中心で上手くやってて、色々な面で影響力もあって。アンダーグラウンドなんだけど、依然として音楽に突き動かされているようなバンドを見るのは素晴らしいことでしたね。(中略)それを見て俺も「これこそが俺のやりたい音楽だ!」って思ったんですよ。
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ナポリ王フェルディナンド4世(Ferdinando IV、両シチリア王としてはフェルディナンド1世)を廃したナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、兄ジョゼフ(Joseph Bonaparte)にナポリの統治を任せることを決定。1806年3月30日、ジョゼフはナポリ王ジュゼッペ・ボナパルテ(Giuseppe Bonaparte)として即位した。これに随行した旧ジャコバン派の人々によって、フランシュ=コンテにおける結社の思想がナポリに伝播。イタリア南部のカラブリアに亡命していた共和主義者によって、カルボナリが誕生したとの説が有力である。 ジュゼッペに替わり1808年にナポリ王に就いたナポレオンの義弟ジョアシャン・ミュラ(Joachim Murat)ことジョアッキーノ・ミュラ(Gioacchino Murat)は、就任当初はカルボナリを快く思っていなかったが、ナポレオンとの間に齟齬が生じると、ナポレオン体制を否定するカルボナリに利用価値を見出し、これを陰で庇護。国王の後ろ盾を得たカルボナリは、南イタリア一帯に勢力を伸ばした。しかし1812年にシチリアで自由憲法が発布されると、ナポリでも憲法制定を要求する運動が盛んになり、カルボナリは一転してミュラの専制に敵意を露にした。
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「メキシカン・マフィア」の記事における「勃興」の解説
1961年までにデューエル刑務所内での暴力は、管理者が多数のラ・エメの構成員たちを暴力行為阻止のためサン・クエンティン州立刑務所に移送せねばならないほどに悪化していた。しかし、この作戦は失敗した。シャイアン・カデナ(英語: Cheyenne Cadena)がサン・クエンティンの下等刑務所に来ると、6.5フィート(約198cm)・300ポンド(約136kg)の黒人受刑者が彼の顔に口づけて、この痩せこけた10代の少年が彼の女(bitch)となったことを宣言した。カデナはしばらく後に戻ると、その疑うことを知らぬ捕食者へと歩み寄り、ジェイルハウス・ナイフあるいはシャンク(英語: Shank (weapon))(即席ナイフ)で彼を刺殺した。1,000を超す受刑者が刑務所にはいたが、いかなる証言も出てこなかった。ラ・エメの構成員による一連の殺人はすぐにサン・クエンティンの受刑者たちの間で噂となった。メキシカン・マフィアの完全な支配の追求は、彼らの傷害、殺人、時計・指輪・タバコなどの貴重品を狙った窃盗を快く思わない多くの他のメキシコ系の受刑者たちを遠ざけた。彼らの一部はラ・ヌエストラ・ファミリア(英語: La Nuestra Familia)(NF)あるいは我らが家族(Our Family)と呼ばれる新たな刑務所ギャングをひそかに設立した。これは最初は1960年代中期にカリフォルニア州ソレダード(英語: Soledad, California)の刑務所において設立されたものであった。初期の構成員はロサンゼルス出身であったが、NFはすぐに、主として北カリフォルニアの村落出身の囚人たちを引き寄せるようになった。メキシカン・マフィアはヌエストラ・ファミリアを劣等組織であり、「ただの農夫の集団」(farmeros)とみなした。しかしながら、1968年、メキシカン・マフィアの兵士(soldado)がヌエストラ・ファミリアの支持者から靴を1足盗んだことがきっかけで、サン・クエンティンで大規模な暴動が発生してしまう。19の受刑者が負傷し、ラ・エメの協力者1人が最終的に死亡した。「靴戦争(Shoe War)」として知られる抗争が始まり、ヌエストラ・ファミリアはラ・エメの最大の対抗勢力となった。
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勃興
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220年、西部の侵攻で部民は離散し、没鹿回部大人の竇賓につき従っていた力微は、竇賓とともに西部を攻めるが敗走した。逃げる際、馬を失い徒歩で逃げていたところを、力微が馬を調達して来て、竇賓らはなんとか逃げることができた。これにより、竇賓は力微に国土の半分を与えようとするが、力微は拒んだので、代わりに娘を嫁がせた。248年、竇賓は臨終に至り、2人の息子に力微に仕えるように伝えたが、2人は従わなかったので、力微は2人を呼び寄せて殺した。これにより、諸部大人は力微に心服した。 258年、力微は定襄郡の盛楽に遷都した。夏4月、天を祭った。諸部君長はみな祭にやってきたが、白部の大人の観望が唯一出席しなかったので、力微は観望を征伐した。261年、力微は太子の沙漠汗を魏に人質として赴かせた。267年、沙漠汗は西晋から返還される。275年、沙漠汗は再び晋に赴くが、留まらせられる。このころから晋の衛瓘は「離間の計」を謀り、諸大人に賄賂を送り始める。277年、ようやく沙漠汗は返され、力微は大喜びで出迎えるが、衛瓘から賄賂を貰っている諸大人は、晋の文化に染まってしまった沙漠汗の姿を見て謀反の心ありとし、あらぬ疑いをかけた。力微は沙漠汗を疑わなかったが、すでに100歳を超える高齢で、はっきりしないので、諸大人は力微の命だと偽り、沙漠汗を殺した。力微は甚だこれを悔んだという。その後、力微は病気を患い、烏桓王の庫賢に軍を任せた。しかし、庫賢も衛瓘の賄賂を受け取っており、庫賢は大いに国をかき乱してやった。そんな中、力微は死去した。 西晋の衛瓘の策略により、しばらく衰退した拓跋部であったが、拓跋禄官が大人となると再び勢力を盛り返した。295年、拓跋禄官は拓跋部を3分割し、自身は上谷郡の北、濡源の西で、宇文部に東接する東部拓跋部を統治した。拓跋沙漠汗の長子の拓跋猗㐌は、代郡参合陂の北の中部拓跋部を統治した。拓跋沙漠汗の次子の拓跋猗盧は、定襄郡盛楽の故城の西部拓跋部を統治した。 拓跋禄官は、拓跋力微以来となる晋との国交を回復し、人民も財も軍も充実した。この年、西部の拓跋猗盧は并州に出始め、雑胡を北の雲中・五原・朔方に遷した。また、西は渡河して匈奴・烏桓諸部を撃破した。拓跋禄官は、杏城の北80里から、長城の端にまで至り、石碑を建てて晋と境界を分けた。296年、思帝(拓跋弗)が生前に改葬を欲していたので、拓跋禄官は文帝(沙漠汗)及び皇后封氏の葬儀を行った。晋の成都王の司馬穎は従事中郎の田思を遣わし、河間王の司馬顒は司馬の靳利を遣わし、并州刺史の司馬騰は主簿の梁天を遣わして、葬儀に参列した。遠近で赴く者は20万人にも及んだ。 297年、中部の拓跋猗㐌はたびたび漠北を巡り、西の諸国を帰順させた。298年、東部未耐婁大人の倍斤は遼東に入居した。299年、宇文部大人宇文莫珪の子の宇文遜昵延が拓跋部に朝貢してきたので、拓跋禄官はその誠款を喜び、長女を妻とさせた。301年、拓跋猗㐌は自ら西略に至り、20余国を帰順させた。304年、匈奴の劉淵が離石で叛き、自ら漢王と号す。并州刺史の司馬騰は拓跋部に援軍を要請した。拓跋猗㐌は10余万騎を率い、拓跋禄官もこれに呼応し、西河郡・上党郡で劉淵の軍を大破させた。305年、劉淵は司馬騰を攻め、司馬騰はまた援軍を要請した。拓跋猗㐌は軽騎数千でこれを救い、劉淵の配下の綦毋豚を斬る。劉淵は蒲子に南走した。晋は拓跋猗㐌に大単于、金印紫綬を貸し与えた。307年、拓跋禄官が死去する。この年、徒何の大単于の慕容廆が遣使を送り朝貢してきた。
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勃興
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日本に地下鉄を敷設する計画は、1906年(明治39年)に東京地下電気鉄道が高輪 - 浅草間及び銀座 - 新宿間の免許を申請したのが初見である。これは実際に建設することを目的にしたというよりも、欧米の地下鉄敷設状況を知り、先行して鉄道免許を取得しようとしたものであり、また東京市の反対もあり却下されてしまった。
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勃興
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1950 - 1960年代頃から、富裕層を中心に当時まだ高価であったオートバイを集団で乗り回す若者が登場、マフラーを外してけたたましい爆音を響かせながら走り回る様から「カミナリ族」という呼称が生まれた。交通を妨げて疾走することから交通事故が懸念されたものの、時代は高度成長期であったため、社会が大きく変容することのストレスを受けた心理社会的モラトリアムの範疇として、マスメディアや文化人を中心にある程度容認される傾向も見られた。 しかし1970年代になると、オートバイは低価格化とともに広く一般へも普及し、「狂走族」と呼ばれていた不良少年達に浸透していくと暴行・恐喝事件を起こす傾向が強くなり、一般市民への暴力事件やグループ同士の抗争事件が社会問題として取り上げられるようになった。1972年に富山県富山市中心部の城址大通りから端を発して全国に広がった騒動をきっかけに、「暴走族」の呼び名が広まり警察当局もこの名称を公文書に用いた。 東日本では、1972年ごろからグループ化が始まり、1974年には確認されているだけで86件の抗争事件が発生。同年にはグループ数の増加が顕著となり、日本各地のグループが「東北連合」、「関東連合」、「武州連合」などといった連合体を結成する動きも見られた。 1975年上半期の時点では、全国に571グループ、約2万3千人が存在しており、包丁、火炎瓶、ヌンチャク、角材や木刀などで武装するグループも現れた。グループ同士の対立の増加は、結果として「自衛を目的とした連合の結成」を促すこととなり、1975年ごろの大組織の台頭は小組織の小競り合いを減らした反面、抗争の規模を肥大化させ、グループ同士の争いのみならず、暴徒化した一般の群衆を巻き込んだ暴動にまで発展することもあった。この時代になると、社会の安全を脅かす存在として、従来の「モラトリアムの範疇」という論は低調になっていった。 1977年頃の東京における暴走族の大規模な集結地は大井ふ頭、砧公園、表参道となっていた。特に表参道では、休日の日中に数千台の自動車やオートバイが集まることも珍しくなかった。警察は通行規制で対応したものの抜本的な解決策にはならず、1978年の道路交通法改正へとつながった。この法改正により「共同危険行為等禁止規定」が新設され、一旦は鳴りを潜めたが、以後も再び勢威は増していった。元来のカミナリ族の嗜好に相当する、運転技術を重視するスタイルの者は、仲間うちで「街道レーサー」と呼ばれた後に「走り屋」を自称し、その様態は存続し続けるが、一時的に社会の注目は薄れていく。
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勃興
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1970年代以降、自家用車と航空機が一般化していく中で、鉄道は絶対唯一の旅行手段ではなくなっていく。その中で、あえて鉄道を移動手段として利用する旅行自体に魅力を感じる層が出現しはじめる。その先駆けと呼べるのが作家内田百閒の『阿房列車』シリーズである。 1977年頃に始まるブルートレインブームによって、ブルートレインに代表される夜行列車が少年層のあこがれとなり、それまでのSLブームが「蒸気機関車を撮影すること」に比重があったのに対して、「列車に乗ること」が趣味になるという認識を一般に広める契機となった。 また、同年には種村直樹が日本交通公社から『鉄道旅行術』を出版した。この書籍には乗車券の購入方法から駅弁の楽しみ方、宿の取り方など、当時はあまり公開されていなかった鉄道旅行のノウハウが詳細に記されており、「鉄道旅行のバイブル」とまでいわれた。この書籍によって、各大学の鉄道研究会や鉄道友の会では当たり前であったノウハウが一般化し、一般の人が鉄道旅行へ出る基礎情報がそろうことになる。 そして、1978年に中央公論社で活躍した編集者・常務であった宮脇俊三が処女作である『時刻表2万キロ』を河出書房から刊行した。宮脇の飄々とした文章と、淡々と鉄道に乗り沿線を旅していく様子が鉄道に興味のない一般大衆の心をつかみ、それまでの鉄道関係書籍としては異例のベストセラーとなった。この書籍の影響は大きく、日本国有鉄道が1980年代にいい旅チャレンジ20,000kmキャンペーンを張るきっかけとなるなど、鉄道を乗ること自体が趣味として一般に認知された。なお、宮脇は1979年に『最長片道切符の旅』を新潮社から出している。宮脇が「最長片道切符」という分野を開拓したわけではないが、世間一般に「最長片道切符」を広く認知させた。 一方、種村は、車中泊のみで列車をつなぐ「乗り継ぎ旅」と計画性を持たず成り行きで行程を決める「気まぐれ列車」という2つの鉄道旅行の形態を提案した。また、「汽車旅」という用語を鉄道旅行の代名詞として最初に使用し始めたのも種村である。宮脇が郷愁を誘う紀行文とともに鉄道旅行を広めたのに対して、種村は鉄道旅行の手法を提案することで鉄道旅行の魅力を広める役割を果たした。
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勃興
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2006年にさっそくTODへの本格参戦を果たし、1回戦目でジョン・ザンディグを破るも、2回戦目で敗退。 翌2007年のTODでは、1回戦目でスコッティ・ヴォルテクズと当たり、さっそく蛍光灯や梯子や木製の小屋を用いたデスマッチを敢行。梯子から小屋へのデスバレードライバーをヴォルテクズへと見舞ってこれを制し、2回戦目でドレイク・ヤンガーを相手に芝刈り機を使ったデスマッチを戦い、敗れ去った。 それからおおよそ2週間後にKOTDMへの2度目の出場を行い、ディスファンクションとの第1回戦で、有刺鉄線金網に置き換えられたリングでのデスマッチを戦い敗退。続けてインサーン・レーンと組んだうえで、ローリン・ハード∽ミッチ・ペイジ組と吹本賢児∽ディレンジド組とのバトルロイヤル戦を制した。これはミッチ・ペイジの最後の試合でもあった。 やがて9月になると、CZWのマットで総数5名から成るバトルロイヤル戦を制し、同時にCZWのジュニアヘビー級王座を獲得。それから程なくして『ファスト・フォワード』と題されたTODの番外大会に出場し、蛍光灯を使ったデスマッチにてダスティン・リーを撃破。続けて戦った第2回戦でブレイン・ダメージに敗れ退いた。 この年には更にIWAイーストコーストのマスターズ・オブ・ペイン選手権大会に初出場し、第一回戦でガラスを用いたデスマッチをマッドマン・ポンドと戦うも、そのまま敗れ退いた。
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勃興
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昌泰元年(898年)に上総介に任じられた父の平高望とともに坂東に下向した高望の長子・平国香は、前任の常陸大掾源護の娘を妻とし護よりその地位を受け継ぎ常陸大掾として常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田に住したが、護の子扶らと下総を本拠とする甥の将門との抗争に巻き込まれて亡くなり承平天慶の乱の発端となる 。その後、国香の嫡子貞盛は藤原秀郷らの協力を得て将門を討ち、その報償として常陸に多数の所領を得る。貞盛は一族から多数の養子を迎えたことで知られ、この内、弟である繁盛の子維幹を常陸に赴任させた。維幹は同国筑波郡多気に因んで多気権大夫と号し、ここを拠点にして勢力を拡大させていく。これが常陸平氏の始まりである。常陸平氏は大掾職を代々継承し、苗字にしていく。維幹の後は長男の為幹が継ぐが、次男の為賢は伊佐氏を号し、後に肥前に移住して鎮西平氏を形成する。 その一方で「常陸平氏は大掾職を代々継承した」とする伝承には史実との整合性に合わない部分があり、12世紀に常陸国の国衙が発給した文書には大掾の世襲が事実とすれば当然記されているべき大掾の署判が存在せず、何よりも大掾氏(吉田・馬場氏)の系図ですら為幹の次に大掾の地位に就いたのは曾孫である馬場資幹とされている。従って、馬場資幹以前の常陸平氏を「大掾氏」と呼称するのは不適切であると考えられる。 維幹の兄弟の方では、維茂(同じく貞盛の養子)は越後に赴任して、その子孫は城氏を称して越後平氏を形成する。他にも、兼忠の子孫は信濃平氏(仁科氏)として、安忠の子孫は海道平氏(岩城氏)として発展したとされる(上記参照)。
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勃興
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1264年(文永元年)に上記の持直が菊池武房から隈部姓を与えられ、代々菊池氏に忠誠を尽くし南北朝時代の戦いなどに従軍したが、菊池氏一族内に家督争いが発生するようになると、主家家督の廃嫡に大きな影響力を持つようになった。豊後国の守護大名大友氏が菊池氏家督に触手を伸ばすと、その実現に貢献した。 1559年(永禄2年)隈部親永のとき隈府城による赤星親家を合勢川の戦いで破ってさらに勢力を伸ばし、1578年(天正6年)耳川の戦いで島津氏に大敗した大友氏を見限り、新たに肥前国の戦国大名龍造寺氏と結んで親家の子赤星統家を攻めて追放、現・菊池市一帯をも領有するようになる。その最大所領は約5,000町(3万石から6万石)におよび肥後国北部最有力の国人にのし上がった。
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