新国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:51 UTC 版)
「アメリカ合衆国の経済史」の記事における「新国家」の解説
1787年にアメリカ合衆国憲法が採択され、国全体が一つになり、共通の市場、すなわち州間の交易には国内の関税や税金が無くなった。それでも1790年に行われた第1回国勢調査では、総人口はわずか393万人、ニューヨーク市の33,000人が最大で、1万人以上の都市は5つしかなかった。広大な土地にこの人口では経済的にヨーロッパ列強に太刀打ちできる状態ではなかった。アレクサンダー・ハミルトンは初代財務長官としてたいへん広い見解を持っており、連邦政府の権限がおよぶ範囲が大いに議論された。ハミルトンは富裕で政治に関心のある階級(政府を健全な状態に保つことに関心があった)に保有される国債を元に強い国の信用を造り上げ、また輸入品にかける関税で資金を集めた。ハミルトンは、アメリカ合衆国が多角的な船舶運用、製造および金融を通じて経済の成長を追求すべきと考えた。政府の支出に資するために保護関税のような手段を提案したが、ウィスキーに掛かる税金には西部(この時代は現在の東海岸の西部山岳地)の農夫達が強く反発した(ウィスキー税反乱)。1791年には議会に働きかけて第一合衆国銀行(現シティグループ)を創設する認証を得た。その公認期間は1811年まで続いた。 トーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソンは強い中央政府に反対した(その結果ハミルトンの経済政策の大半に反対した)が、ワシントン政権で広大な権限と強い政治力を発揮するハミルトンを止めることはできなかった。しかし、1801年ジェファーソンが大統領になり、ジェファーソン流民主主義と呼ばれるより分散的で農本的な民主主義を推進するように変わった。この考え方は危機感に裏打ちされていた。1803年末に外国が連邦債務の約56%(4870万ドル)を保有していたのである。アメリカは英仏の対立に乗じて、戦争をしている両大国に食料や原材料を輸出し、国内市場とカリブ海の植民地の間で商品を輸送することから利益を生み出そうとした。マディソンはジェファーソンの後を受けて大統領となり、合衆国銀行の公認が1811年に消滅するままにさせた。しかし、アメリカの海運に対するイギリスの干渉が続いていたことなどに端を発した米英戦争が国定銀行の必要性を証明することになった(連邦負債総額1億1960万ドル)。ここでマディソンは立場を変えた。第二合衆国銀行は1816年に、20年間の公認期間で創設された。1818年、外国は連邦政府債務9900万ドルの約26%を保有したが、およそ半分がイギリス投資家に保有されていた。
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