新国劇の結成とは? わかりやすく解説

新国劇の結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:56 UTC 版)

澤田正二郎」の記事における「新国劇の結成」の解説

大正6年芸術座を再び脱退倉橋仙太郎田中二・金井謹之助・渡瀨淳子らと、11人の劇団新国劇』を結成した。座名は坪内逍遙の選によった歌舞伎新派新劇との間の、大衆演劇目指し座長勤め演出受け持った。しかし、4月新富座での旗揚げ公演も、6月京都南座興行不入りで、漸く7月大阪角座機敏な運び注目され松竹社長白井松次郎提案により、弁天座を本拠松竹給料を貰うようになった。そして8月の『深川音頭』で当てた大正7年白井座付作者起用した行友李風の、『金山颪』・『月形半平太』・『国定忠治』などの剣劇ものが熱狂的に受けた乱闘劇は創団の本旨でなかったが、120人に膨れた座員を養う都合もあった。 大正9年の『伊井大老の死』の成功は、客に喜ばれながら芸術的に向上して行くという『演劇半歩主義』の、半歩だった。そして大阪での人気を背に上京し、『大菩薩峠』で東京劇壇席捲した。 大正10年現代劇懐かしき力』が、松竹蒲田佐々木監督によって映画化主演する大正11年30歳松竹から常盤興行移り浅草公園劇場本拠とした。また、翌年関東大震災まで、『新国劇附属演劇研究所』を開いて俳優育てたまた、勧進帖』を演じた際に、『勧進帳』の3字目を変えたのは、市川團十郎家への遠慮である。 翌大正12年も、『大菩薩峠』全三篇の連続上演などで盛況続けたが、8月興行中に正二郎以下の男優多数賭博容疑検挙された。自伝苦闘の跡』には冤罪とある。そして拘留中に関東大震災発生劇場はほとんど倒壊焼失した半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画文芸協会主催引き受け新聞各社後援し日比谷公園野外音楽堂で、『勧進帳』などを無料上演した廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業出て戻って公園劇場焼跡張った天幕劇場』で公演するなど、機敏に動いた大正13年出演中演技座が燃えた時は、直ち両国国技館に、同じ外題並べたこの年、『苦闘の跡』を出版した大正14年には、邦楽座、帝国劇場新橋演舞場進出して大入り満員続け1926年白野弁十郎では新機軸見せた同年シェイクスピアの『コリオレイナス』は、炎上したシェイクスピア記念劇場への義捐金集め興行だった。 同年新国劇出し物の『国定忠治』、『恩讐の彼方に』が、東亜キネマ牧野省三監督によって映画化される。さらに『月形半平太』が聯合映画芸術家協会のもと、衣笠貞之助監督によって映画化。これらすべてに主演。『月形半平太』は、のちに各社連作されるが、これが第一回映画化作品である。 昭和2年には、『新国劇十周年記念』の公演続けた昭和4年1月新橋演舞場出演中急性中耳炎病んで手術し座長なしの公演病院から励ました症状悪化新聞報じた座員六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門大谷二郎菊池寛らが正二郎の病床駆けつけた。大勢ファン病院囲み正二郎は3月4日没した死因急性化膿性脳膜炎だった。

※この「新国劇の結成」の解説は、「澤田正二郎」の解説の一部です。
「新国劇の結成」を含む「澤田正二郎」の記事については、「澤田正二郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「新国劇の結成」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新国劇の結成」の関連用語

新国劇の結成のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新国劇の結成のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの澤田正二郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS