新国劇の結成
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大正6年、芸術座を再び脱退、倉橋仙太郎・田中介二・金井謹之助・渡瀨淳子らと、11人の劇団『新国劇』を結成した。座名は坪内逍遙の選によった。歌舞伎・新派と新劇との間の、大衆演劇を目指し、座長を勤め、演出を受け持った。しかし、4月の新富座での旗揚げ公演も、6月の京都南座の興行も不入りで、漸く7月の大阪角座で機敏な運びが注目され、松竹社長白井松次郎の提案により、弁天座を本拠に松竹の給料を貰うようになった。そして8月の『深川音頭』で当てた。 大正7年、白井が座付作者に起用した行友李風の、『金山颪』・『月形半平太』・『国定忠治』などの剣劇ものが熱狂的に受けた。乱闘劇は創団の本旨でなかったが、120人に膨れた座員を養う都合もあった。 大正9年の『伊井大老の死』の成功は、客に喜ばれながら芸術的に向上して行くという『演劇半歩主義』の、半歩だった。そして大阪での人気を背に上京し、『大菩薩峠』で東京の劇壇を席捲した。 大正10年、現代劇『懐かしき力』が、松竹蒲田で佐々木杢郎監督によって映画化。主演する。 大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、浅草の公園劇場を本拠とした。また、翌年の関東大震災まで、『新国劇附属演劇研究所』を開いて俳優を育てた。また、『勧進帖』を演じた際に、『勧進帳』の3字目を変えたのは、市川團十郎家への遠慮である。 翌大正12年も、『大菩薩峠』全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に、正二郎以下の男優多数が賭博の容疑で検挙された。自伝『苦闘の跡』には冤罪とある。そして拘留中に関東大震災が発生。 劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に文芸協会が主催を引き受け新聞各社が後援し、日比谷公園野外音楽堂で、『勧進帳』などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った『天幕劇場』で公演するなど、機敏に動いた。 大正13年、出演中の演技座が燃えた時は、直ちに両国国技館に、同じ外題を並べた。この年、『苦闘の跡』を出版した。 大正14年には、邦楽座、帝国劇場、新橋演舞場に進出して、大入り満員を続け、1926年の白野弁十郎では新機軸を見せた。同年のシェイクスピアの『コリオレイナス』は、炎上したシェイクスピア記念劇場への義捐金集めの興行だった。 同年、新国劇の出し物の『国定忠治』、『恩讐の彼方に』が、東亜キネマで牧野省三監督によって映画化される。さらに『月形半平太』が聯合映画芸術家協会のもと、衣笠貞之助監督によって映画化。これらすべてに主演。『月形半平太』は、のちに各社で連作されるが、これが第一回映画化作品である。 昭和2年には、『新国劇十周年記念』の公演を続けた。 昭和4年1月、新橋演舞場に出演中に急性中耳炎を病んで手術し、座長なしの公演を病院から励ました。症状の悪化を新聞が報じた。座員、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、大谷竹二郎、菊池寛らが正二郎の病床に駆けつけた。大勢のファンが病院を囲み、正二郎は3月4日に没した。死因は急性化膿性脳膜炎だった。
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