最初期(1985年 - 1992年)
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「サンクチュアリ (バンド)」の記事における「最初期(1985年 - 1992年)」の解説
1985年、ウォーレル・デイン(Vo)、レニー・ラトリッジ(G)、ジム・シェパード(B)、ショーン・ブロッスル(G)、デイヴ・バドビル(Ds)のラインナップで結成。 1986年に作成したデモテープが、メジャーレーベル「エピック・レコード」に評価され契約を締結。翌年、デイヴ・ムステイン(メガデス)プロデュースのデビューアルバム『Refuge Denied』をリリース。メガデスとのライブツアーにも帯同する機会を得る。 ツアー終了後すぐさま次作の制作に取り掛かり、ウォーレル(Vo)の強烈なメッセージを反映させた2ndアルバム『Into the Mirror Black』が完成。1989年にヨーロッパで先行リリース、全米でも翌年にリリースされた。またアルバムの1曲目に収録されている「Future Tense」で初めてのPVを作成し、MTV Headbangers Ballで放送され好評を博す。 ライブツアーではフェイツ・ウォーニング、フォビドゥン、デス・エンジェルらと共に回っていたが、途中でブロッスル(G)がバンドを脱退し、ジェフ・ルーミス(G)が加入した。 1990年代初頭、3rdアルバムに制作向けた内容に対し、契約元の「エピック・レコード」から、当時のロックシーンで流行の兆しを見せていた「グランジ」寄りのスタイルに変更するよう提案される。バンド側でも意見が割れて、相違を引き起こし対立。1992年、ウォーレル(Vo)側は最終的に提案を拒否し、バンドは活動を停止した。
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最初期(1967年 - 1969年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 15:04 UTC 版)
「ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーター」の記事における「最初期(1967年 - 1969年)」の解説
1967年 ピーター・ハミル、クリス・ジャッジ・スミスにより結成。後にニック・パーン、マギー(直ぐに脱退)が参加。 1968年 パーン脱退、ハミル、スミスの二人で活動。 ヒュー・バントン加入。 キース・エリス、ガイ・エヴァンス加入。 ハミルとスミスとの間にリード・ボーカルの座を巡る争いがあったが、「曲を書いたほうがリード・ボーカルをとる」と言う事になり、スミスが脱退。 1969年 活動停止。同年ハミルはレコード会社から契約を理由にソロ・アルバム制作を要求される。 ハミルは元メンバー(バントン、エリス、エヴァンス)を集めて録音、後にVDGG名義となるファースト・アルバム『エアゾール・グレイ・マシーン』録音。録音後メンバーは元の仕事に戻っていった。
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最初期(1969年 - 1973年)
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「UFO (バンド)」の記事における「最初期(1969年 - 1973年)」の解説
1969年8月、フィル・モグ(vo.)、ミック・ボルトン(g.)、ピート・ウェイ(b.)が在籍するHocus Pocusというバンドにアンディ・パーカー(ds.)が加わった際、バンド名を「UFO」に改名して結成された。バンドはロンドンのクラブ・シーンで活動し、1970年3月、イギリスのマイナー・レーベルであったビーコン・レコードと契約し本格的なプロ・デビューを果たした。 1970年に発表したデビュー・アルバム『UFO1』と翌年発売の『UFO2/Flying』は英米では売れ行きが不振だった。 初期のUFOは、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ジェフ・ベック・グループなどからの影響を受けながら独自のサウンドを模索していたが、二枚目のアルバムではOne Hour Space Rockというキャッチ・フレーズをつけ、スペース・ロック的なロック音楽に接近した。 日本公演後に行われたドイツ公演では、ミック・ボルトンが突然失踪したため、サポート・バンドだったスコーピオンズのギタリストマイケル・シェンカーが急遽代役を務めた。1972年1月、ミック・ボルトンが脱退(脱退理由は諸説あり)。これを機にUFOはよりオーソドックスなロックにシフトし、それに相応しいギタリストを探し始めた。 ミックの後任ギタリストにはラリー・ウォリス(1972年2月〜10月)やバーニー・マースデン(1972年10月〜1973年6月)の参加を経て、以前から加入要請のアプローチを続けていたマイケル・シェンカーの加入が決定。1973年6月にバンドに迎え入れた。 このラインアップで新たにクリサリス・レコードと契約。シングル「Give Her The Gun/Sweet Little Thing」をドイツでリリースし、12月にはレオ・ライオンズ(元テン・イヤーズ・アフター。クリサリス所属でもあった)のプロデュースでアルバムのレコーディングを開始した。
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最初期(60年代後半)
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「デジタルアニメ」の記事における「最初期(60年代後半)」の解説
1968年のロシアで初歩的なコンピュータ(BESM-4)と印刷機により"Kitten"が制作された。印刷機で小さな四角形をアスキーアートのように並べて印刷用紙に出力し、その紙をカメラで1枚ずつ撮影して動画にした実験的なアニメーションである。内容としては滑らかに猫が歩く姿のシルエットが描かれている。また同年、日本でも山田学・月尾嘉男により、コンピュータ制御のプロッターを用いて、ワイヤーフレームの立方体を3次元的に回転させるようなアニメーションである「風雅の技法」の制作が行われている。この作品は第1回草月実験映画祭で入賞した。
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最初期(1982年 - 1989年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 01:31 UTC 版)
「デストラクション」の記事における「最初期(1982年 - 1989年)」の解説
1982年、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州ヴァイル・アム・ラインで「Knight of Demon」として結成された。ほどなく、バンド名を「Destruction」に変更し、1984年にデモ『ベスティアル・インヴェージョン・オブ・ヘル』を制作する。これがもとでスティームハンマー・レコードと契約し、ミニアルバム『センテンス・オブ・デス』を発表。 1985年に1stアルバム『インファーナル・オーヴァーキル』を発表。収録曲「Bestial Invasion」はライブの定番曲となる。 1986年に2ndアルバム『エターナル・デヴァステーション』を発表する。本アルバムでは金属をガリガリ削るような独特なギターサウンドがフィーチャーされた。また収録曲「Curse the Gods」と「Life Without Sense」は代表曲となり、現在もライブで頻繁に演奏される。その後、トミーが脱退。 1987年からはハリーとオリーが加入し、ツインギターの4人編成となる。同年に3rdアルバム『リリース・フロム・アゴニー』、1989年にはライブ・アルバム『ライブ・ウィズアウト・センス』を発表。ツインギター編成を活かし、独自の不協和音ツインリードを導入するなど、ストレートなスラッシュメタルから、より複雑なスタイルへと移り最盛を迎えた。
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最初期
出典:『Wiktionary』 (2021/08/22 02:53 UTC 版)
名詞
- 物事が始まった時期の中でも特に始まってすぐの時期。
- とにかく昌造及び幸八による、日本人によつて創られた最初期の蒸汽船はのろいながらも日本の海を進水したのであつた。(徳永直「光をかかぐる人々」)〔1943年〕[1]
- しかも恐しいことは、この種の病気は或る程度以上進行すると、もはや手をつけられないことである。そして難病をその最初期のうちに治してしまった名医は、案外余り感謝されないものである。(中谷宇吉郎「千里眼その他」)〔1943年〕[2]
- 2003年6月、約16万年前の最初期のホモ・サピエンス(現代人)の化石がエチオピアで発見されたと発表された。(外務省「平成16年版外交青書」)〔2004年〕[3]
- 神奈川県庁舎は関東大震災の後、昭和3年に建設された。「横浜三塔」のうち、キングの塔として知られる。官公庁舎として、鉄骨鉄筋コンクリート構造を採用した最初期の例であり、(文化庁、産業重要文化財(建造物)の指定について)〔2019年〕[4]
「最初期」の例文・使い方・用例・文例
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