最初期のプロゴルファーたち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 12:15 UTC 版)
「福井覚治」の記事における「最初期のプロゴルファーたち」の解説
1920年代、ゴルフ場の開設とともに、プロゴルファーの認定が進んでいく。1922年(大正11年)には、南郷三郎らが土地所有者に働きかけてに横屋コースを再建して「甲南ゴルフ倶楽部」を設立、越道がプロとして迎えられた。越道が日本で2人目のプロゴルファーとされている。3人目のプロは中上とされるが、当時の資料には不足している部分も多く、プロ黎明期のプロゴルファーが「プロになった時期」を確定できないことも珍しくない。 当時は、ゴルフの技術に優れているとともに、ゴルフ倶楽部にとって「コース運営に必要な人材」がプロとして認定される、という性格が強かった。当時の「プロゴルファー」はプレーよりもクラブの修理やアマチュアゴルファーの指導などが主な仕事であり、覚治も全国各地を巡り、アマチュアゴルファーへのレッスンを行った。 覚治はコース管理やゴルフクラブの修理などができ、そのもとには多くの少年キャディーやプロゴルファーを目指す若者が訪れた。覚治は「多くのプロゴルファーを育てた」とされるが、その代表として言及されるのが宮本留吉である。宮本は覚治の10歳年下で、クラブ修理やキャディー管理を学ぶべために覚治のもとを訪れた。「弟子入り」していた期間は半年ほどであったが、2人の交友は深く、また長く続いた。 1926年、後述の第1回日本プロゴルフ選手権大会時点で、日本には7人のプロゴルフ選手がいた。関西には福井覚治(舞子)、越道政吉(甲南)、中上数一、宮本留吉(茨木)、村上伝二(鳴尾)がおり、関東には安田幸吉(東京)、関一雄(根岸)がいた。
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