最初期の人間動物園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 19:01 UTC 版)
16世紀のルネサンス期、メディチ家の一員イッポーリト・デ・メディチはバチカンにメナジェリー(英語版)(動物園)をつくり、種々の動物と同様に様々な人種を集めていた。彼の元には「野蛮人」、ムーア人・アフリカ人・インド人・タタール人などがおり、20以上の言語が使われていたという。 18世紀、イギリスの王立ベスレム病院(ベドラム)では精神病患者が見世物とされていた。またイギリスでは16世紀から1868年5月26日までの間、市民の見物を前提とした公開処刑がタイバーンやニューゲイト監獄といった各地で行われており、その執行の様子は庶民の定期的な娯楽とされていた。 欧米社会における最初期の動物園は、メキシコのモンテスマにつくられた。そこでは動物だけではなく、小人症、アルビノ、脊柱側弯症といった身体障害者も展示していた。。 例えば1835年2月25日、アメリカの高名な興行師P・T・バーナムは、黒人奴隷のジョイス・ヘス(英語版)を161歳と謳い、またシャム双生児のチャンとエンを見せ物とした。こういった展示は奇形による興行が主だったが、他民族に対する好奇心の歴史は、植民地主義と同じくらい歴史がある。例えばクリストファー・コロンブスは1493年、新世界の西インド諸島からスペインの法廷に原住民のアメリカ人(後に「インディオ」、「インディアン」と呼ばれるようになった)を連れていった。他にも1815年に死ぬまでロンドンとフランスで展示されたホッテントットのヴィーナスとして知られるサールタイ・バートマンや、ウルグアイのチャルーア人の絶滅に当たって、ウルグアイ政府当局とフランス人の手によってフランスに連行され、見世物にされた末に餓死した最後の族長バイマカ・ペルーも有名である。1850年代、メキシコから連れて来られた2人の小頭症の子供MaximoとBartolaは「アステカ族の子供」と「アステカ族リリパットの住民」として、米国とヨーロッパに展示された。 しかし人間を展示する「動物園」は1870年代に新植民地主義の中で一般的なものになった。
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