アステカ
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アステカ(Azteca、古典ナワトル語: Aztēcah)は、1428年頃から1521年までの約95年間北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。メシカ(古典ナワトル語: mēxihcah メーシッカッ)、アコルワ、テパネカの3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。
注釈
- ^ アステカ王国がわずかな勢力のスペイン人に滅ぼされた理由が、白い肌のケツァルコアトル神が「一の葦」の年に帰還するという伝説があったためアステカ人達が白人のスペイン人を恐れて抵抗できなかったというためだったという通説については、異論を唱える研究者もいる。大井邦明によれば、ケツァルコアトルが白人に似た外観であったというのはスペイン人が書き記した文書にのみ見られるという。白人が先住民の支配を正当化すべく後から話を作った可能性があるという[13]。また、スーザン・ジレスピー(フロリダ大学)によれば、アステカ側の年代記制作者が、わずかな勢力に王国が滅ぼされたことの理由付けとして後から話を作った可能性があるという[13]。実際の理由としては、アステカがそれまで経験してきた戦争は生贄に捧げる捕虜の確保が目的であり敵を生け捕りにしてきたのに対し、スペイン人達の戦い方は敵の無力化が目的であり殺害も厭わなかったこと[16]。また、スペインの軍勢の力を見せつけるべくチョルーラで大規模な殺戮を行うなどしたが、アステカの人々にとっては集団同士の戦いでの勝敗はそれぞれの集団が信仰する神の力の優劣を表していたこと[17]。そしてまた、スペイン人達は銃や馬で武装しており、アステカの軍勢は未知の武器に恐れをなしてたびたび敗走したこと[16]。スペイン人がアステカに不満を持っていた周辺の民族を味方につけたこと[17]、などが挙げられる。これらの他、モクテソマ王自身が、不吉な出来事や自身が権力の座を失うことなどに不安を募らせ[18][16]、希望を失って首都を離れようとするなど[18]厭世的な気持ちに捕らわれていたことがアステカの軍勢の士気をも落としていただろうという指摘もある[16]。
出典
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- ^ 増田 (2002) 80-87ページ
- ^ グリュジンスキ 91-93ページ
- ^ 立石他編 [要ページ番号]
- ^ タウンゼント 104ページ
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