インカ帝国とは? わかりやすく解説

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インカ‐ていこく【インカ帝国】

読み方:いんかていこく

ペルー南部クスコ中心に15世紀から16世紀にかけて繁栄したインカ族の国。最盛期にはエクアドルからチリにまで及ぶ大帝国となった太陽神信仰しその子とされる王を頂点とする君主制をとった。巨石建築物黄金細工織物などの高い文化有したが、文字はない。1533年スペインピサロによって最後の王アタワルパ処刑され滅亡クスコマチュピチュ遺跡が残る。→インカ

[補説] インカ帝国はヨーロッパ人による呼称インカ人は自身国土タワンティンスーユ(「四つ地方」の意)と称した


インカ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/12 02:57 UTC 版)

インカ帝国(インカていこく、スペイン語: Imperio Incaケチュア語: Tawantinsuyuタワンティン・スウユ))は、南アメリカペルーボリビアチチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた帝国。文字を持たない社会・文明であった。首都はクスコ




「インカ帝国」の続きの解説一覧

インカ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:45 UTC 版)

結縄」の記事における「インカ帝国」の解説

詳細は「キープ (インカ)」を参照 結縄として世界的に最も著名なのがキープQuipu)である。キープは「結ぶ」あるいは「結び目」を意味し租税管理国勢調査などの統計的記述用いられ固有の文字を持たなかったインカ帝国の集権的行政において重要な役割担ったキープの紐には羊毛用いられ、色、結び目の距離、数、大きさ、形あるいはねじれ方などによって膨大な情報記録することができた。帝国ではキプカマヨク(結縄司)と呼ばれる役人統計管理会計あたったが、その精度スペイン人驚嘆するほどであったキープはインカ帝国の口承伝承法律保存のうえで、記憶補助するための手段としても機能していたと考えられている。しかしながらほとんどの場合キープ計数道具であって言語情報伝え文書とは見なし得ない考えられてきた。一方でキープ一部二進法に基づく原始的な書記体系形式をなしているものがある、という説も近年有力視されつつある。ゲイリー・アートン(英語版)やサビン・ハイランド(英語版)などの研究者が、キープ刻まれた名前や文字的情報解読成功した主張している。

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インカ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 16:16 UTC 版)

チチャ」の記事における「インカ帝国」の解説

インカ帝国においてもチチャは非常に重要な飲み物で、チチャ利用アンデス中に最大限広がっていった[要出典]。インカ帝国では、政府によって労働賦役課せられていたが、その見返りとしてインカ主催饗宴執り行われていたとスペイン人記録文書記されている[要出典]。その饗宴では、織物などの他、チチャ与えられ重宝されていた。国家による酒販売独占形態であるが、これには以下のように様々な意味が込められている。 チチャ利用は、饗宴などを通して集団間摩擦和らげる働きがあった[要出典]。また、儀礼用としても非常に価値があり、現在でもペルー南部ボリビア北部山間部では、先住民によるチチャ用いた様々な儀礼執り行われる[要検証ノート]。 このようにチチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであったそれゆえ品種改良膨大な種類トウモロコシ生み出された[要検証ノート]。

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インカ帝国(タワンティン・スウユ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 23:41 UTC 版)

アイマラ」の記事における「インカ帝国(タワンティン・スウユ)」の解説

インカ帝国が興ったとき、チチカカ湖周辺にはアイマラ族王国割拠していた。インカはその諸王国の争い乗じて王国併呑ていった。しかし、インカ帝国内における一定の権利アイマラ族たちは保持していたといわれている。また、こういった関係から、ケチュア語にはアイマラ語からの借用語が多い。

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インカ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 07:04 UTC 版)

先コロンブス期」の記事における「インカ帝国」の解説

詳細は「インカ帝国」および「w:Mollo culture」を参照 インカ文明大きなピューマの形をしたクスコ首都に、1438年から1533年までアンデス地方支配したインカ文明ケチュア語で「タワンチン・スウュ」すなわち「4つの邦」と呼ばれはっきりした特徴発展させた。インカ支配100い語族や少数民族社会に及び、25,000 km道路体系結ばれた人口900ないし1,400万人にもなった。都市山岳様々な高度に合わせ正確無比石造り建設された。棚畑有効な農業形態だった。優れた金属加工技術があり、脳手術ですら行われた証拠もある。

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インカ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:34 UTC 版)

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「インカ帝国」の解説

詳細は「スペインによるインカ帝国の征服スペイン語版英語版)」を参照 一方、かつてパナマバルボア仕えパナマインディオから南に「ビルー」(ペルーという名の豊かな王国存在することを聞いたフランシスコ・ピサロディエゴ・デ・アルマグロらは、1526年ペルー探検し、インカ帝国の存在知った後に、スペイン王カルロス1世に「ペルー王国征服許可得たピサロ1531年に再びパナマから現在のエクアドル上陸し、インカ帝国の征服開始した1532年にはピサロによって現ペルーピウラ川(スペイン語版流域にサン・ミゲル・デ・ピウラが建設された。イタリア戦争少数部隊戦闘経験積んでいたピサロ軍勢は、11月16日カハマルカ戦いスペイン語版英語版)でインカ帝国軍を圧倒し皇帝アタワルパ捕らえたピサロ身代金として皇帝金銀要求した後、1533年アタワルパ処刑し、翌1534年傀儡マンコ・インカ・ユパンキマンコ2世)を皇帝据えた。 インカ帝国の首都クスコ入ったピサロ達は新たにスペイン式の伝統則ってクスコ建設し1535年には太平洋岸にリマ建設した1535年ディエゴ・デ・アルマグロインカ人数千人引き連れて南に向かった。しかし、探検結果大失敗であり、チリにたどり着いたものの黄金発見しないまま1537年4月アルマグロクスコ帰還した一方クスコでは1536年傀儡据えられていたマンコ2世反乱起こし数万人を動員してクスコ包囲したクスコ陥落しなかったものの、1537年マンコ2世ビルカバンバ逃れウルバンバ川流域インカ政権成立した同年アルマグロ帰還した頃にはピサロアルマグロ対立表面化し内戦発展した内戦ピサロ派の勝利終わり1538年7月アルマグロ処刑された。 アルマグロ処刑後1538年ピサロは弟のゴンサーロ・ピサロティティカカ湖東へ遠征させ、ゴンサーロ・ピサロインディオ首長アヤビリ (Ayaviri) を破ってボリビア相当する地域征服した以降この地はチャルカスアルト・ペルー呼ばれ1540年にはチュキサカラ・プラタチャルカスとも。後のスクレ)が建設され1548年にはアロンソ・デ・メンドーサ(スペイン語版英語版)によってヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス建設された。 フランシスコ・ピサロペルー支配権確立したように見えたが、フランシスコ・ピサロ1541年アルマグロ派によって暗殺された。スペイン王巻き返し図り1542年カルロス1世によってペルー副王領創設され副王バカ・デ・カストロ(スペイン語版英語版)が派遣された。ペルーピサロ派はゴンサーロ・ピサロ擁立して自立する動きがあったものの、副王切り崩しにあってゴンサーロ処刑された。1549年エンコミエンダ再配分王権によってなされたことにより、ペルーにおけるスペイン王支配確立した南アメリカスペイン領全て統括するペルー副王領首都リマ選ばれると、以降ラテンアメリカ諸国の独立までリマスペインによる南アメリカ支配中心地となったピサロペルー征服中もピウラにはセバスティアン・デ・ベナルカサールらが残留していたが、ベナルカサールは1533年に現エクアドルカニャーリ人(英語版)に介入求められたため、カニャーリ人と同盟してインカ帝国の将軍ルミニャウイ(英語版)と戦い、翌1534年に現エクアドル征服してサン・フランシスコ・デ・キト建設したその後ベナルカサールはキトから北上し1539年サンタフェ・デ・ボゴタでゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(英語版)とニコラウス・フェーダーマン(スペイン語版英語版)に合流した一方ビルカバンバ撤退したマンコ2世1545年死去しその後スペイン人との宥和政策が続くが、1571年即位したトゥパク・アマルーは主戦論を採り、第五ペルー副王フランシスコ・デ・トレド(スペイン語版英語版)も主戦論を採ったために、1572年にトゥパク・アマルーはスペイン人捕らえられ処刑され、インカ帝国はその歴史幕を閉じた

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インカ帝国

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サパ・インカ」の記事における「インカ帝国」の解説

ケチュア族(=インカ族)は、ウィラコチャの頃まではクスコ周辺小さな部族にすぎなかったが、歴史上実在がほぼ確定的なインカ帝国(タワンティンスウユ)の最初サパ・インカとされているパチャクテク以降大帝国拡大した歴代皇帝次のとおり。 パチャクテク(Pacha Kutiq、英: Pachacuti在位1438年-1471年トゥパック・インカ・ユパンキ(Tupaq Inka Yupanki、英: Tupac Inca Yupanqui、在位1471年-1493年ワイナ・カパック(Wayna Qhapaq、英: Huayna Capac在位1493年-1527年ニナン・クヨチNinan Cuyochi、英: Ninan Cuyochi在位1527年?) ワスカル(Waskhar、英: Huáscar在位1527年-1532年アタワルパ(Ataw Wallpa、英: Atahualpa在位1532年-1533年パチャクテク4つの州(suyu)に帝国再編成しアポ呼ばれる地方官配置したまた、チムー王国方式取り入れ所有権水利権分割した上で土地所有権全てインカ帝国に属すこととされた。 エクアドル南部カニャーリ族(英語版)の女を母に持つワイナ・カパックの代に至り、インカ帝国は現在のコロンビア南部からチリ北部に渡る最大版図有することとなったワイナ・カパックキト第二首都としたが、広大な帝国支配のため常時転戦重ねることとなったニナン・クヨチは、数日しか在位しなかったため、しばしばサパ・インカ歴代から外されている。彼は皇太子地位にいたが、父皇帝ワイナ・カパック天然痘により病死し直後即位したものの、数日経ずして同様に天然痘により病死した。これがワスカルアタワルパによる継承戦争つながりスペイン人による征服遠因となった

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インカ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 01:53 UTC 版)

駅伝制」の記事における「インカ帝国」の解説

インカ帝国というのは南北長さがおよそ5,000Kmにも達した広大な帝国であったが、全長5万kmにおよぶインカ道整備されていて、情報迅速に首都クスコ届けるためのシステムとして、インカ道5km間隔道沿いに駅が設けられ、「チャスキ」と呼ばれる公設飛脚制度設けられ、各駅に常時2名の飛脚駐在していた。文字持たないインカ帝国では「キープ」と呼ばれる紐の束が情報の表現使われていたわけだが、このキープ次から次へリレーして引き渡してゆくことで情報伝えており、その速度時速20kmほどに達したとも言われている。このシステム用いてインカ帝国の王や各地責任者互いに通信することができた。 広大なインカ帝国を支えるのに必要な通信活躍したチャスキ」と呼ばれる公設飛脚メッセージの手渡しリレー行った駅伝走者である。左手持っているのがメッセージ結び目表現したキープ」。

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