ねんだい‐き【年代記】
ねんだいき【年代記】
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/22 18:40 UTC 版)
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年代記(ねんだいき)または編年史(へんねんし)は、出来事や事件を年ごとに記述した歴史書のこと。
- ヨーロッパでは重要な出来事や事件に関して詳細に記す(英語)Chronicle(クロニクル)と記述が簡単でより年表に近い形式の(英語)Annals(アナリス/アナール/アナル)に分かれる。なお、ロシア語等においては、ルーシ(中世ユーロロシア・ウクライナ・ベラルーシ)の年代記を指してレートピシという名称を用い、クロニクル、アナリスと区別している。
- 古代から中世にかけて、天地創造から筆を起こし、人類の歴史を年を追って記述したものがあり、特に世界年代記という(12世紀、オットーの『二国年代記』など)。
- 同時代の具体的な事件を連ねていく年代記が13世紀頃から盛んになった(イングランドの修道院で書き継がれていった『大年代記』や、フロワサールの年代記など)。宗教者だけでなく、一般人も書くようになった。
- 日本においても同様の書物が作られたが、歴代の天皇名を見出しとして年号の下に出来事や事件を簡略的に記すなど、日本独特の記述方法が用いられている。日本現存最古のものは11世紀のもの(春日若宮社社家千鳥家所蔵『皇代記』)であるが、『続日本紀』には「年代暦」という書物が存在していたことに触れられており(大宝元年3月甲午(21日)条・同8月丁未(7日)条)、8世紀には年代記が存在していたと考えられている。なお、『宋史』日本伝には984年に宋に留学した東大寺の奝然が太宗に職員令と「王年代紀」と呼ばれた年代記を献上したと記されている[1]。
おもな年代記
世界
- 『年代記』(タキトゥス)
- ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの死(紀元14年)からネロの死(紀元68年)までを描く
- 『春秋』
- 春秋時代の魯(前8世紀-前5世紀)の歴史を年代順に記したもの(孟子によって孔子が作者とされた)
- 『ニキウのヨハネス年代記』(7世紀)
- エジプトの僧侶が書いたもので、天地創造から7世紀までを対象とする
- 『アングロサクソン年代記』(9世紀)
- ウェセックス(イギリス)のアルフレッド大王が編纂させたもの
- 『テオファネス年代記』(9世紀)
- 東ローマ帝国の修道士テオファネスが綴った年代記。3世紀のディオクレティアヌスから9世紀までのローマ帝国史。7世紀後半の混乱期の東ローマの記録としては唯一現存するもの
- 『続テオファネス年代記』[2](『テオファネス・コンチヌアツス』、Theophanes Continuatus(英語版)(フランス語版)、10世紀)
- 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の年代記。813年から963年までを扱う。皇帝コンスタンティノス7世が編纂させ、10世紀ごろ成立した。全6巻。[3]
- 『諸使徒と諸王の書』(10世紀)
- コーラン学者のタバリー(839-923年)による年代記。天地創造に始まり、古代イスラエル、ユダヤとその預言者たちの歴史や、サーサーン朝、イエメンの諸王の歴史、ジャーヒリーヤ時代のアラブの歴史に続いて、預言者ムハンマド、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝、10世紀初めまでのイスラーム史を記す
- 『ミカエル・プセルロスの年代記』(11世紀)
- 東ローマ帝国の宮廷で実権を握った官僚が遺した年代記。バシレイオス2世時代の繁栄から没落に向う時期の帝国史
- 『ルーシ原初年代記』(11-12世紀)
- 年代記者ネストルが編纂した。『過ぎし年月の物語』『ネストルの年代記』とも。スラヴ民族の起源、ルーシ建国、伝説などを含む。
- 『完史』(13世紀、シリア)
- イブン・アル=アスィール(1160-1233年)による年代記。天地創造に始まり1231年までに至るイスラム世界史。「年代記の完成型」と称される。シリアにおける十字軍との戦争について詳しい
- 『フィレンツェ年代記』(14世紀、ヴィッラーニ)
- 人口の推計など統計的な手法も用いてフィレンツェの歴史を綴ったもの
- 『年代記』(14世紀、フロワサール)
- 作者はフランス・エノー伯領の生まれ、百年戦争(1337年 - 1453年)と重なる1325年から1400年までの歴史を記す
日本
- 『鎌倉年代記』(14世紀)
- 1183年から1331年までに至る鎌倉幕府の歴史を記す。原本は折り本形式の携帯用年表。
- 『皇代暦』(14-15世紀)
- 神代から1477年までに至る歴史を記す。作者は南北朝時代の公家洞院公賢(1291年-1360年)。現存本は甘露寺親長によって補筆されたもの。
- 『武家年代記』(14-15世紀)
- 1180年から1499年に至る歴史を記す。天皇・摂関とともに将軍や執権を始めとする武家政権の要職に関する在任表が付けられている。
脚注
- ^ 益田宗「年代記」(『国史大辞典 11』(吉川弘文館、1990年) ISBN 978-4-642-00511-1)
- ^ 「コンスタンティノス(7世)」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、コトバンク。2021年5月17日閲覧。
- ^ 「テオファネス・コンチヌアツス」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』コトバンク。2021年5月17日閲覧。
関連項目
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 08:52 UTC 版)
紀元前の早い時期にはすでに、ビューディンゲン周辺で入植がなされていた。広い地域のケルト人入植地を示す証拠としては、グラウベルクで発見された考古学上極めて重要な紀元前5世紀の出土品がある。ヒルツェンハインやリンダービューゲンの出土品同様、褐鉄鉱が用いられている。260年から500年までアレマン人が住んだ後、メロヴィング朝時代には別の入植地が形成された。 700年頃ビューディンゲン=グローセンドルフに、名称不明の土地領主の木造のプライベートな礼拝堂として、聖レミギウス教会が建設された。847年、ヴォルムス司教(ドイツ語版、英語版)年代録に「ビューディンゲン」という地名が登場するが、これがどこのビューディンゲンを指しているかは定かではない。聖レミギウス教会は、1050年頃(年輪年代学による推定)に現在の姿に増改築された。 1131年に領主「フォン・ビューディンゲン」(Gerlacus et frater eius Ortswinus de Buedingen) が初めて文献に登場する。ハルトマン1世フォン・ビューディンゲンは、1170年にゲルンハウゼン宮廷の代官および城伯となっている。ビューディンゲン「村」は、1206年に初めて文献に記録されている。ビューディンゲン貴族家は、ゲルラハ2世の死によって1240年から1247年までの間にその男系家系が断絶した。 その相続人は娘婿に当たるフォン・ホーエンローエ=ブラウネック家、フォン・イーゼンブルク=ケンペニヒ家、フォン・トリムベルク家、フォン・ブロイベルク家、フォン・イーゼンブルク家であった。このうち、フォン・イーゼンブルク家がビューディングの所領から下の共同相続人を排除することに成功した。1259年、ビューディング裁判所が初めて記録された。1330年7月26日に皇帝ルートヴィヒ4世はビューディンゲンの領主ルター・フォン・イーゼンブルクにこの街の市場開催権を授けた。 1353年、ビューディンゲンの領主ハインリヒ2世は、ビューディンゲン市に特許状を発行した。それはこの都市の自衛権を認め、防衛軍を組織することを許可するものであった。ビューディンゲンの射撃クラブは、その歴史にこの創設の日付を刻んでいる。 1442年にビューディンゲン領主家は伯に昇格した。1578年、皇帝ルドルフ2世はビューディンゲン伯に「喜び呼ばわれの主日の市場」開催権を授けた。 1480年から1510年までの間にルートヴィヒ2世伯は古い市壁の前に新たに堅牢な市壁帯を設け、22本の塔と Halbschale(半円形の堡塁?)を装備した。この市壁は現在も完全に保存されており、ドイツで最も重要な中世後期の防衛施設の一つとなっている。 1521年のヴォルムス帝国会議後、マルティン・ルターはアイゼナハへ亡命する途上ビューディンゲン地方を通り、イーゼンブルク家の歓待を受けたと、推測される。なぜなら、ビューディンゲン家と、「cuius regio, eius religio(ドイツ語版、英語版)」(領主の信仰がその領民の信仰となる)の原則に従いその領民は、すでにこの年にプロテスタントに改宗していたからである。ドイツにおける宗教改革運動の高まりとともに、この街は後にカルヴァン主義に再度改宗した。 1576年、ペストが多くの住民の命を奪った。1632年にも再びペストがこの街を襲った。1590年には大火が起こり、48棟の住宅と納屋や家畜小屋が焼失した。 1634年、皇帝の軍隊(クロアチア軍)がビューディンゲンを占領し、スウェーデン軍は追いやられ、街中に悪事がはびこった。市民は殺害され、多くの家屋が焼き払われた。 1601年、ヴォルフガング・エルンスト伯はラテン語学校を設立した。現在のヴォルフガング=エルンスト=ギムナジウムである。宗教寛容法によりエルンスト・カジミール1世伯は、1712年にビューディンゲンを増強することを決めた。その後1724年までにウンタートーア(イェルサレム門)の前に城外都市を建設し、そこにユグノー派、ヴァルド派、インスピレーショナリストなど他の地域からの宗教難民が住み着いた。 1806年にイーゼンブルク=ビューディンゲン伯領はイーゼンブルク=ビルシュタイン侯領に併合された。1816年のウィーン会議でイーゼンブルク侯領は、ヘッセン=ダルムシュタット大公国とヘッセン=カッセル選帝侯領に分割され、ビューディンゲンはヘッセン=ダルムシュタット大公国領となった。エルンスト・カジミール3世伯は、1840年に大公の指示により世襲の侯に昇格された。 1822年にヘッセン=ダルムシュタット大公国の行政と司法が分離された。ビューディンゲンは、ビューディンゲン地方裁判所管区の本部所在地となった。これは後のビューディンゲン郡の起源であった。ヘッセン=ダルムシュタット大公国は1828年にプロイセンと関税同盟を締結したが、この商取引はビューディンゲンと境を接するヘッセン=カッセル選帝侯によって妨げられた。ビューディンゲンが属す州の住民は困窮し、物価の高騰、物品購入税、職場の欠如、安い賃金、高い税金、警官や行政の横暴に怒りを募らせた。ヘッセン政府は自分たちの利益を護るために、芽生えかけた暴動を押さえ込むべく軍事司令部をビューディンゲンに移し、60人の軍勢が直ちにこの街に配備された。1830年、ビューディンゲンで関税一揆が起こった。9月30日の夜に 2,000人の武装した農民が市門の前に集まり、通行を要求した。市の行政府は初めこれを拒絶していたが、「反乱者」の数がどんどん増加したため開門した。農民たちは税関を破壊し、書類を焼却し、夕方前に引き上げた。数日後ブッツバッハの竜騎兵が「一味」を追い詰め、暴動に参加した農民を追放した。 1839年に手工業学校(後の実業学校)が創設された。1867年から1868年にマチルデンホスピタルが建設された。1879年には「フォアシュシュ・ウント・クレディートカッセ」(現在の国民銀行)が設立された。 1739年からビューディンゲンとフランクフルト・アム・マインとの間の郵便連絡が成立した。週に1回郵便馬車が、週に2回馬に乗った配達夫が利用できた。1869年から1870年に鉄道ビューディンゲン – ゲルンハウゼン線が建設された。1879年に、体育館や校長宿舎を有する新しいギムナジウムが建設された。1888年から1895年までの間に市は水道網を建設し、一部で下水工事も始めた。1910年には、市営のガス工場が建設された。1913年、ビューディンゲンに電灯が点った。 1911年、ブルーノ通りに新しい国民学校が建設された。農家の購入・販売協同組合の創立は1920年であった。1965年には市立図書館を含む市民会館が完成した。 1936年からビューディンゲンは軍事都市となった。クリューガー兵舎が建設されたのである。ここには第3機関銃大隊、第15機甲守備部隊、第二次世界大戦中には第9機甲守備補充部隊が配備された。1945年から2007年までこの兵舎は、アームストロング兵舎として、アメリカ軍の第3機甲師団(ドイツ語版、英語版)をはじめとするアメリカ軍のさまざまな部隊に利用された。この兵舎の最後の部隊として、アメリカ陸軍第5軍団第1装甲師団(ハーナウ)第4旅団第1装甲機動連隊第1戦車中隊の約620人の兵士と900人以上の家族が2007年半ばにビューディンゲンから去っていった。
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