ねんだい‐き【年代記】
ねんだいき【年代記】
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 13:49 UTC 版)
年代記(ねんだいき)または編年史(へんねんし)は、出来事や事件を年ごとに記述した歴史書のこと。
- ^ 益田宗「年代記」(『国史大辞典 11』(吉川弘文館、1990年) ISBN 978-4-642-00511-1)
- ^ 「コンスタンティノス(7世)」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、コトバンク。2021年5月17日閲覧。
- ^ 「テオファネス・コンチヌアツス」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』コトバンク。2021年5月17日閲覧。
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 08:52 UTC 版)
紀元前の早い時期にはすでに、ビューディンゲン周辺で入植がなされていた。広い地域のケルト人入植地を示す証拠としては、グラウベルクで発見された考古学上極めて重要な紀元前5世紀の出土品がある。ヒルツェンハインやリンダービューゲンの出土品同様、褐鉄鉱が用いられている。260年から500年までアレマン人が住んだ後、メロヴィング朝時代には別の入植地が形成された。 700年頃ビューディンゲン=グローセンドルフに、名称不明の土地領主の木造のプライベートな礼拝堂として、聖レミギウス教会が建設された。847年、ヴォルムス司教(ドイツ語版、英語版)年代録に「ビューディンゲン」という地名が登場するが、これがどこのビューディンゲンを指しているかは定かではない。聖レミギウス教会は、1050年頃(年輪年代学による推定)に現在の姿に増改築された。 1131年に領主「フォン・ビューディンゲン」(Gerlacus et frater eius Ortswinus de Buedingen) が初めて文献に登場する。ハルトマン1世フォン・ビューディンゲンは、1170年にゲルンハウゼン宮廷の代官および城伯となっている。ビューディンゲン「村」は、1206年に初めて文献に記録されている。ビューディンゲン貴族家は、ゲルラハ2世の死によって1240年から1247年までの間にその男系家系が断絶した。 その相続人は娘婿に当たるフォン・ホーエンローエ=ブラウネック家、フォン・イーゼンブルク=ケンペニヒ家、フォン・トリムベルク家、フォン・ブロイベルク家、フォン・イーゼンブルク家であった。このうち、フォン・イーゼンブルク家がビューディングの所領から下の共同相続人を排除することに成功した。1259年、ビューディング裁判所が初めて記録された。1330年7月26日に皇帝ルートヴィヒ4世はビューディンゲンの領主ルター・フォン・イーゼンブルクにこの街の市場開催権を授けた。 1353年、ビューディンゲンの領主ハインリヒ2世は、ビューディンゲン市に特許状を発行した。それはこの都市の自衛権を認め、防衛軍を組織することを許可するものであった。ビューディンゲンの射撃クラブは、その歴史にこの創設の日付を刻んでいる。 1442年にビューディンゲン領主家は伯に昇格した。1578年、皇帝ルドルフ2世はビューディンゲン伯に「喜び呼ばわれの主日の市場」開催権を授けた。 1480年から1510年までの間にルートヴィヒ2世伯は古い市壁の前に新たに堅牢な市壁帯を設け、22本の塔と Halbschale(半円形の堡塁?)を装備した。この市壁は現在も完全に保存されており、ドイツで最も重要な中世後期の防衛施設の一つとなっている。 1521年のヴォルムス帝国会議後、マルティン・ルターはアイゼナハへ亡命する途上ビューディンゲン地方を通り、イーゼンブルク家の歓待を受けたと、推測される。なぜなら、ビューディンゲン家と、「cuius regio, eius religio(ドイツ語版、英語版)」(領主の信仰がその領民の信仰となる)の原則に従いその領民は、すでにこの年にプロテスタントに改宗していたからである。ドイツにおける宗教改革運動の高まりとともに、この街は後にカルヴァン主義に再度改宗した。 1576年、ペストが多くの住民の命を奪った。1632年にも再びペストがこの街を襲った。1590年には大火が起こり、48棟の住宅と納屋や家畜小屋が焼失した。 1634年、皇帝の軍隊(クロアチア軍)がビューディンゲンを占領し、スウェーデン軍は追いやられ、街中に悪事がはびこった。市民は殺害され、多くの家屋が焼き払われた。 1601年、ヴォルフガング・エルンスト伯はラテン語学校を設立した。現在のヴォルフガング=エルンスト=ギムナジウムである。宗教寛容法によりエルンスト・カジミール1世伯は、1712年にビューディンゲンを増強することを決めた。その後1724年までにウンタートーア(イェルサレム門)の前に城外都市を建設し、そこにユグノー派、ヴァルド派、インスピレーショナリストなど他の地域からの宗教難民が住み着いた。 1806年にイーゼンブルク=ビューディンゲン伯領はイーゼンブルク=ビルシュタイン侯領に併合された。1816年のウィーン会議でイーゼンブルク侯領は、ヘッセン=ダルムシュタット大公国とヘッセン=カッセル選帝侯領に分割され、ビューディンゲンはヘッセン=ダルムシュタット大公国領となった。エルンスト・カジミール3世伯は、1840年に大公の指示により世襲の侯に昇格された。 1822年にヘッセン=ダルムシュタット大公国の行政と司法が分離された。ビューディンゲンは、ビューディンゲン地方裁判所管区の本部所在地となった。これは後のビューディンゲン郡の起源であった。ヘッセン=ダルムシュタット大公国は1828年にプロイセンと関税同盟を締結したが、この商取引はビューディンゲンと境を接するヘッセン=カッセル選帝侯によって妨げられた。ビューディンゲンが属す州の住民は困窮し、物価の高騰、物品購入税、職場の欠如、安い賃金、高い税金、警官や行政の横暴に怒りを募らせた。ヘッセン政府は自分たちの利益を護るために、芽生えかけた暴動を押さえ込むべく軍事司令部をビューディンゲンに移し、60人の軍勢が直ちにこの街に配備された。1830年、ビューディンゲンで関税一揆が起こった。9月30日の夜に 2,000人の武装した農民が市門の前に集まり、通行を要求した。市の行政府は初めこれを拒絶していたが、「反乱者」の数がどんどん増加したため開門した。農民たちは税関を破壊し、書類を焼却し、夕方前に引き上げた。数日後ブッツバッハの竜騎兵が「一味」を追い詰め、暴動に参加した農民を追放した。 1839年に手工業学校(後の実業学校)が創設された。1867年から1868年にマチルデンホスピタルが建設された。1879年には「フォアシュシュ・ウント・クレディートカッセ」(現在の国民銀行)が設立された。 1739年からビューディンゲンとフランクフルト・アム・マインとの間の郵便連絡が成立した。週に1回郵便馬車が、週に2回馬に乗った配達夫が利用できた。1869年から1870年に鉄道ビューディンゲン – ゲルンハウゼン線が建設された。1879年に、体育館や校長宿舎を有する新しいギムナジウムが建設された。1888年から1895年までの間に市は水道網を建設し、一部で下水工事も始めた。1910年には、市営のガス工場が建設された。1913年、ビューディンゲンに電灯が点った。 1911年、ブルーノ通りに新しい国民学校が建設された。農家の購入・販売協同組合の創立は1920年であった。1965年には市立図書館を含む市民会館が完成した。 1936年からビューディンゲンは軍事都市となった。クリューガー兵舎が建設されたのである。ここには第3機関銃大隊、第15機甲守備部隊、第二次世界大戦中には第9機甲守備補充部隊が配備された。1945年から2007年までこの兵舎は、アームストロング兵舎として、アメリカ軍の第3機甲師団(ドイツ語版、英語版)をはじめとするアメリカ軍のさまざまな部隊に利用された。この兵舎の最後の部隊として、アメリカ陸軍第5軍団第1装甲師団(ハーナウ)第4旅団第1装甲機動連隊第1戦車中隊の約620人の兵士と900人以上の家族が2007年半ばにビューディンゲンから去っていった。
※この「年代記」の解説は、「ビューディンゲン」の解説の一部です。
「年代記」を含む「ビューディンゲン」の記事については、「ビューディンゲン」の概要を参照ください。
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 03:14 UTC 版)
「ザルネンの書」の書かれた1570年以前に比べると、それ以降にはテルの伝説が数多くある。それにはルツェルンの歴史家メルヒオール・ラス(1450–1499)の著作も含まれる。これは1482年に、「同盟の基礎の歌」や、コンラート・ユスティンガーの「ベルン年代記」と「ベルン州史」など、それ以前の雑多な記述をまとめたものである。もう一つは、テルの物語のもっとも古い印刷物である、ペータマン・エッテルリン「スイス同盟の歴史」(1507年)がある。 チューディーは1572年の死の前までに「スイス年代記」をまとめた。これは150年以上の間、1734-36年に編集されるまで手書きの形で残っていた。そのためこの年代記の刊行時期は明確でなく、完成したのも1572年以前としかわからない。それはチューディーが伝説として残したものだが、1730年代に印刷版が出るまでは、後世の作家にとって重要な版だった。
※この「年代記」の解説は、「ウィリアム・テル」の解説の一部です。
「年代記」を含む「ウィリアム・テル」の記事については、「ウィリアム・テル」の概要を参照ください。
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 07:24 UTC 版)
「ディーノ・コンパーニ」の記事における「年代記」の解説
ディーノは1310年から1312年にかけて、フィレンツェを襲った危機を『年代記 Cronica della cose occorrenti ne' tempi suci』に書き残した。この年代記の中でディーノは役者として、また見物人として登場し、国内分裂による損害や黒派や白派が犯した犯罪行為を弾劾した。フィレンツェの破局に手を貸したボニファティウス8世、シャルル・ド・ヴァロワ、コルソ・ドナーティの肖像は容赦ない厳しさで活写されている。イタリアの批評家デ・サンクティスは、同時代の年代記作家ヴィラーニと比較して「ヴィラーニたちは、財産目録でも作っているような落ち着いた無関心さで物語っているのに対して、ディーノとダンテは短剣で歴史を刻んでいる。表面的なことで満足する人はヴィラーニを読みたまえ。だが、事件を生む原因となった情熱、気風、内面生活などを知りたいと思う人は、ディーノを読みたまえ。」と高くディーノを評価した。
※この「年代記」の解説は、「ディーノ・コンパーニ」の解説の一部です。
「年代記」を含む「ディーノ・コンパーニ」の記事については、「ディーノ・コンパーニ」の概要を参照ください。
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 10:14 UTC 版)
「コング (アイルランド)」の記事における「年代記」の解説
『四導師の年代記』(Annals of the Four Masters)にはこのような記述がある。 M1184.12. ドネル オフラナガン、ケーヒル族の長、クンガ・フェイチン即ちコングの地に死す。
※この「年代記」の解説は、「コング (アイルランド)」の解説の一部です。
「年代記」を含む「コング (アイルランド)」の記事については、「コング (アイルランド)」の概要を参照ください。
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 21:23 UTC 版)
ケーザイは、その手になる年代記“Gesta Hungarorum”が、後世のハンガリーの年代記・歴史書に数多く引用されたことで、広くその名が知られている。ケーザイの年代記は、原本は現存せず、中世に作成された写本も行方知れずとなっている。現存するのは、中世写本を元に18世紀に作成された写本、及びそれを元に出版された刊本のみである。年代記は4部構成で、フン人の事績を記した第1書、ハンガリー人のパンノニア再征服と王国成立を述べた第2書、貴族の系譜を説明した第1付録、隷属民について説明した第2付録からなる。 年代記においてケーザイは、ハンガリー人がフン人と同一の集団とみなした。フン人とハンガリー人を同族とするみかたは、西ヨーロッパで10世紀には発生していたとみられるが、当初は数ある説の一つに過ぎなかった。ケーザイはこの見解を年代記の軸に据え、ノアの子孫でフン人とハンガリー人の始祖であるフノルとマゴル(英語版)の兄弟の神話を構築し、そこからアッティラを経てハンガリー人に至る架空の歴史を創作した。ケーザイ以前のハンガリーの年代記にも、ハンガリー人の神話的過去を描いたものはあるが、そこにフン人を結び付けたのは、ケーザイが最初である。ケーザイ・シモンは、西ヨーロッパへの旅行や文献調査によって蓄えた知識に基づいて執筆し、ヨルダネスの歴史書や『ニーベルンゲンの歌』、ハンガリーのローマ遺跡にまつわる口承などを利用して創作を行った。ケーザイが歴史を創作した意図は、ハンガリー人とフン人を同一視することで、ハンガリー人がパンノニアを征服したことを、フン人の旧領への帰還として正当化し、更にフン人とハンガリー人の祖先に聖書の登場人物を持ってくることで、キリスト教世界に対してもアールパード朝の正統性を主張することにあったと考えられる。 ケーザイはまた、ローマ法に関する見識を活用し、年代記を通じてキリスト教世界にハンガリーが法治国家であることを認めさせようとしていた。ケーザイは、ハンガリー人貴族と外来の貴族、ハンガリー人の非貴族・隷属民、異民族出身の隷属民が混在する複雑な社会構造を、慣習法と成文法を駆使して説明づけ、対外的にはハンガリー人が独自のやり方で法に則った統治をしてきたことを、対内的には中小貴族層の権利の保障を主張した。
※この「年代記」の解説は、「ケーザイ・シモン」の解説の一部です。
「年代記」を含む「ケーザイ・シモン」の記事については、「ケーザイ・シモン」の概要を参照ください。
年代記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:16 UTC 版)
「テオファネス (証聖者)」の記事における「年代記」の解説
テオファネスは、友人のゲオルギオス・シュンケロスに執拗に頼まれ、810年から815年にかけて彼の年代記 (Χρονογραφία, Chronographia)の執筆を引き継いだ。彼の文章の言語は、堅苦しい教会語と地元の俗ギリシア語の中間に位置する。彼が執筆にあたり利用した史料は3つ、まずシュンケロスが事前に用意していたもの、次にコンスタンティノープルのソクラテスやソゾメノス、テオドレトスらの著作からテオドロス・アナグノステスが引用した文章、最後にコンスタンティノープル市の年代記である。シリル・マンゴー(英語版)によれば、年代記を製作するうえでテオファネスの労力が占める割合はそこまで大きくなく、やはり大部分はシュンケロスの業績であったとしている。これに基づけば、テオファネスの主な仕事は、シュンケロスが集めた大雑把な史料をまとめて形にしたことであったといえる。[要出典] 年代記中でテオファネスが書いている部分は、284年のディオクレティアヌス即位(この内容の部分でゲオルギオス・シュンケロスの年代記は途絶えている)から813年のミカエル1世ランガベーの没落までである。この範囲の記述には、現存しない7,8世紀のビザンツ帝国の歴史家の叙述が多く引用されており、非常に歴史的価値が高い。7-9世紀のビザンツ帝国は政治・軍事的に苦境に陥り、文化・知的活動も停滞したため「暗黒時代」と表現されるが、テオファネスの年代記はこの「暗黒時代」についてギリシャ語で書かれた歴史記述としては現代まで残存したほぼ唯一のものである。 テオファネスの年代記は大きく2部に分かれている。1つ目は1年ごとに歴史を記述した年代記そのものであり、もう一つは年代表である。しかし残念ながら、後者は極めて不正確である。おそらくテオファネスは表だけ作って年代日付を空白にしていたところを、後の誰かが出鱈目に埋めたものとみられている。前半の年代記部分では、テオファネスは慣例的な世界創造紀元から始まるキリスト教的年代と共に、表の形でローマ皇帝やペルシアの君主、アラブのカリフ、5人のエキュメニカル総主教の在位年数を併記している。しかしこれは逆にかなりの混乱を引き起こす結果に終わっている。 前半部は、批判的な洞察や年代の正確性に欠けるものの、それでもなお大部分のビザンツ年代記より優れていると評価されている。とりわけユスティニアヌス2世の治世初期 (565年)の記述は多くの現存しない文献を引用しており、貴重なものとなっている。 テオファネスの『年代記』は後の年代記者たちにも引用されたほか、873年から875年にかけてラテン語版も制作された。訳者はローマ教皇の司書官アナスタシウスで、彼は9世紀半ばにヨハンネスという助祭のためにニケフォロスやゲオルギオス・シュンケロス、テオファネスの年代記を翻訳し、それ以降テオファネスの著作は西ヨーロッパにも知られるようになった。 後にコンスタンティノス7世の命により、続テオファネス年代記と呼ばれる961年までの続編が編纂された。携わった年代記者たちの名は分かっていない。
※この「年代記」の解説は、「テオファネス (証聖者)」の解説の一部です。
「年代記」を含む「テオファネス (証聖者)」の記事については、「テオファネス (証聖者)」の概要を参照ください。
「年代記」の例文・使い方・用例・文例
年代記と同じ種類の言葉
- 年代記のページへのリンク