だい‐かん〔‐クワン〕【代官】
代官
代官
代官
代官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
役高は小組25石役・大組30石役である。代官は藩の行政上の区割りである各組を担当し巡回監督し、配下の各組方の割元が通常業務をこなした。代官の定員は時代により変動したがおよそ、上組・北組3〜4人、栃尾組・西組・河根川組・巻組は1〜2人、曽根組1人。上組・北組代官は上御蔵・北御蔵の蔵屋敷に詰め、藩士への渡し米(知行米・扶持米の引き渡し)の業務も担当した。他の組の代官はそれぞれの住居兼用の役宅が宛われ、これに常駐した。代官の要員は主に小組の士が充てられたが大組の士がなる場合もあった。なお、村役人(武士ではない)である庄屋およびその補佐の郷横目は郡奉行・代官の支配に属して村政にあたったが、自治組織としての村と藩政の接点である。 なお、『新潟県史・通史3・近世一』では栃尾組代官の初見が確認される皆済状が発行された元和7年(1621年)から寛文頃までの栃尾代官は槇氏、秋山氏、平岡氏、須山(陶山)氏の代官が長く在勤し、世襲の可能性が同書で指摘されている。栃尾組代官は承応2年から「栃尾御旅屋」に居住したとされる。
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代官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:51 UTC 版)
以下は藤沢宿支配の歴代代官の一覧であるが、藤沢宿には代官所は存在しなかった。 慶長元年(1596年)- 彦坂小刑部元正 慶長6年(1601年)- 深津八九郎孝勝 慶長8年(1603年)- 米倉助右衛門永時 慶長12年(1607年)- 依田肥前守信重 元和3年(1617年)- 服部惣左衛門 慶安2年(1649年)- 成瀬五左衛門重治 天和3年(1683年)- 国領半兵衛重次 貞享4年(1687年)- 西山八兵衛昌親 元禄4年(1691年)- 古郡文右衛門正府 元禄10年(1697年)- 竹村惣左衛門嘉躬 元禄13年(1700年)- 平岡三郎右衛門尚宣 元禄14年(1701年)- 小長谷勘左衛門(市右衛門)正綱 宝永7年(1710年)- 小林又左衛門正府 正徳4年(1714年)- 河原清兵衛正真 享保6年(1721年)- 江川太郎左衛門英勝(韮山代官所代官) 享保6年(1721年)- 松平金左衛門 享保9年(1724年)- 日野小左衛門正晴(韮山代官所代官) 享保17年(1732年)- 齋藤喜六郎直房 寛延2年(1749年)- 戸田忠兵衛正方 寛延2年(1749年)- 辻六郎左衛門富安 宝暦元年(1751年)- 岩出伊左衛門信之 明和2年(1765年)- 伊奈半左衛門忠宥 明和5年(1768年)- 池田喜八郎季庸 明和6年(1769年)- 久保田十左衛門政邦(後の勘定奉行) 明和7年(1770年)- 江川太郎左衛門英征(韮山代官所代官) 明和7年(1770年)- 野田文蔵 寛政4年4月(1791年)- 小笠原仁右衛門 寛政4年6月(1791年)- 大貫次右衛門鎌次郎 文政6年11月(1823年)- 中村八太夫(天領代官による当分預かり) 天保2年6月20日(1831年)- 江川太郎左衛門英毅(韮山代官所代官) 天保5年(1834年)- 江川太郎左衛門英龍(韮山代官所代官) 安政2年(1855年)- 江川太郎左衛門英敏(韮山代官所代官) 文久2年(1862年)- 江川太郎左衛門英武(韮山代官所代官。後の韮山県令。)
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