倉敷代官所とは? わかりやすく解説

倉敷代官所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 00:14 UTC 版)

倉敷支配所」の記事における「倉敷代官所」の解説

倉敷代官所(くらしきだいかんしょくらしきだいかんじょ)は、備中国窪屋郡倉敷村(現・岡山県倉敷市本町にあった倉敷支配所政庁となった代官所である。鶴形山南側向山北側位置する現在の倉敷アイビースクエア立地する一帯存在した寛保元年備中美作備後讃岐沖合などの幕府領地(約6373石)を管轄統治する代官所設置決定され延享3年完成した天明寛政年間には改築が行われている。 『倉敷陣屋図』によると当時、ほぼ正方形の形の敷地南面しており、敷地中央付近に城山呼んだ小丘があった。東西55間半南北20間(ただし中央部は小丘のため狭いところで約14間)、東端南北伸び塀の長さ27間ほどに及んだ。西と南の二方外堀面し南面中央の土橋を渡ると正門、その奥の東に代官邸、西に公庁、さらに園に市に属吏官舎があった。また東の小門出て北に八幡宮があったとされる中央北にあった城山は、稲荷山とも呼ばれ、『備中誌』などが小野城とも表記する屋敷跡があったとされ、庄屋小野氏勧請した稲荷神社があったとする。この城山の西側に天保5年明倫館開設されている。 代官所には、手附手代書役などの役人10数人勤務し支配地の行政・司法あたった。他に年貢米改装周辺諸藩動静監視重要な任務とされた。 慶応2年4月長州第二奇兵隊浪士集団起こした倉敷浅尾騒動により、代官所大部分火災により焼失した明倫館学舎一時代官所として代用。また同年4月1日岡山藩士の屯所としても明倫館使用した慶応4年1月廃藩置県により倉敷支配所廃止となり、倉敷県移管。倉敷代官所は同県となった明治4年周辺県と統合し小田県深津県)となり、倉敷県庁も廃止となる。 明治20年、旧倉敷代官所(倉敷県庁)は倉敷紡績クラボウ)の敷地となり、同工場が建設される。翌21年には城山崩され平坦地となった同工廃止後、倉敷アイビースクエアとなり、現在に至る。 現在、代官所遺構倉敷アイビースクエア敷地内井戸西門外のとその架かる堀の一部を残すのみである。

※この「倉敷代官所」の解説は、「倉敷支配所」の解説の一部です。
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