どう‐せい【動静】
動静
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 09:10 UTC 版)
安富氏は鎌倉時代中期以降に幕府奉行人として現れ、安富長嗣・行長・高嗣ら一族の奉行人としての活動は室町時代初期まで史料に残るが、応永年間以降は史料に細川京兆家の重臣(内衆)として現れるようになる。『相国寺供養記』では明徳3年(1392年)の相国寺落慶法要に際して、細川頼元の「郎党二十三騎」として安富安芸守盛家・又三郎盛衡父子が供奉しているとの記述がある。盛衡の子と目される盛長は1460年頃に雨滝城を築き、一族は東讃7郡を治める讃岐東方守護代を世襲した。応仁の乱においては細川勝元の重臣であった安富民部元綱や弟の盛継ら一族が活躍した記録が諸史料に見える。細川政元の重臣であった安富元家は、長享・延徳の乱における政元の六角高頼討伐に際して近江守護代を兼任し、一時は政元の政務を代行するなど活躍した。惣領以外の一族も盛行が摂津西成郡守護代を、盛光が備中守護代をそれぞれ務めるなど細川氏領国における守護代や代官を広く務めた。しかし、政元暗殺後の細川京兆家の内紛と混乱に続く衰退とともに安富氏の勢威も衰え、戦国末期には長宗我部元親に雨滝城を落とされ没落した。江戸期の一族の動向は不明。
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動静
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 09:10 UTC 版)
元々は関東御家人であったが、1265年頃に肥前深江村の地頭に任命され、元寇の警備のために頼清の子である頼泰が九州に下向。そのまま住み着いた。元寇期における「下り衆」の典型。安富頼泰・貞泰父子が鎮西引付衆を務めるなど一族は幕府の官吏として活動したが、南北朝時代以降は深江村に土着し土豪として活動。鎌倉時代後期から戦国時代末期まで300年に及び深江村を支配したが、戦国時代末期に有馬氏との抗争に敗れ深江村を追われた。江戸期には深江氏と改称し鍋島藩家老として存続した。鎌倉時代以降の文書をまとめた「深江文書」を残し、とくに鎌倉末期から南北朝時代における肥前国史を知る上で貴重な史料となっている。
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動静
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/08 16:59 UTC 版)
鳥取県が入湯税を基に算出した調査に拠れば、鳥取温泉の年間利用者は毎年7万人から8万人で推移している。その数は2006年(平成18年)をピークに近年はやや減少傾向がみられるものの、1998年(平成10年)と比較すると増えている。鳥取県全体の温泉利用客数は1998年以来右肩下がりにあり、1998年から2010年で25%の減少だが、鳥取温泉に限ると17%増である。 1997年以前の温泉利用客数は計算方法が全く異なっており、各自治体の申告に基づく推計値である。これによると、1997年(平成9年)の鳥取温泉の利用客数は年間45万人で、バブル景気の頃にはピークを迎え、1989年(平成元年)には年間69万人が利用したことになっている。
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動静
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 07:04 UTC 版)
2017年(平成29年)の鳥取県による調査では、年間の入湯客数は約15000人で、2000年頃と比較すると半分以下に減少している。鳥取県内の入湯客の総数も2000年からの10年間で約26万人(約-20%)のマイナスであるものの、それ以上の減少幅となっている。 観光客数のピークは昭和末期から平成5年頃にかけてのいわゆるバブル期で、年間12万の集客があったと推計されている。(この数は、上記の入湯客数の調査とは異なる方法での推計値であり、単純な比較はできない。
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