政元暗殺とは? わかりやすく解説

政元暗殺(細川殿の変)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:15 UTC 版)

永正の錯乱」の記事における「政元暗殺(細川殿の変)」の解説

永正4年1507年6月23日修験道没頭して天狗扮装をするなど度々奇行のあった細川政元は、魔法修する準備として邸内湯屋入ったところを、澄之を擁する内衆薬師寺長忠香西元長竹田孫七らに唆され祐筆戸倉氏によって殺害された(細川殿の変)。さらに翌日、長忠らは澄元・三好之長の屋敷攻め寄せ、澄元らを近江敗走させ、主君として澄之を迎えて細川京兆家家督を継がせた。6月26日には、政元の命令受けて丹後一色義有攻めていた赤沢朝経が軍を京都撤退させようとしたが、一色義有丹後の国石川直経らの反撃を受け、自害追い込まれた(養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になる)。 しかしもう1人養子高国は、一族摂津分郡守護細川政賢淡路守細川尚春河内守畠山義英語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意をみた。なお、高国については政元の存命中に養子縁組解消されて、実家である野州家継承してたとする説も出されている。 まず7月28日薬師寺元一(弟・長忠に滅ぼされている)の子徳丸は長忠の居城茨木城攻め落した続いて29日細川高国らは香西元長居城嵐山城攻め落とした。そして8月1日逃亡先の近江甲賀郡国人らを味方引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之最後の砦となっていた遊初軒を高国とともに一気攻め落したため澄之は自害した。翌2日細川澄元将軍拝謁し細川京兆家家督継いだ

※この「政元暗殺(細川殿の変)」の解説は、「永正の錯乱」の解説の一部です。
「政元暗殺(細川殿の変)」を含む「永正の錯乱」の記事については、「永正の錯乱」の概要を参照ください。

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