政元暗殺(細川殿の変)
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「永正の錯乱」の記事における「政元暗殺(細川殿の変)」の解説
永正4年(1507年)6月23日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなど度々奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、澄之を擁する内衆の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された(細川殿の変)。さらに翌日、長忠らは澄元・三好之長の屋敷に攻め寄せ、澄元らを近江に敗走させ、主君として澄之を迎えて細川京兆家の家督を継がせた。6月26日には、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれた(養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になる)。 しかしもう1人の養子・高国は、一族の摂津分郡守護細川政賢や淡路守護細川尚春、河内守護畠山義英と語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意をみた。なお、高国については政元の存命中に養子縁組が解消されて、実家である野州家を継承していたとする説も出されている。 まず7月28日、薬師寺元一(弟・長忠に滅ぼされている)の子・万徳丸は長忠の居城茨木城を攻め落した。続いて翌29日、細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とした。そして8月1日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を高国勢とともに一気に攻め落したため澄之は自害した。翌2日、細川澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督を継いだ。
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