暗殺の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 07:47 UTC 版)
政元暗殺に関しては家臣の香西元長が首謀者だったという。理由に関しては元々嗣子として迎えた澄之であるにも関わらず、細川一族と全く関係無い澄之を後継にすることに一族の反対論が根強く自らも次第に後悔して、庶家の澄元を阿波から嗣子として迎えた。だがこのために澄之の補佐役だった香西元長の権力が失墜し、澄元の補佐役であり政元にその軍事の才を見込まれ重用されるようにもなった京兆家家臣としては新参者の三好之長の権力が細川家中で増大した。澄元に従って阿波から来た三好之長は讃岐の政治にも介入しだしたため、讃岐出身である香西元長は憎しみを抱いた。また主君政元の問題多き性向も将来への不安となり、澄之を擁立して自らが権力を握るために暗殺事件を起こしたという。 また、澄之自身も黒幕として計画に加わっていたとされている。廃嫡・元服直後の永正3年(1506年)には前述の通り、養父・政元の命令に従って丹後の一色義有討伐に赴いて賀悦を攻めたが、命令に従ったのは表向きの行動に過ぎず、敵の一色方と内通して落城を装い、兵を退くという行動を起こしている。先に澄之が落城を装った賀悦城の石川直経が、政元暗殺を知って京都への撤退を試みた赤沢朝経を首尾よく襲って敗死させるなどしており、事件以前から澄之も通謀し、周到に準備された計画性がうかがえる。理由は廃嫡されたことに対する恨みが主なものであったと考えられる。
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