らく‐じょう〔‐ジヤウ〕【落城】
らくじょう〔ラクジヤウ〕【落城】
落城
作者田宮虎彦
収載図書昭和文学全集 32 中短編小説集
出版社小学館
刊行年月1989.8
収載図書時代小説を読む 城之巻
出版社大陸書房
刊行年月1991.1
収載図書日本名将列伝
出版社大陸書房
刊行年月1992.5
シリーズ名大陸文庫
落城
陥落
落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/06 16:48 UTC 版)
尼子氏の敗走を聞いた信実と幸清は、その夜の内に城から脱出し、大雪に紛れて出雲へ逃亡した。孤立した佐東銀山城には、武田氏の一族である武田信重が残された。大内軍は、吉田郡山城の戦いに乗じて大内に反旗を翻した桜尾城を攻める一方、佐東銀山城には元就を差し向けた。信重と残る家臣たちは守兵300余で抗戦するも、銀山城は5月に落城。信重は自害した。その後、この城は大内氏のものとなり、大内方の城番が置かれることとなった。 佐東銀山城を落とすにあたり、元就は、火を点けた草鞋1000足を夜の太田川に流し、籠城する武田軍に動揺を与えたという伝承が残されている。これによると、難攻不落と言われる佐東銀山城を搦め手(裏)から攻めることを計画した元就は、山の裏手側にある長楽寺が毛利軍の動きを鐘で籠城側に知らせないよう調略。さらには、城兵の注意を大手(表)に引きつけるために、油に浸して火を付けた多数の草鞋を太田川から流した。これにより、毛利軍は佐東銀山城を背後から急襲することに成功し、城兵は総崩れとなったという。なお、1000足の草鞋が流されたとされる太田川岸には千足(広島市東区戸坂)という地名がある。またこの時、大内軍は矢賀・中山・尾長3村の境界の峠を越えて武田氏に属する白井氏(安芸府中の領主)を攻略し、以後この峠は「大内越峠」(おうちごだお)と呼ばれるようになった(矢賀村参照)。
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落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:12 UTC 版)
堺では幕府軍の総攻撃を撃退した大内勢が意気を揚げていた。しかし、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、12月21日早朝に総攻撃を開始した。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せた。 杉備中守は今日が最後の戦いになると覚悟し、山名(河口)満氏(氏清の子、宮田時清(既述)の弟)の陣に突撃して見事な討死を遂げた。これを見ていた義弘は項羽の討死の故事を引き、自分も後代に残るような最期を遂げようと決意する。義弘は幕府軍の北側の陣へ斬り込み大太刀を振るって奮戦。管領畠山基国の嫡子満家の軍勢200騎がこれに挑むが、義弘はよき敵であると僅か30騎でさんざんに戦った。その時、石見の住人200騎が幕府軍に内応してしまう。激怒した義弘は石見勢に攻めかかり、恐怖した石見勢は逃げ散った。 義弘はなおも満家を討ち取ろうと戦い続け、幕府軍はこれを取り囲んで攻め立てた。義弘の手勢は次第に数を減らし森民部丞ひとりになってしまった。森民部丞は義弘を守って敵陣に斬り込み奮戦して討死した。一人になった義弘は満家を目がけて戦い続けるが、取り囲まれ遂に力尽きて「天下無双の名将大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して、討ち取られた。 南側を固めていた杉豊後守は義弘の死を知らされて敵陣に切り込んで討死。東側を固めていた弘茂は今川勢、一色勢を相手に戦っていたが、手勢も討ち減らされ、最早これまでと自害しようとした。平井備前入道が押し止めて降伏を勧め、弘茂もこれに従った。 その他の大内勢も落ち延びるか自害して、堺は落城した。 鎌倉公方足利満兼は武蔵府中から下野足利荘(栃木県足利市)まで進軍するが、義弘敗死の報を聞いて鎌倉へ引き返した。
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落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 13:58 UTC 版)
「秀吉 (プロレスラー)」の記事における「落城」の解説
リフトアップスラムの体勢から相手の両脚を掴んでフェイスバスターの形で落とす技。雪崩式で行うこともある。
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落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:55 UTC 版)
大壇を始めとする城外の陣地をほぼ攻略され、二本松藩の指揮官らは二本松城に撤退して最後の抵抗に移ろうとしていた。長国を米沢藩に脱出させた際に仙台藩の護衛がついたが、それはそのまま同盟に対する人質となって二本松藩は降伏を選ぶことができなかった。二本松藩の望みは会津藩と仙台藩の援軍だが、両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に要所に置かれた新政府軍によって半壊の被害を受けて撤退してしまっていた。また、城内の仙台藩兵、会津藩兵も城を脱出し、後には逃げ場所のない二本松藩兵のみが残された。 29日の正午、二本松城にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかったことがさらなる悲劇をもたらす。激戦の最中に二本松少年隊の隊長と副隊長が相次いで戦死し、指揮できる者がいない中、二本松少年隊40名は最前線に放置される事態に陥っていた。彼らは戦場を彷徨う果てに1人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて1人1人命を落としていく。その中には13歳になる少年兵と遭遇した土佐藩兵が、幼さに驚愕して生け捕りにしようとするも、抵抗されたために射殺するしかなかったケースもあった。 この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。会津藩は39名、仙台藩は19名の死者を出し、対する新政府軍は17名の死者に留まったが、二本松藩の激しい抵抗により多くの戦傷者が発生し、その戦いぶりは当時一部隊の隊長だった野津道貫によって「戊辰戦争中第一の激戦」と賞された。
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落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 14:42 UTC 版)
武田軍は討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の目前に並べて晒して威嚇。救援の望みが全く立たれた城兵の士気は大きく衰えた。8月10日(9月23日)、武田軍は総攻めをしかけ、外曲輪、二の曲輪が焼き落とされる。翌11日、武田軍は残る本曲輪を攻め、城主笠原清繁と関東管領からの援軍高田憲頼は討ち取られ落城した。 武田晴信の敵兵への処置は厳しく、捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。この時代の合戦では捕虜は報酬として将兵に分け与えられ、金銭で親族に身請けさせることがよく行われたが、この合戦の捕虜の値段は非常に高額で身請けができず、ほとんどが人買いに売買されたという。笠原清繁の夫人は城攻めで活躍した郡内衆の小山田信有に与えられ妾とされた。江戸時代に編纂された『甲斐国志』には悲運に涙に暮れた笠原清繁夫人の哀話が残されている。
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