落城の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
『信長公記』には、落城したのが何年であるかは記載されていない。『岐阜県史』によれば、『美濃明細記』、『土岐累代記』、『土岐斎藤軍記』、『豊鑑』等は落城を永禄7年としている。しかしながら、閏8月18日付けの斎藤家四家老の連判状が存在し、閏8月があるのは永禄9年で、その年に龍興が当主として健在であるから、永禄7年説は成り立たない。永禄7年から11年に信長が現岐阜域で出した文書類は、史料としては検討を要する永禄7年9月15日付け常在寺寄進状を除き、永禄10年9月以前に出した文書はひとつも存在せず、禁制が永禄10年9・10月に集中している。また、永禄10年11月9日付けで信長に美濃国内と推定できる御料所回復を信長に命じた正親町天皇の綸旨もある。一方、永禄7年9月9日付けで信長が上杉家家老直江景綱に送った書状で、美濃を攻めたことを書いているが、これはその年の竹中重治の稲葉山城奪取に乗じたものと考えられるとしている。『岐阜市史』も同様の考察で、信長による稲葉山城落城は永禄10年であることはまったく疑問の余地はなく、永禄7年説は今日の歴史学の研究方法から見れば支持し難いとしている。
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