安城城の落城時期とは? わかりやすく解説

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安城城の落城時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:51 UTC 版)

安城合戦」の記事における「安城城の落城時期」の解説

安城城落城の時期については諸説ある。以下に述べると、まず天文9年第一次安城合戦落城たとする説がある。そして、天文9年合戦では痛み分け終わって安城城落ちず、さらに4年後の天文13年1544年8月22日松平長親死去すると、これを知った織田方が織田敏宗派遣して3000の兵で再度攻城させるが再び失敗。敏宗による攻撃翌月信秀三度目攻撃をして、ようやく落城せしめたという説がある。この説は、第一次安城合戦翌年である天文10年1541年)に水野氏松平氏和議を結び、水野忠政松平広忠於大の方を嫁がせていること、そして天文12年1543年)に水野忠政死去すると、家督継いだ水野信元織田氏との協調姿勢示して、翌天文13年松平氏との同盟破棄したことなどの諸事象整合性がある。しかし、その代わり天文11年1542年)に生起しとされる第一次小豆坂の戦いとの整合性失われてしまう。 また更に、天文13年にも安城城落城せず、天文16年1547年)に落城したという説もある。こちらの説では第一次小豆坂の戦い加えて後述する天文14年1545年)に生起しとされる安城合戦との整合性問われることになる。 これらの異説発生する前提として、当時古文書分析今川氏北条氏対立による駿河東部への兵力投入河東一乱)などから今川氏の三河進出開始時期天文12年以降でないと整合性取れない、とする見方存在しており、その見方に基づくと天文11年第一次小豆合戦後世の創作であるという解釈に立つことによる詳しく松平広忠小豆坂の戦いなどを参照のこと)。 いずれにせよ安城城落城後、一門衆である松平清定(松平信定の子)や松平重弘、佐々木松平家松平忠倫重臣酒井忠尚などが織田氏に下るなど、矢作川西岸碧海郡に城を持っていた松平氏家臣は、徐々に織田氏勢力下に入ることになり、やがては矢作川東岸にも織田氏影響がおよぶなど岡崎城肉薄することになる。

※この「安城城の落城時期」の解説は、「安城合戦」の解説の一部です。
「安城城の落城時期」を含む「安城合戦」の記事については、「安城合戦」の概要を参照ください。

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