第一次
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 03:56 UTC 版)
1896年(明治29年)9月8日、大阪府大阪市南区道頓堀(現在の同府同市中央区道頓堀)の角座(現在の松竹芸能 道頓堀角座)で結成された。素人芝居から青柳捨三郎一座に加わって4年目の喜多村緑郎、銀行勤務を辞めて福井茂兵衛一座に参加、1893年(明治26年)に神奈川県横浜市賑町(現在の同県同市中区伊勢佐木町)の蔦座で初舞台を踏んだ秋月桂太郎、川上音二郎一座を脱退した高田実、1891年(明治24年)、川上音二郎一座で初舞台を踏み、高田とともに脱退した小織桂一郎、同じく岩尾慶三郎、深沢恒三、木村周平の7人が設立に参加した。当日の第1回公演の演目は『明治四十余年』『讃岐七人斬』であった。同年12月には、泉鏡花の『瀧の白糸』を初演している。 同劇団は「家庭小説」に題材を求め、『瀧の白糸』のほか、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『己が罪』、佐藤紅緑の『侠艶録』、徳田秋声の『誘惑』等を戯曲化し、あるいは中内蝶二の戯曲『大尉の娘』等を上演した。同劇団の演劇は、壮士芝居の大げさな演技を排し「写実芸」を開拓したとされ、好評のうちに、1898年(明治31年)に解散、これをのちに「第一次成美団」と呼んだ。当時の舞台を観た、大阪での奉公時代の井上正夫は、それを機に新派を志し、「敷島義団」に参加したのだという。解散の理由は、喜多村が五代目尾上菊五郎ら「旧劇」の芝居を模範としようと考えたことに対して、高田が反発したためであった。
※この「第一次」の解説は、「成美団」の解説の一部です。
「第一次」を含む「成美団」の記事については、「成美団」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 21:03 UTC 版)
天文13年(1544年)、湊定季の養子となった友季が叔父の腋本脩季と組んで檜山家と闘ったと推測されているが詳細は不明。この結果、友季は早世、定季は次いで舜季二男で外孫の春季を友季と改名させ養子に迎え第8代当主とし自らは出家するものの、これも夭折したため還俗し、堯季と改名したうえで第9代当主となった。
※この「第一次」の解説は、「湊騒動」の解説の一部です。
「第一次」を含む「湊騒動」の記事については、「湊騒動」の概要を参照ください。
第一次 (2002 - 2006)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 17:01 UTC 版)
「フィンランドのユーロ硬貨」の記事における「第一次 (2002 - 2006)」の解説
第一次フィンランドのユーロ硬貨は、デザインが3種類あり、その1つは、フィンランドの国章に描かれている剣をふるうライオンで、ユーロ導入以前の通貨であったマルッカ硬貨のデザインを引き継ぐ。 フィンランドのユーロ硬貨・裏面(2002 - 2006)€ 0.01 € 0.02 € 0.05 ライオン(フィンランドの国章) € 0.10 € 0.20 € 0.50 ライオン(フィンランドの国章) € 1.00 € 2.00 € 2 の縁(へり) € 2 硬貨の側面部には、フィンランドの2つの公用語による国名、フィンランド語の "SUOMI" とスウェーデン語の "FINLAND" に続き、国章のライオンの頭部が3つ刻印されている。 フィンランドの大地を飛ぶ2羽の白鳥 クラウドベリーの実と花
※この「第一次 (2002 - 2006)」の解説は、「フィンランドのユーロ硬貨」の解説の一部です。
「第一次 (2002 - 2006)」を含む「フィンランドのユーロ硬貨」の記事については、「フィンランドのユーロ硬貨」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 23:03 UTC 版)
「落語研究会 (落語会)」の記事における「第一次」の解説
1905年~1923年 発起人初代三遊亭圓左 4代目橘家圓喬 3代目柳家小さん 4代目橘家圓蔵 初代三遊亭圓右 2代目三遊亭小圓朝 小さん以外全員三遊派。 顧問(入会審査資格あり)今村次郎 岡鬼太郎 参加者は厳格な選抜方式を採用した。上記8人の全員賛成でない限り、落語家の新規入会は認められなかった。たとえそれが発起人の子孫であってもである。初代圓右は息子を入れようとしたが反対された。 準幹部2代目柳家つばめ 初代柳家小せん 4代目古今亭志ん生 3代目蝶花楼馬楽 8代目桂文治 2代目三遊亭金馬 3代目三遊亭圓馬 顧問(上記以外)森暁紅 石谷華堤 主事今村信雄 会の趣旨落語の研究 後進の養成 寄席の改良 旗揚げ1905年3月、日本橋区日本橋萬町・常盤木倶楽部 会場日本橋萬町・常盤木倶楽部 茅場町・宮松亭 活動停止1923年 関東大震災による。 著書『落語名作揃』 エピソード当時、初代三遊亭圓遊(鼻の圓遊、ステテコの圓遊)に代表される珍芸が一世を風靡していた。同じ三遊派の圓左は、この状況を憂い、落語のあるべき姿を示すために行動したものである。もともとは三遊派内部の路線対立である。そして落語が(単なる娯楽でなく)普遍的芸術となるきっかけを作った。 第一回には、当の圓遊にも出演を依頼した。しかし圓遊は(無料出演が条件と勘違いして)会を抜いた。圓遊は新聞で批判された。謝罪して出演は実現したが、会の客にはまったく受け入れられなかった(圓遊を批判する会なのだから当然であろう)。圓遊の人気凋落のきっかけとなった。 もともと落語家に袴の着用はタブーだった。講談や浪曲と違って落語の材料は市井坊間の物が多いのだから、落語家は袴などをつけない方がいいという(講談は一流芸、落語は(袴を付けられない)二流芸とする)考えが当時まであったからである。この会はもともと珍芸=行儀の悪い芸を批判する会であり、参加者が率先して落語家の手本を見せようということで、全員に袴の着用が義務付けられた。これが、落語家が袴を常用する直接のきっかけとなった。 会の趣旨に「寄席の改良」を挙げている。珍芸を客が呼べるからといって寄席が重用することを批判していること、および既存の寄席とは競合関係になることから、寄席はこの会に敵対的だったが、この会の成功を見て態度を変えた。のちには開催のための会場も貸し出した。 初代柳家つばめは出演のオファーがあったが「ナニ、落語を研究する会? 俺の落語は研究ずみだよ! いまさら研究でもあるまい」とコメントし、参加しなかった。代わりに3代目柳亭燕路、3代目春風亭柳朝らと共に別の研究会「昔噺洗濯会」を創設、1906年1月7日から下谷広小路鈴本亭で第一回を開き、後進の指導に努めた。
※この「第一次」の解説は、「落語研究会 (落語会)」の解説の一部です。
「第一次」を含む「落語研究会 (落語会)」の記事については、「落語研究会 (落語会)」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 00:04 UTC 版)
「ボズネセンスクの戦い」の記事における「第一次」の解説
2022年3月2日、ロシア黒海艦隊の第126独立沿岸防衛旅団(英語版)の部隊が、南ブーフ川を渡る橋を目指して、ムィコラーイウからボズネセンスクに向かって北西に進軍した。この部隊は兵士400人と戦車43両からなるものと思われていた。 ボズネセンスク市長かつ司令官の一人であるYevgeniy Velychkoは、現地のビジネスマンがウクライナ軍に協力して、ロシア軍に備えて道路に無数のバリケードを設置し、メルトヴォヴォード川(ウクライナ語版)にかかる橋を破壊するとともに、ロシア軍が渡れないように川の岸を掘り下げたと発言した。 ロシア軍が砲撃して戦闘が勃発し、複数の建物が損害を受けた。ロシアの空挺兵が南西部に投入され、戦車部隊が南西から進軍し、近隣のラコベ(ウクライナ語版)に入った。狙撃兵が複数の家屋に拠点を作り、ロシア軍は現地のガソリンスタンドに基地を置いた。装甲兵員輸送車がウクライナ領土防衛隊の基地を砲撃し、複数のウクライナ兵士が死亡した。ロシア軍はボズネセンスクに押し入ることはできなかった。ウクライナ軍がロシア軍の拠点を砲撃し、ロシア軍に迫撃砲を設置させなかった。 日暮れ頃に、ロシアの戦車が都市を砲撃したが、反撃に遭い後退した。同時に、ウクライナ軍はロシア陣営を砲撃して複数のロシア戦車を破壊し、歩兵がアメリカが供給したFGM-148 ジャベリンで攻撃し、少なくとも戦車3両を破壊した。またロシアのMil Mi-24を撃墜することに成功した。3月3日には、ロシア軍が装備と車輌を放棄して撤退したが、その途上でラコベを砲撃し、病院に直撃し、また、村を荒した。ロシアの戦車隊は南東64キロメートルの地点まで撤退した。 最終的に、ロシアの戦車30両が放棄され、そのうち15両をウクライナ軍が鹵獲した。現地当局によれば、ロシア軍の兵士およそ100人が戦死、10人が捕虜になったという。ウクライナ軍は、主に領土防衛隊で死傷者が生じた。また、市民12人が戦闘で死亡した。
※この「第一次」の解説は、「ボズネセンスクの戦い」の解説の一部です。
「第一次」を含む「ボズネセンスクの戦い」の記事については、「ボズネセンスクの戦い」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:59 UTC 版)
1924年(大正13年)4月27日に秋田雨雀、安部磯雄、菊池寛、島中雄三を含む9人が発起人となって結成された。 同年2月10日に新たな社会主義団体の結成が提案され、翌月に団体名称を「日本フェビアン協會」と決定した。 機関紙は堺利彦、山川均によって1919年(大正8年)4月から1922年(大正11年)1月まで刊行されていた『社会主義研究』(後に『解放』)を復刊し、1924年(大正13年)5月から1925年(大正14年)6月まで刊行された。編集は山崎今朝弥が担当した 。 協会内の無政府主義者の増加によって対立が顕著となり、1925年(大正14年)12月15日に総会が開催され18人の会員の下で解散が決定された。 活動 •『社会主義研究』6月号 - 1924年5月1日に刊行。 •『社会主義研究』11月革新号(第2巻第1号) - 1924年11月1日に発刊。『社会主義研究』は6巻まで新光社(現在の誠文堂新光社)を通じて刊行されていたが、巻数を改めて本号より協会から直接に刊行される(変更の経緯は不詳)。
※この「第一次」の解説は、「日本フェビアン協会」の解説の一部です。
「第一次」を含む「日本フェビアン協会」の記事については、「日本フェビアン協会」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 03:22 UTC 版)
「石川県立小松実業高等学校」の記事における「第一次」の解説
1948年度に、小松商業学校と小松工業学校が合併して小松実業高等学校として設立されたが、1949年度に石川県立小松高等学校に統合され、わずか1年で姿を消す。
※この「第一次」の解説は、「石川県立小松実業高等学校」の解説の一部です。
「第一次」を含む「石川県立小松実業高等学校」の記事については、「石川県立小松実業高等学校」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:02 UTC 版)
1686年、ハルハの左右翼で属民の返還をめぐって起きた内紛を解決するため、清の康熙帝はダライ・ラマ5世の名代ガンデン大僧院座主の立会いのもと、トシェート・ハーンとジャサクト・ハーンを招集して会盟を開いた。ところが、トシェート・ハーンが属民の半分しか返還しなかったため、1687年にジャサクト・ハーンのチェングン(成袞)はオイラトのジュンガル部長ガルダン・ハーンに援助を求めようとジュンガル部へ向かった。これを知ったトシェート・ハーンはチェングンを追跡して殺し、ついでにジュンガルと交戦してガルダンの弟も殺した。 1688年、ガルダンは東モンゴリア(外モンゴル)のハルハ部に侵攻を開始する。ハルハ部の内紛に乗じてガルダンの弟を殺したハルハ左翼部のトシェート・ハーンを討つべく、モンゴル高原に侵攻した。ガルダンは迎え撃つトシェート・ハーンを破り、仏教寺院エルデニ・ジョーと左翼のチェチェン・ハーンを攻撃、その地を略奪した。トシェート・ハーンと弟のジェブツンダンバ・ホトクト1世は南の内モンゴルへ逃れ、清の康熙帝に庇護を求めた。ガルダンは2人の引き渡しを要求したが、清が応じなかったため、遂に清と衝突することとなった。 ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、北京北方300キロのウラーン・ブトン(ウラン・ブトン、ウランプトゥン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する(ウラーン・ブトンの戦い)。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していたが決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。 1693年、クムルのダルハン・ベク、アブド・アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近した。 またハルハ部のトシェート・ハーンらが康熙帝に臣従を誓ったため、モンゴル族すべてが清の支配下に入ることとなり、ハルハ部の故地を奪還するという大義名分を得た康熙帝は1696年、ジュンガル親征を開始し、ガルダンをジョーン・モド(チャオモード、昭莫多)で破った(ジョーン・モドの戦い(英語版))。敗走したガルダンは1697年4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した。ガルダンの息子タンチラはクムルに亡命したがアブド・アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年クムル地区は清の版図となった。
※この「第一次」の解説は、「清・ジュンガル戦争」の解説の一部です。
「第一次」を含む「清・ジュンガル戦争」の記事については、「清・ジュンガル戦争」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 07:30 UTC 版)
現在の杉並区下高井戸5丁目にあたる付近にて東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)の佐藤不二夫が土器採集の目的で小発掘を行う。
※この「第一次」の解説は、「塚山遺跡」の解説の一部です。
「第一次」を含む「塚山遺跡」の記事については、「塚山遺跡」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:43 UTC 版)
詳細は「コソボの戦い」を参照 コソボの戦いは1389年6月28日にコソヴォ・ポリェ(Kosovo Polje)の平原にて始まった。一方はラザル・フレベリャノヴィチ大公率いるキリスト教徒の連合軍であり、セルビア人のほかにボスニア人、マジャル人、サクソン人などがいた。他方はスルターンムラト1世率いるオスマン帝国の軍であり、周辺のアナトリアやルメリアの各地から兵士や義勇兵を集めていた。その正確な数を把握するのは困難であるが、オスマン帝国の軍のほうが数の上で優勢であったとみられている。双方の兵力は併せて10万には満たなかったものと考えられる。セルビア側の軍勢は敗北してラザルは死去したが、ムラト1世はミロシュ・オビリッチ(Miloš Obilić)によって殺害された。この戦いは伝説化されセルビア側の大敗であったと伝えられているが、その正確性については議論が分かれている。セルビアはその後も独立を保ち、最終的に敗北しオスマン帝国の配下となる1455年まで、断続的にコソボを支配した。ノヴォ・ブルドの要塞は豊かな銀の産出のために重要であったが、40日間に及ぶオスマン帝国の包囲の後、1455年6月1日にオスマン帝国の手に落ちた。
※この「第一次」の解説は、「コソボの歴史」の解説の一部です。
「第一次」を含む「コソボの歴史」の記事については、「コソボの歴史」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/29 17:39 UTC 版)
最初の撤収は2月1日に行われた。部隊は駆逐艦20隻で、1日朝、ショートランドを出発した。途中アメリカ軍機の攻撃で巻波が航行不能となり、文月の曳航で引き返した。 同昼、サボ島沖で海軍の九九式艦上爆撃機13機がアメリカ軍の駆逐艦2隻と戦車揚陸艇数隻からなる部隊を攻撃し、駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈した。 同夜、ガダルカナル島に到着し海軍250名、陸軍5,164名を収容、2日午前、ブーゲンビル島エレベンタに帰還した。収容時に巻雲が触雷により航行不能、夕雲の魚雷で処分された。また魚雷艇による攻撃もあったが砲撃により撃退した。参加艦艇は以下の通り。 エスペランス隊警戒隊:文月、白雪、江風、親潮、舞風、巻波 輸送隊第10駆逐隊:風雲、巻雲、夕雲、秋雲(巻波脱落後、巻雲、夕雲は警戒隊へ編入) 第17駆逐隊:浦風、磯風、浜風、谷風 カミンボ隊警戒隊:皐月、長月 輸送隊第16駆逐隊:時津風、雪風 第8駆逐隊:大潮、荒潮 アメリカ軍航空部隊は日本海軍駆逐艦20隻に対しF4F戦闘機17機、SBD17機、TBF7機を発進させたが、1隻(巻波)を航行不能とさせるに留まった。また改造駆逐艦が機雷300個を敷設、この機雷に巻雲が触雷した。また魚雷艇11隻を出勤させたが2隻が砲撃により沈没、1隻が爆撃により沈没、他に座礁で1隻を喪失し日本軍の行動を阻止できなかった。日本軍航空部隊は飛行場攻撃に陸軍が第11戦隊の一式戦「隼」および第45戦隊の九九双軽を、海軍は零戦を収容部隊の上空掩護として出撃させている。
※この「第一次」の解説は、「ケ号作戦」の解説の一部です。
「第一次」を含む「ケ号作戦」の記事については、「ケ号作戦」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)
「ガダルカナル島撤収作戦」の記事における「第一次」の解説
最初の撤収は2月1日に行われた。外南洋部隊増援部隊(指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官)が率いる駆逐艦は20隻で、第二水雷戦隊、第三水雷戦隊、第四水雷戦隊、第十戦隊等から抽出された寄せ集め部隊であった。第一指揮官は橋本少将、第二指揮官は小柳少将であった。だが小柳少将はデング熱を発症したため、第十戦隊先任参謀新谷喜一中佐が司令官代理をつとめた。1日朝、ショートランドを出発した。途中アメリカ軍機の攻撃で先頭にいた巻波(三水戦旗艦)が航行不能となった。巻波は文月に曳航されて引き返した。第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将は巻波から白雪に旗艦を変更し、撤収部隊に追いついた。 同昼、サボ島沖で海軍の九九式艦上爆撃機13機がアメリカ軍の駆逐艦2隻と戦車揚陸艇数隻からなる部隊を攻撃し、駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈した。 同夜、撤収部隊はガダルカナル島に到着し、海軍250名、陸軍5,164名を収容した。第38師団(師団長佐野忠義陸軍中将)、方面軍参謀等が撤退した。乗艦に際し各部隊長は「ルンガに転進してヘンダーソン飛行場に斬り込む」と部下に説明し、携帯兵器(小銃、軽機関銃、拳銃、軍刀)と糧食一日分以外は処分させた。2日午前、ブーゲンビル島エレベンタに帰還した。収容時に巻雲が触雷により航行不能となり、夕雲の魚雷で処分された。また魚雷艇による攻撃もあったが江風や舞風等の砲撃により撃退した。参加艦艇は以下の通り。 エスペランス隊(第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将、旗艦「巻波」)警戒隊:巻波(第三水雷戦隊/撤収部隊旗艦)1番隊:舞風、江風、黒潮 2番隊:文月、白雪 輸送隊(第十戦隊司令官小柳冨次少将、旗艦「風雲」)第10駆逐隊:風雲、巻雲、夕雲、秋雲(巻波脱落後、巻雲、夕雲は警戒隊へ編入) 第17駆逐隊:浦風、磯風、浜風、谷風 カミンボ隊(第16駆逐隊司令荘司喜一郎大佐)警戒隊:皐月、長月 輸送隊第16駆逐隊:時津風、雪風 第8駆逐隊:大潮、荒潮 アメリカ軍航空部隊は日本海軍駆逐艦20隻に対しF4F戦闘機17機、SBD17機、TBF7機を発進させたが、1隻(巻波)を航行不能とさせるに留まった。また改造駆逐艦が機雷300個を敷設、この機雷に巻雲が触雷した。また魚雷艇11隻を出勤させたが2隻が砲撃により沈没、1隻が爆撃により沈没、他に座礁で1隻を喪失し日本軍の行動を阻止できなかった。日本軍航空部隊は飛行場攻撃に陸軍が第11戦隊の一式戦「隼」および第45戦隊の九九双軽を、海軍は零戦を収容部隊の上空掩護として出撃させている。
※この「第一次」の解説は、「ガダルカナル島撤収作戦」の解説の一部です。
「第一次」を含む「ガダルカナル島撤収作戦」の記事については、「ガダルカナル島撤収作戦」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 10:00 UTC 版)
1929年(昭和4年)7月25日の牧野省三の没後の同年12月末、マキノ・プロダクション直営の東京の映画館として、東京府豊多摩郡淀橋町角筈1番地(現在の東京都新宿区新宿3丁目37番地12号あたり)に新たに建設され、開館した。開館番組は、同社御室撮影所が製作した『続影法師 狂燥篇』(監督二川文太郎)、『四谷六法 白柄組』(監督中島宝三)で、同年12月31日に同館を全国公開の一番手として公開した。同2作は同社の正月番組であり、翌1930年(昭和5年)以降、同館は、同社のフラッグシップ館となり、ほとんどの作品を全国公開の一番手として公開した。『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同年当時の同館は、当時の観客定員数は458名、興行系統はマキノ、経営は「マキノ關東社」(マキノキネマ関東配給所、代表阪間好之助)、支配人は高橋秀忠であった。 開館当初の新宿駅近辺は、同じ角筈地区に洋画の独立系ロードショー館として知られる武蔵野館(現在の新宿武蔵野館)、東亜キネマ・帝国キネマ系統の独立館の新生館、西口の柏木地区に当時日活系統の独立館だった成子不二館(のちの成子映画劇場)、と同館を含めて4館しか存在していなかった。同館が新築・落成する1年前の1928年(昭和3年)12月、武蔵野館が新宿通り沿いから現在の場所に移転、新築・落成しており、新宿劇場はこれに対して対抗的な立地を選んだ。『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同年6月現在、東京市内には、浅草公園六区の千代田館(阪間商事経営)、鳥越の鳥越キネマ(島崎大作個人経営)、日本橋の魚河岸キネマ(阪間商事経営)、銀座のシネマ銀座およびグランドキネマ(いずれも大蔵興行部経営)、月島の築島館(鈴木幸八個人経営)、千駄木の芙蓉館(阪間商事経営)、小石川の傳通館(加藤作治個人経営)、荒木町の四谷日活館(日活経営)、麻布の六本木松竹館(大蔵興行部経営)、芝の愛宕キネマ(高橋美家太郎個人経営)と芝浦キネマ(阪間商事経営)、本所の業平座(阪間商事経営)等があった。同年7月には、浅草公園六区の遊楽館がマキノ系統の封切館に加わっている。 しかしながら、省三の没後の新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する。同年4月24日に同館が全国公開の一番手として公開した『京小唄柳さくら』(監督金森萬象)が、同社の最後の製作物となった。 マキノ・プロダクション解散後の同館の経営主体については不明であるが、同年6月26日には帝国キネマ演芸が製作・配給した『愛すべく』(監督鈴木重吉)、同年翌月の7月14日には、不二映画社が製作・配給した『緑の騎手』(監督中村能二)がそれぞれ全国公開の一番手として公開・上映された記録が残っている。 その後、第二次世界大戦が開始され、1942年(昭和17年)には戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給により、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同年当時の同館は、当時の観客定員数は438名、経営は鈴木幸八の個人経営、支配人は藤田一郎、白系の配給系統に入った。鈴木幸八は、大都映画設立時の専務取締役であり、同年当時は、月島の築島館・築島映画劇場、木場に木場東宝映画劇場(かつての木場電気館)を同館のほかに経営していた個人館主である。『映画年鑑 昭和十八年版』によれば、1943年(昭和18年)には、同館の経営が鈴木から田村益喜に変更になっている。戦局が深まった1944年(昭和19年)4月、第二次強制疎開により閉館になり、取り壊された。 1999年(平成11年)、跡地に新宿野和ビルが開業し、現在に至る。同地は新宿武蔵野館を経営する武蔵野興業が所有し、同ビルに賃貸している。
※この「第一次」の解説は、「新宿劇場」の解説の一部です。
「第一次」を含む「新宿劇場」の記事については、「新宿劇場」の概要を参照ください。
第一次(1946年-1949年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:40 UTC 版)
「ダイナマイト打線」の記事における「第一次(1946年-1949年)」の解説
打順守備選手打席打率本塁打打点盗塁備考1 中 後藤次男 右 .300 10 40 29 打率リーグ15位 2 左 金田正泰 左 .302 10 63 21 打率リーグ13位 3 右 別当薫 右 .322 39 126 13 打率リーグ6位 4 三 藤村富美男 右 .332 46 142 12 打率リーグ2位、最高殊勲選手、本塁打王、打点王、ベストナイン(三) 5 捕 土井垣武 右 .328 16 86 4 打率リーグ4位、ベストナイン(捕) 6 二 本堂保次 右 .302 4 40 5 7 一 安居玉一 右 .281 7 59 12 打率リーグ25位 8 投 御園生崇男 右 .239 0 16 0 9 遊 長谷川善三 右 .219 3 30 7 打率リーグ55位 控え選手守備選手打席打率本塁打打点盗塁備考中 呉昌征 左 .223 0 10 14 右 塚本博睦 右 - - - - 1948年に阪急へ移籍 右 富樫淳 右 .217 0 4 2 ※成績は1949年のもの。 ※ダイナマイト打線の名がつけられた1946年のチーム打率はトップの.288。2位のグレートリングには.015の差をつけ、打率十傑には首位打者の金田以下4人が入った。チーム打率は1949年までトップを続け、比較的少なかった本塁打数も別当が入団した1948年に2位、1949年にはトップになった。ただしこの期間、優勝は1947年のみで、1949年には6位に終わる。これは投手力が劣っていたためである。
※この「第一次(1946年-1949年)」の解説は、「ダイナマイト打線」の解説の一部です。
「第一次(1946年-1949年)」を含む「ダイナマイト打線」の記事については、「ダイナマイト打線」の概要を参照ください。
第一次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:18 UTC 版)
幣原は1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)にかけて、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣の外相に在任した。加藤は第一次大戦中に大隈内閣の外相として対華21カ条要求を突き付けたことで知られるが、護憲三派運動を通じて協調外交路線に転換していたという。なお、幣原と加藤は共に岩崎弥太郎の女婿であった。 幣原は就任演説においてヴェルサイユ・ワシントン体制を尊重することを宣言すると共に、列国との協調と中国への内政不干渉を方針とした。まもなく大陸で勃発した第一次奉直戦争では内閣の閣僚の大勢が張作霖支持に傾いたが、幣原は断固として不干渉を貫き、国際的な信用を得た。 1925年(大正14年)には中国が関税自主権の回復をめざして列国に対して国際会議を持ちかけたときは幣原は積極的に協力した。中国側の内紛のため会議は流れたが、幣原は中国側からますますの信頼を得たという。一方、同年には日ソ基本条約を結んで、断絶していたソビエト連邦との国交を樹立し、ポーツマス条約で得ていた日本の権益を回復させることに成功した。 1926年(大正15年)には中国側から列国に対し治外法権の撤廃のための国際会議が提案されたが、再び幣原は積極的に協力した。しかし、中国側の内政上の不安から奏功しなかった。同年に中国によって日本・イギリス船舶が攻撃された万県事件の際にはイギリスは武力で対抗したが日本外交は抗議にとどめている。 しかし、幣原の外交姿勢は軍部や枢密院からは「軟弱」との批判を浴びていた。また、1925年11月の郭松齢事件の際の対応について、奉天総領事であった吉田茂は、「満洲における帝国の特殊の地位に鑑み我勢力圏内においては軍閥の死闘を許さざるの儀を鮮明にするを機宜の処置と思考す」と上申し、幣原外交を批判している。 1926年、蔣介石の国民革命軍が北伐を開始すると、大陸の在留邦人の身辺に危機が及ぶ。1927年の南京事件 (1927年)の際、英米は蔣介石に対し最後通牒を突き付けることを決め、日本にも同調を求めたが、幣原は逆に英米の大使を説得し、これを断念させた。しかし、南京事件に対して幣原が強硬姿勢に出なかったことは国内世論から批判を受けることとなり、英国のオースティン・チェンバレン外相からも「幣原男爵の楽観主義は救いがたい」と批判された。 北伐への対処の最中、加藤内閣の後を受けた第一次若槻禮次郎内閣がでも昭和金融恐慌の処理を巡り枢密院と対立、退陣を余儀なくされた。第一次若槻内閣の後継となった立憲政友会の田中義一内閣は幣原外交を批判し積極外交(田中外交)を展開したが、1928年(昭和3年)の済南事件の処理を巡って中国との関係を悪化させ、張作霖爆殺事件で総辞職することとなる。幣原は貴族院議員としての立場から、田中外交をたびたび批判したという。
※この「第一次」の解説は、「幣原外交」の解説の一部です。
「第一次」を含む「幣原外交」の記事については、「幣原外交」の概要を参照ください。
第一次 (2002年 - 2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 09:07 UTC 版)
「バチカンのユーロ硬貨」の記事における「第一次 (2002年 - 2005年)」の解説
第一次バチカンのユーロ硬貨は、ヨハネ・パウロ2世の肖像画が描かれている。 発行枚数が少ないことから、収集家等の間では高額で取引されるケースが多いのが特徴である。例えば、発行数の最も少なかった2002年のプルーフセット(9000セット)の市場相場は、2007年現在1450ドルにものぼっている。 第一次バチカンのユーロ硬貨・裏面€ 0.01 € 0.02 € 0.05 ヨハネ・パウロ2世の肖像画 € 0.10 € 0.20 € 0.50 ヨハネ・パウロ2世の肖像画 € 1.00 € 2.00 € 2 の縁(へり) € 硬貨の側面部には、"2" と 6つの"*" ヨハネ・パウロ2世の肖像画
※この「第一次 (2002年 - 2005年)」の解説は、「バチカンのユーロ硬貨」の解説の一部です。
「第一次 (2002年 - 2005年)」を含む「バチカンのユーロ硬貨」の記事については、「バチカンのユーロ硬貨」の概要を参照ください。
「第一次」の例文・使い方・用例・文例
- フィンランドは第一次世界大戦中にロシアから独立を勝ち取った
- ヨーロッパの列強は第一次世界大戦に参戦した
- 第一次産業
- ルガーは第一次世界大戦以来よく知られてきた。
- これは第一次産業です。
- 翌年、第一次世界大戦が始まりました。
- 第一次世界大戦は1914年に勃発した。
- 第一次世界大戦が終わった直後、人々はそのように恐ろしく残酷な戦争が再び起こるだろうとは、夢にも思わなかった。
- 第一次志望の大学に入れなかったからといって、自暴自棄になるなよ。
- 第一次世界大戦は 1918 年に終わった.
- 英国は第一次大戦でドイツと戦った.
- (第一次大戦で)西部戦線.
- 日本は第一次世界大戦では連合国側について参戦した.
- それが第一次世界大戦の口火となった.
- その事件は第一次世界対戦の序曲だった.
- ポーランドに対する攻撃は、第一次世界大戦の後で比較的穏やかな期間を終結させた
- 第一次世界大戦の死者を思い出せ
- 第一次対戦中のフランス北西部での戦いで、連合軍が1918年にドイツ軍を破った
- 第一次世界大戦の闘争(1917年)
固有名詞の分類
- 第一次のページへのリンク