第一次とは? わかりやすく解説

第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 23:29 UTC 版)

第一次(だいいちじ、ピン音: Di Yi Ci、Jerry For You)は、台湾男性歌手ジェリー・イェン(言承旭)の1枚目のオリジナルアルバムおよびミュージックビデオ集である。




「第一次」の続きの解説一覧

第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 03:56 UTC 版)

成美団」の記事における「第一次」の解説

1896年明治29年9月8日大阪府大阪市南区道頓堀現在の同府同市中央区道頓堀)の角座現在の松竹芸能 道頓堀角座)で結成された。素人芝居から青柳捨三一座加わって4年目喜多村緑郎銀行勤務辞めて福井茂兵衛一座参加1893年明治26年)に神奈川県横浜市賑町現在の同県同市中区伊勢佐木町)の座で初舞台踏んだ秋月桂太郎川上音二郎一座脱退した高田実1891年明治24年)、川上音二郎一座初舞台踏み高田とともに脱退した小織桂一郎同じく岩尾三郎深沢恒三、木村周平7人設立参加した当日第1回公演演目は『明治四十余年』『讃岐七人斬』であった同年12月には、泉鏡花の『瀧の白糸』を初演している。 同劇団は「家庭小説」に題材求め、『瀧の白糸』のほか、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『己が罪』、佐藤紅緑の『侠艶録』、徳田秋声の『誘惑』等を戯曲化し、あるいは中内蝶二戯曲大尉の娘』等を上演した。同劇団演劇は、壮士芝居大げさな演技排し写実芸」を開拓したとされ、好評のうちに、1898年明治31年)に解散、これをのちに「第一次成美団」と呼んだ当時舞台観た大阪での奉公時代の井上正夫は、それを機に新派志し、「敷島義団」に参加したのだという。解散の理由は、喜多村五代目尾上菊五郎ら「旧劇」の芝居模範としよう考えたことに対して高田反発しためであった

※この「第一次」の解説は、「成美団」の解説の一部です。
「第一次」を含む「成美団」の記事については、「成美団」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 21:03 UTC 版)

湊騒動」の記事における「第一次」の解説

天文13年1544年)、湊定季の養子となった友季が叔父の腋本脩季と組んで檜山家闘った推測されているが詳細不明この結果、友季は早世、定季は次いで舜季二男外孫春季を友季と改名させ養子迎え第8代当主とし自らは出家するものの、これも夭折したため還俗し、堯季と改名したうえで第9代当主となった

※この「第一次」の解説は、「湊騒動」の解説の一部です。
「第一次」を含む「湊騒動」の記事については、「湊騒動」の概要を参照ください。


第一次 (2002 - 2006)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 17:01 UTC 版)

フィンランドのユーロ硬貨」の記事における「第一次 (2002 - 2006)」の解説

第一次フィンランドのユーロ硬貨は、デザイン3種類あり、その1つは、フィンランドの国章描かれている剣をふるうライオンで、ユーロ導入以前通貨であったマルッカ硬貨デザイン引き継ぐフィンランドのユーロ硬貨裏面(2002 - 2006)€ 0.01 € 0.02 € 0.05 ライオンフィンランドの国章) € 0.10 € 0.20 € 0.50 ライオンフィンランドの国章) € 1.00 € 2.00 € 2 の縁(へり) € 2 硬貨側面部には、フィンランド2つ公用語による国名フィンランド語の "SUOMI" とスウェーデン語の "FINLAND" に続き国章ライオン頭部3つ刻印されているフィンランド大地を飛ぶ2羽の白鳥 クラウドベリーの実と花

※この「第一次 (2002 - 2006)」の解説は、「フィンランドのユーロ硬貨」の解説の一部です。
「第一次 (2002 - 2006)」を含む「フィンランドのユーロ硬貨」の記事については、「フィンランドのユーロ硬貨」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 23:03 UTC 版)

落語研究会 (落語会)」の記事における「第一次」の解説

1905年1923年 発起人初代三遊亭圓左 4代目橘家圓喬 3代目柳家小さん 4代目橘家圓蔵 初代三遊亭圓右 2代目三遊亭小圓朝 小さん以外全員三遊派顧問入会審査資格あり)今村次郎 岡鬼太郎 参加者厳格な選抜方式採用した上記8人の全員賛成でない限り落語家新規入会認められなかった。たとえそれが発起人の子であってもである。初代右は息子入れようとしたが反対された。 準幹部2代目柳家つばめ 初代柳家小せん 4代目古今亭志ん生 3代目蝶花楼馬楽 8代目桂文治 2代目三遊亭金馬 3代目三遊亭圓馬 顧問上記以外森暁石谷主事今村信雄 会の趣旨落語研究 後進の養成 寄席改良 旗揚げ1905年3月日本橋区日本橋萬町常盤木倶楽部 会場日本橋萬町常盤木倶楽部 茅場町宮松活動停止1923年 関東大震災よる。 著書落語名作揃』 エピソード当時初代三遊亭圓遊鼻の圓遊、ステテコの圓遊)に代表される珍芸一世を風靡していた。同じ三遊派の圓左は、この状況憂い落語あるべき姿を示すために行動したものである。もともとは三遊派内部路線対立である。そして落語が(単なる娯楽でなく)普遍的芸術となるきっかけ作った第一回には、当の圓遊にも出演依頼した。しかし圓遊は(無料出演条件勘違いして)会を抜いた。圓遊は新聞批判された。謝罪して出演実現したが、会の客にはまった受け入れられなかった(圓遊を批判する会なのだから当然であろう)。圓遊の人気凋落きっかけとなった。 もともと落語家に袴の着用タブーだった。講談浪曲違って落語材料市井坊間の物が多いのだから、落語家は袴などをつけない方がいいという(講談一流芸、落語は(袴を付けられない二流芸とする)考え当時であったからである。この会はもともと珍芸行儀の悪い芸を批判する会であり、参加者率先して落語家の手本を見せようということで全員に袴の着用義務付けられた。これが、落語家が袴を常用する直接のきっかけとなった。 会の趣旨に「寄席改良」を挙げている。珍芸を客が呼べるからといって寄席重用することを批判していること、および既存寄席とは競合関係になることから寄席はこの会に敵対的だったが、この会の成功見て態度変えた。のちには開催ための会場も貸し出した。 初代柳家つばめ出演オファーがあったが「ナニ落語研究する会? 俺の落語研究ずみだよ! いまさら研究でもあるまい」とコメントし参加しなかった。代わりに3代目柳亭燕路3代目春風亭柳朝と共に別の研究会昔噺洗濯会」を創設1906年1月7日から下広小路鈴本亭第一回開き後進の指導努めた

※この「第一次」の解説は、「落語研究会 (落語会)」の解説の一部です。
「第一次」を含む「落語研究会 (落語会)」の記事については、「落語研究会 (落語会)」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 00:04 UTC 版)

ボズネセンスクの戦い」の記事における「第一次」の解説

2022年3月2日ロシア黒海艦隊の第126独立沿岸防衛旅団英語版)の部隊が、南ブーフ川を渡る目指してムィコラーイウからボズネセンスクに向かって北西進軍した。この部隊兵士400人と戦車43からなるものと思われていた。 ボズネセンスク市長かつ司令官一人であるYevgeniy Velychkoは、現地ビジネスマンウクライナ軍協力してロシア軍に備えて道路無数のバリケード設置し、メルトヴォヴォード川(ウクライナ語版)にかかる破壊するとともにロシア軍渡れないように川の岸を掘り下げた発言したロシア軍砲撃して戦闘勃発し複数建物損害を受けたロシア空挺兵南西部投入され戦車部隊南西から進軍し近隣のラコベ(ウクライナ語版)に入った狙撃兵複数家屋拠点作りロシア軍現地ガソリンスタンド基地置いた装甲兵員輸送車ウクライナ領土防衛隊基地砲撃し複数ウクライナ兵士死亡したロシア軍はボズネセンスクに押し入ることはできなかった。ウクライナ軍ロシア軍拠点砲撃しロシア軍迫撃砲設置させなかった。 日暮れ頃に、ロシア戦車都市砲撃したが、反撃遭い後退した同時にウクライナ軍ロシア陣営砲撃して複数ロシア戦車破壊し歩兵アメリカ供給したFGM-148 ジャベリン攻撃し少なくとも戦車3両を破壊した。またロシアMil Mi-24撃墜することに成功した3月3日には、ロシア軍装備車輌放棄して撤退したが、その途上でラコベを砲撃し病院直撃しまた、荒した。ロシア戦車隊南東64キロメートル地点まで撤退した最終的にロシア戦車30両が放棄されそのうち15両をウクライナ軍鹵獲した。現地当局によればロシア軍兵士およそ100人戦死10人が捕虜になったという。ウクライナ軍は、主に領土防衛隊死傷者生じたまた、市民12人が戦闘死亡した

※この「第一次」の解説は、「ボズネセンスクの戦い」の解説の一部です。
「第一次」を含む「ボズネセンスクの戦い」の記事については、「ボズネセンスクの戦い」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:59 UTC 版)

日本フェビアン協会」の記事における「第一次」の解説

1924年(大正13年)4月27日秋田雨雀安部磯雄菊池寛島中雄三を含む9人が発起人となって結成された。 同年2月10日新たな社会主義団体結成提案され翌月団体名称を「日本フェビアン協會」と決定した機関紙堺利彦山川均によって1919年(大正8年)4月から1922年(大正11年)1月まで刊行されていた『社会主義研究』(後に解放』)を復刊し、1924年(大正13年)5月から1925年(大正14年)6月まで刊行された編集山崎今朝弥担当した協会内の無政府主義者増加によって対立顕著となり、1925年(大正14年)12月15日総会開催され18人の会員の下で解散決定された。 活動 •『社会主義研究6月号 - 1924年5月1日刊行。 •『社会主義研究11月革新号(第2巻第1号) - 1924年11月1日発刊。『社会主義研究』は6巻まで新光社(現在の誠文堂新光社)を通じて刊行されていたが、巻数改め本号より協会から直接に刊行される変更経緯不詳)。

※この「第一次」の解説は、「日本フェビアン協会」の解説の一部です。
「第一次」を含む「日本フェビアン協会」の記事については、「日本フェビアン協会」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 03:22 UTC 版)

石川県立小松実業高等学校」の記事における「第一次」の解説

1948年度に、小松商業学校小松工業学校合併して小松実高等学校として設立されたが、1949年度石川県立小松高等学校統合され、わずか1年姿を消す

※この「第一次」の解説は、「石川県立小松実業高等学校」の解説の一部です。
「第一次」を含む「石川県立小松実業高等学校」の記事については、「石川県立小松実業高等学校」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:02 UTC 版)

清・ジュンガル戦争」の記事における「第一次」の解説

1686年ハルハ左右翼で属民の返還をめぐって起きた内紛解決するため、清の康熙帝ダライ・ラマ5世名代ガンデン大僧院座主の立会いのもと、トシェート・ハーンとジャサクト・ハーンを招集し会盟開いた。ところが、トシェート・ハーンが属民の半分しか返還しなかったため、1687年にジャサクト・ハーンのチェングン(成袞)はオイラトジュンガル部ガルダン・ハーン援助求めようジュンガル部向かった。これを知ったトシェート・ハーンはチェングンを追跡して殺しついでにジュンガル交戦してガルダンの弟も殺した1688年ガルダンは東モンゴリア外モンゴル)のハルハ部侵攻開始するハルハ部内紛に乗じてガルダンの弟を殺したハルハ左翼部のトシェート・ハーンを討つべく、モンゴル高原侵攻したガルダン迎え撃つトシェート・ハーンを破り仏教寺院エルデニ・ジョー左翼のチェチェン・ハーンを攻撃、その地を略奪した。トシェート・ハーンと弟のジェブツンダンバ・ホトクト1世南の内モンゴル逃れ、清の康熙帝庇護求めたガルダン2人引き渡し要求したが、清が応じなかったため、遂に清と衝突することとなったガルダン南へ進軍中の1690年9月北京北方300キロのウラーン・ブトン(ウラン・ブトン、ウランプトゥン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する(ウラーン・ブトンの戦い)。ジュンガル軍はロシア製の大砲装備していたが決着がつかず、ガルダン漠北退いた1693年クムルのダルハン・ベク、アブド・アッラーらはジュンガル搾取を嫌い、清に接近した。 またハルハ部のトシェート・ハーンらが康熙帝臣従誓ったため、モンゴル族すべてが清の支配下に入ることとなり、ハルハ部故地奪還するという大義名分を得た康熙帝1696年ジュンガル親征開始しガルダンをジョーン・モド(チャオモード、昭多)で破った(ジョーン・モドの戦い英語版))敗走したガルダン1697年4月4日アルタイ山脈北のコプト病死した。ガルダン息子タンチラはクムル亡命したアブド・アッラーによって捕らえられ清に渡され翌年クムル地区は清の版図となった

※この「第一次」の解説は、「清・ジュンガル戦争」の解説の一部です。
「第一次」を含む「清・ジュンガル戦争」の記事については、「清・ジュンガル戦争」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 07:30 UTC 版)

塚山遺跡」の記事における「第一次」の解説

現在の杉並区下高井戸5丁目にあたる付近に東京府立工芸学校現・東京都工芸高等学校)の佐藤不二夫土器採集目的で発掘を行う。

※この「第一次」の解説は、「塚山遺跡」の解説の一部です。
「第一次」を含む「塚山遺跡」の記事については、「塚山遺跡」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:43 UTC 版)

コソボの歴史」の記事における「第一次」の解説

詳細は「コソボの戦いを参照 コソボの戦い1389年6月28日コソヴォ・ポリェKosovo Polje)の平原にて始まった一方ラザル・フレベリャノヴィチ大公率いキリスト教徒連合軍であり、セルビア人のほかにボスニア人マジャル人サクソン人などがいた。他方はスルターンムラト1世率いオスマン帝国の軍であり、周辺のアナトリアルメリア各地から兵士義勇兵集めていた。その正確な数を把握するのは困難であるが、オスマン帝国の軍のほうが数の上優勢であったとみられている双方兵力併せて10万には満たなかったものと考えられるセルビア側の軍勢敗北してラザル死去したが、ムラト1世ミロシュ・オビリッチMiloš Obilić)によって殺害された。この戦い伝説化されセルビア側の大敗であった伝えられているが、その正確性については議論分かれている。セルビアその後独立保ち最終的に敗北しオスマン帝国配下となる1455年まで、断続的にコソボ支配した。ノヴォ・ブルドの要塞豊かな銀の産出のために重要であったが、40日間に及ぶオスマン帝国包囲の後、1455年6月1日オスマン帝国の手落ちた

※この「第一次」の解説は、「コソボの歴史」の解説の一部です。
「第一次」を含む「コソボの歴史」の記事については、「コソボの歴史」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/29 17:39 UTC 版)

ケ号作戦」の記事における「第一次」の解説

最初の撤収2月1日行われた部隊駆逐艦20隻で、1日朝、ショートランド出発した途中アメリカ軍機の攻撃巻波航行不能となり、文月曳航引き返した。 同昼、サボ島沖で海軍九九式艦上爆撃機13機がアメリカ軍駆逐艦2隻と戦車揚陸艇数隻からなる部隊攻撃し駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈した。 同夜、ガダルカナル島到着し海軍250名、陸軍5,164名を収容2日午前ブーゲンビル島エレベンタに帰還した収容時に巻雲触雷により航行不能夕雲魚雷処分された。また魚雷艇による攻撃もあったが砲撃により撃退した参加艦艇以下の通りエスペランス警戒隊:文月白雪江風親潮舞風巻波 輸送隊第10駆逐隊風雲巻雲夕雲秋雲巻波脱落後、巻雲夕雲警戒隊へ編入) 第17駆逐隊浦風磯風浜風谷風 カミンボ隊警戒隊:皐月長月 輸送隊16駆逐隊時津風雪風 第8駆逐隊大潮荒潮 アメリカ軍航空部隊日本海軍駆逐艦20に対しF4F戦闘機17機、SBD17機、TBF7機を発進させたが、1隻(巻波)を航行不能とさせるに留まった。また改造駆逐艦機雷300個を敷設、この機雷巻雲触雷した。また魚雷艇11隻を出勤させたが2隻が砲撃により沈没、1隻が爆撃により沈没他に座礁で1隻を喪失し日本軍の行動阻止できなかった。日本軍航空部隊飛行場攻撃陸軍第11戦隊の一式戦「隼」および第45戦隊九九双軽を、海軍零戦収容部隊の上掩護として出撃させている。

※この「第一次」の解説は、「ケ号作戦」の解説の一部です。
「第一次」を含む「ケ号作戦」の記事については、「ケ号作戦」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)

ガダルカナル島撤収作戦」の記事における「第一次」の解説

最初の撤収2月1日行われた外南洋部隊増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官)が率い駆逐艦20隻で、第二水雷戦隊第三水雷戦隊第四水雷戦隊第十戦隊等から抽出され寄せ集め部隊であった第一指揮官橋本少将第二指揮官小柳少将であった。だが小柳少将デング熱発症したため、第十戦隊先任参謀新谷喜一中佐司令官代理つとめた1日朝、ショートランド出発した途中アメリカ軍機の攻撃先頭にいた巻波三水戦旗艦)が航行不能となった巻波文月曳航されて引き返した第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将巻波から白雪旗艦変更し撤収部隊追いついた。 同昼、サボ島沖で海軍九九式艦上爆撃機13機がアメリカ軍駆逐艦2隻と戦車揚陸艇数隻からなる部隊攻撃し駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈した。 同夜、撤収部隊ガダルカナル島到着し海軍250名、陸軍5,164名を収容した。第38師団師団長佐野忠義陸軍中将)、方面軍参謀等が撤退した乗艦に際し各部隊長は「ルンガ転進しヘンダーソン飛行場斬り込む」と部下説明し携帯兵器小銃軽機関銃拳銃軍刀)と糧食一日分以外は処分させた。2日午前ブーゲンビル島エレベンタに帰還した収容時に巻雲触雷により航行不能となり、夕雲魚雷処分された。また魚雷艇による攻撃もあったが江風舞風等の砲撃により撃退した参加艦艇以下の通りエスペランス隊(第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将旗艦巻波」)警戒隊:巻波第三水雷戦隊/撤収部隊旗艦1番隊:舞風江風黒潮 2番隊:文月白雪 輸送隊第十戦隊司令官小柳冨次少将旗艦風雲」)第10駆逐隊風雲巻雲夕雲秋雲巻波脱落後、巻雲夕雲警戒隊へ編入) 第17駆逐隊浦風磯風浜風谷風 カミンボ隊(第16駆逐隊司令荘司喜一大佐警戒隊:皐月長月 輸送隊16駆逐隊時津風雪風 第8駆逐隊大潮荒潮 アメリカ軍航空部隊日本海軍駆逐艦20に対しF4F戦闘機17機、SBD17機、TBF7機を発進させたが、1隻(巻波)を航行不能とさせるに留まった。また改造駆逐艦機雷300個を敷設、この機雷巻雲触雷した。また魚雷艇11隻を出勤させたが2隻が砲撃により沈没、1隻が爆撃により沈没他に座礁で1隻を喪失し日本軍の行動阻止できなかった。日本軍航空部隊飛行場攻撃陸軍第11戦隊の一式戦「隼」および第45戦隊九九双軽を、海軍零戦収容部隊の上掩護として出撃させている。

※この「第一次」の解説は、「ガダルカナル島撤収作戦」の解説の一部です。
「第一次」を含む「ガダルカナル島撤収作戦」の記事については、「ガダルカナル島撤収作戦」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 10:00 UTC 版)

新宿劇場」の記事における「第一次」の解説

1929年昭和4年7月25日牧野省三没後同年12月末、マキノ・プロダクション直営東京映画館として東京府豊多摩郡淀橋町角筈1番地(現在の東京都新宿区新宿3丁目37番地12号あたり)に新たに建設され開館した開館番組は、同社御室撮影所製作した続影法師 狂燥篇』(監督二川文太郎)、『四谷六法 白柄組』(監督中島宝三)で、同年12月31日同館全国公開一番手として公開した。同2作は同社正月番組であり、翌1930年昭和5年以降同館は、同社フラッグシップ館となり、ほとんどの作品全国公開一番手として公開した。『日本映画事業総覧 昭和年版によれば同年当時同館は、当時観客定員数は458名、興行系統マキノ経営は「マキノ關東社」(マキノキネマ関東配給所、代表阪間好之助)、支配人高橋秀であった開館当初新宿駅近辺は、同じ角筈地区洋画独立系ロードショー館として知られる武蔵野館現在の新宿武蔵野館)、東亜キネマ帝国キネマ系統独立館新生館、西口柏木地区当時日活系統独立館だった成子不二館(のちの成子映画劇場)、と同館含めて4館しか存在していなかった。同館新築落成する1年前1928年昭和3年12月武蔵野館新宿通り沿いから現在の所に移転新築落成しており、新宿劇場はこれに対して対抗的な立地選んだ。『日本映画事業総覧 昭和年版によれば同年6月現在、東京市内には、浅草公園六区千代田館(阪間商事経営)、鳥越鳥越キネマ島崎大個人経営)、日本橋魚河岸キネマ(阪間商事経営)、銀座シネマ銀座およびグランドキネマ(いずれも大蔵興行経営)、月島築島館(鈴木幸八個人経営)、千駄木芙蓉館(阪間商事経営)、小石川の傳通館(加藤作治個人経営)、荒木町四谷日活館(日活経営)、麻布六本木松竹館(大蔵興行経営)、愛宕キネマ高橋美家太郎個人経営)と芝浦キネマ(阪間商事経営)、本所業平座(阪間商事経営)等があった。同年7月には、浅草公園六区遊楽館がマキノ系統封切館加わっている。 しかしながら、省三の没後新体制下のマキノ・プロダクション財政悪化し1931年昭和6年4月以降、製作が停止する同年4月24日同館全国公開一番手として公開した『京小唄柳さくら』(監督金森萬象)が、同社最後の作物となったマキノ・プロダクション解散後同館経営主体については不明であるが、同年6月26日には帝国キネマ演芸製作・配給した『愛すべく』(監督鈴木重吉)、同年翌月7月14日には、不二映画社製作・配給した『緑の騎手』(監督中村能二)がそれぞれ全国公開一番手として公開・上映された記録残っているその後第二次世界大戦開始され1942年昭和17年)には戦時統制敷かれ日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給により、すべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版によれば同年当時同館は、当時観客定員数は438名、経営鈴木幸八の個人経営支配人藤田一郎白系配給系統入った鈴木幸八は、大都映画設立時専務取締役であり、同年当時は月島築島館・築島映画劇場木場木場東宝映画劇場かつての木場電気館)を同館のほかに経営していた個人館主である。『映画年鑑 昭和十八年版』によれば1943年昭和18年)には、同館経営鈴木から田村益喜に変更になっている戦局深まった1944年昭和19年4月第二次強制疎開により閉館になり、取り壊された。 1999年平成11年)、跡地新宿野和ビル開業し現在に至る同地新宿武蔵野館経営する武蔵野興業が所有し、同ビル賃貸している。

※この「第一次」の解説は、「新宿劇場」の解説の一部です。
「第一次」を含む「新宿劇場」の記事については、「新宿劇場」の概要を参照ください。


第一次(1946年-1949年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:40 UTC 版)

ダイナマイト打線」の記事における「第一次(1946年-1949年)」の解説

打順守備選手打席打率本塁打打点盗塁備考1 中 後藤次男.300 10 40 29 打率リーグ15位 2 左 金田正泰 左 .302 10 63 21 打率リーグ13位 3 右 別当薫 右 .322 39 126 13 打率リーグ6位 4 三 藤富美男 右 .332 46 142 12 打率リーグ2位、最高殊勲選手本塁打王打点王ベストナイン(三) 5 捕 土井垣武 右 .328 16 86 4 打率リーグ4位ベストナイン(捕) 6 二 本堂保次 右 .302 4 40 5 7 一 安居玉一 右 .281 7 59 12 打率リーグ25位 8 投 御園生崇男 右 .239 0 16 0 9 遊 長谷川善三 右 .219 3 30 7 打率リーグ55控え選手守備選手打席打率本塁打打点盗塁備考呉昌征 左 .223 0 10 14塚本博睦 右 - - - - 1948年阪急移籍 右 富淳 右 .217 0 4 2 ※成績1949年のもの。 ※ダイナマイト打線の名がつけられ1946年チーム打率トップの.288。2位グレートリングには.015の差をつけ、打率十傑には首位打者金田以下4人が入ったチーム打率1949年までトップ続け比較少なかった本塁打数も別当入団した1948年2位1949年にはトップになった。ただしこの期間、優勝1947年のみで、1949年には6位に終わる。これは投手力劣っていたためである

※この「第一次(1946年-1949年)」の解説は、「ダイナマイト打線」の解説の一部です。
「第一次(1946年-1949年)」を含む「ダイナマイト打線」の記事については、「ダイナマイト打線」の概要を参照ください。


第一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:18 UTC 版)

幣原外交」の記事における「第一次」の解説

幣原1924年大正13年)から1927年昭和2年にかけて第二次護憲運動成立した加藤高明内閣外相在任した加藤第一次大戦中に大隈内閣外相として対華21カ条要求突き付けたことで知られるが、護憲三派運動を通じて協調外交路線転換していたという。なお、幣原加藤は共に岩崎弥太郎女婿であった幣原就任演説においてヴェルサイユ・ワシントン体制尊重することを宣言すると共に列国との協調中国への内政不干渉方針とした。まもなく大陸勃発した第一次奉直戦争では内閣閣僚大勢張作霖支持傾いたが、幣原断固として不干渉貫き国際的な信用得た1925年大正14年)には中国関税自主権の回復めざして列国に対して国際会議持ちかけたときは幣原積極的に協力した中国側内紛のため会議流れたが、幣原中国側からますますの信頼得たという。一方同年には日ソ基本条約結んで断絶していたソビエト連邦との国交樹立しポーツマス条約得ていた日本の権益回復させることに成功した1926年大正15年)には中国側ら列に対し治外法権撤廃のための国際会議提案されたが、再び幣原積極的に協力した。しかし、中国側内政上の安から奏功しなかった。同年中国によって日本イギリス船舶攻撃され万県事件際にイギリス武力対抗したが日外交抗議とどめている。 しかし、幣原外交姿勢軍部枢密院からは「軟弱」との批判浴びていた。また、1925年11月郭松齢事件の際の対応について奉天総領事であった吉田茂は、「満洲における帝国特殊の地位に鑑み我勢圏内においては軍閥死闘許さざるの儀を鮮明にする機宜処置思考す」と上申し幣原外交批判している。 1926年蔣介石国民革命軍北伐開始すると、大陸在留邦人身辺に危機が及ぶ1927年南京事件 (1927年)の際、英米蔣介石に対し最後通牒突き付けることを決め日本にも同調求めたが、幣原逆に英米大使説得し、これを断念させた。しかし、南京事件に対して幣原強硬姿勢に出なかったことは国内世論から批判を受けることとなり、英国オースティン・チェンバレン外相からも「幣原男爵楽観主義救いがたい」と批判された。 北伐への対処最中加藤内閣の後を受けた第一次若槻禮次郎内閣がでも昭和金融恐慌の処理を巡り枢密院対立退陣余儀なくされた。第一次若槻内閣後継となった立憲政友会田中義一内閣幣原外交批判し積極外交田中外交)を展開したが、1928年昭和3年)の済南事件の処理を巡って中国との関係を悪化させ、張作霖爆殺事件総辞職することとなる。幣原貴族院議員として立場から、田中外交をたびたび批判したという。

※この「第一次」の解説は、「幣原外交」の解説の一部です。
「第一次」を含む「幣原外交」の記事については、「幣原外交」の概要を参照ください。


第一次 (2002年 - 2005年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 09:07 UTC 版)

バチカンのユーロ硬貨」の記事における「第一次 (2002年 - 2005年)」の解説

第一次バチカンのユーロ硬貨は、ヨハネ・パウロ2世肖像画描かれている。 発行枚数少なことから収集家等の間では高額で取引されるケースが多いのが特徴である。例えば、発行数の最も少なかった2002年プルーフセット9000セット)の市場相場は、2007年現在1450ドルにものぼっている。 第一次バチカンのユーロ硬貨裏面€ 0.01 € 0.02 € 0.05 ヨハネ・パウロ2世肖像画 € 0.10 € 0.20 € 0.50 ヨハネ・パウロ2世肖像画 € 1.00 € 2.00 € 2 の縁(へり) € 硬貨側面部には、"2" と 6つの"*" ヨハネ・パウロ2世肖像画

※この「第一次 (2002年 - 2005年)」の解説は、「バチカンのユーロ硬貨」の解説の一部です。
「第一次 (2002年 - 2005年)」を含む「バチカンのユーロ硬貨」の記事については、「バチカンのユーロ硬貨」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第一次」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「第一次」の例文・使い方・用例・文例




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第一次」の関連用語

第一次のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第一次のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第一次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの成美団 (改訂履歴)、湊騒動 (改訂履歴)、フィンランドのユーロ硬貨 (改訂履歴)、落語研究会 (落語会) (改訂履歴)、ボズネセンスクの戦い (改訂履歴)、日本フェビアン協会 (改訂履歴)、石川県立小松実業高等学校 (改訂履歴)、清・ジュンガル戦争 (改訂履歴)、塚山遺跡 (改訂履歴)、コソボの歴史 (改訂履歴)、ケ号作戦 (改訂履歴)、ガダルカナル島撤収作戦 (改訂履歴)、新宿劇場 (改訂履歴)、ダイナマイト打線 (改訂履歴)、幣原外交 (改訂履歴)、バチカンのユーロ硬貨 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2023 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2023 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2023 GRAS Group, Inc.RSS