徳田秋声とは? わかりやすく解説

とくだ‐しゅうせい〔‐シウセイ〕【徳田秋声】

読み方:とくだしゅうせい

18721943小説家金沢生まれ本名、末雄。尾崎紅葉門に入る自然主義文学代表的作家として活躍大正中期以後心境小説秀作残した。作「黴」「あらくれ」「仮装人物」「縮図」など。


徳田秋声

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 23:28 UTC 版)

徳田 秋声(とくだ しゅうせい、旧字体德田 秋聲1872年2月1日明治4年12月23日) - 1943年昭和18年)11月18日)は、日本小説家。本名は末雄(すえお)。日本の近代文学を代表する作家の一人である。帝国芸術院会員。


  1. ^ ウィキペディア「明治4年」を参照。但し、一般的に秋声の生年月日は1871年12月23日に西暦換算されている。
  2. ^ 野口冨士男「德田秋聲の近親者」(『德田秋聲の文學』1979年、筑摩書房)によれば、4番目の妻。八木書店版全集別巻の年譜でも野口説を踏襲。
  3. ^ 榎本隆司「秋聲ノートII―西洋文学の受容―」(早稲田大学教育学部「学術研究」28号、1979年)。
  4. ^ 徳田秋声『光を追うて』二十一、1938年。
  5. ^ 徳田秋聲年譜(「徳田秋聲全集」別巻、2006年、八木書店)。
  6. ^ 東京都史跡、《徳田秋声旧宅》として現存する。
  7. ^ 易風社刊。収録作17篇のうち、『罪へ』(ゴーリキー原作)と『老音楽家』(原作:グリルパルツァー作『ウィーンの辻音楽師』)の2篇は翻案。
  8. ^ 左久良書房刊。収録作13篇のうち、『盲人』はコロレンコ作『盲音楽師』の翻案。
  9. ^ 和田謹吾「「足迹」の位置 : 秋声像の一側面」『北海道大学人文科学論集』第2巻第1号、北海道大学教養部人文科学論集編集委員会、1964年6月、16頁、ISSN 03856038NAID 120000946995  において、当時の文壇の評価の推移が考察されている。
  10. ^ 「過去から現在にさかのぼつていく「倒叙」の手法は、ともすれば平板におちいりやすい日常の身辺的な素材を取扱つても不思議な立体感を構成している点において、独特の効果を発揮している」(野口冨士男『德田秋聲傳』1965年、筑摩書房)。
  11. ^ 松本徹『徳田秋聲』1988年、笠間書院。
  12. ^ 「かねてから『新世帯』を「アラ・ジョタイ」「シン・ジョタイ」と読む人があり、『足迹』も「ソクセキ」「アシアト」と両方に読まれているが、徳田一穂の『四篇の校閲』(雪華社版『秋聲全集』第四巻)によれば、生前の秋聲自身二様に読んでいたので、「読み方などには、余り拘らなくても、いいと思ふ」とのことである」(野口冨士男『德田秋聲傳』)。
  13. ^ 松本徹は、『足迹』が「時間の倒叙」を本格的に用いた最初の作品であり、「独特で大胆な、省略と要約、そしてそれらと捩りあはせた描写、また、時間の錯綜」によって「秋聲の文学が、紛れやうのない独自性を露はにしたのは、『足迹』においてであらう。(中略)際だつた独自性となると、やはりこの長編を第一に挙げなければならない」としている(松本徹『徳田秋聲』1988年、笠間書院)。
  14. ^ 野口冨士男『德田秋聲傳』。
  15. ^ 和田謹吾、前掲論文。
  16. ^ 吉田精一『自然主義の研究』下、1958年、東京堂。
  17. ^ 生田長江「德田秋聲の小説」(「新潮」1911年11月)。
  18. ^ 野口冨士男は、「『爛』が一個の独立した中篇小説としてすぐれた技巧の冴えと高い完成度を示していることは否み得ない。円熟という意味では、むしろ『足迹』や『黴』よりも上位に置かれるべき名作」と評している(野口冨士男『德田秋聲傳』1965年、筑摩書房)。
  19. ^ こうした評価の例としては、野口冨士男・和田芳恵「対談・秋聲を追って」(『德田秋聲ノート 現実密着の深度』中央大学出版部、1972年)。
  20. ^ 川端康成『日本の文学』9 「徳田秋声(一)」解説、1967年、中央公論社。
  21. ^ 伊狩章「自然主義文学の方法 : 徳田秋声を中心に」『弘前大学人文社会』第16号、弘前大学人文社会学会、1959年1月、68-86頁、NAID 120001076050 
  22. ^ 吉田精一『自然主義の研究』下。
  23. ^ 処女峰「四月文壇の作と評論」(『文章世界』1913年5月、博文館)。
  24. ^ 「時事新報」に1920年/大正9年10月から1921年/大正10年3月まで173回掲載。八木書店「徳田秋聲全集」第13巻解題によれば、「第一回掲載のときの表題のルビは『どこまで』。第二回以降はすべて『いづこまで』」とあり、「いづこまで」を正しい読みとしている。
  25. ^ これらの通俗長編小説群は、大勢の家族(秋声は4男3女のほかに、妻の係累や親戚の書生など大所帯を抱えていた)を養い生活の糧を得るためのやむを得ぬ創作として、従来は論評の対象にすらされなかったが、そうした見方は近年訂正されつつある(「徳田秋聲全集座談会」(「徳田秋聲全集」別巻、月報43)、2006年、八木書店)。
  26. ^ 広津和郎「德田秋聲論」(「八雲」第3輯、1944年、小山書店)。
  27. ^ 『呪詛』(「新家庭」、大正10年1月~大正11年4月)、『萌出るもの』(「婦人之友」、大正10年6月~12月)、『前生涯』(「福岡日日新聞」、大正10年10月~大正11年5月)、『灰燼』(「中外商業新報」、大正10年11月~大正11年7月)の計4本。「婦人之友」の連載を終えると同時に『暁の明星』(「家庭界」、大正11年2月~4月)にとりかかる精力的な仕事ぶりであった(「徳田秋聲全集」別巻、徳田秋聲年譜)。
  28. ^ 通俗小説からの映画化作品は、日活映画『誘惑』(監督・小口忠、1917年6月10日封切)、松竹キネマ映画『断崖』(監督・牛原虚彦、1921年9月1日封切)、松竹キネマ映画『二つの道』(監督・池田義臣、1923年2月11日封切)。舞台化作品は、『誘惑』(1917年)、『路傍の花』(脚色・真山青果、1919年)、『断崖』(1921年)、『二つの道』(脚色・真山青果、1923年)、『蘇生』(1925年)など。秋声の通俗長編小説の映画化・舞台化についての論考は、紅野謙介「『大阪毎日新聞』と映画と徳田秋聲」(「徳田秋聲全集」第37巻、巻末解説、2004年、八木書店)が詳しい。
  29. ^ 前掲座談会(「徳田秋聲全集」別巻、月報43)。
  30. ^ 広津和郎、前掲論文。
  31. ^ 松本徹によれば、大正15年3月から昭和3年4月までの間に「順子もの」と呼ばれる短編を29編書いている(松本徹『徳田秋聲』、1988年、笠間書院)。
  32. ^ 榎本隆司「徳田秋声」(吉田精一編『近代作家の情炎史』、1971年、至文堂)。
  33. ^ 『朝日新聞の記事にみる恋愛と結婚』朝日新聞社、1997, p416
  34. ^ 咽頭癌が再発して重体『東京日日新聞』昭和5年5月13日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p331 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  35. ^ 小林政子との出会いを書いた私小説『一つの好み』(「中央公論」1934年4月)による。
  36. ^ 川端康成「文芸時評」(「新潮」1933年4月)。
  37. ^ 『黴』三十七章で、紅葉臨終の様子を書いたことを指す。秋声自身、「私は曾て『黴』で臨終のときの紅葉先生についてちよつとその人間に触れたことが因になり、鏡花春葉の二人からボオイコツトされたものだが」(徳田秋声「亡鏡花君を語る」(「改造」1939年10月))と述懐している。
  38. ^ 1935年10月「日本評論」と改題された。
  39. ^ 1940年(昭和15年)発表の『西の旅』『浴泉記』を増補。
  40. ^ 著名作家の作品など大量に発禁『東京日日新聞』昭和16年8月28日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p551 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  41. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)221頁
  42. ^ 訃報(「文藝春秋」〈社中日記〉2002年5月)。
  43. ^ 前掲〈社中日記〉(「文藝春秋」2002年5月)
  44. ^ 夏目漱石「文壇のこのごろ」(「大阪朝日新聞」1915年10月11日)。
  45. ^ 小林秀雄「長篇小説評」(「東京朝日新聞」1939年1月19日 - 21日)。
  46. ^ 野口冨士男「晩年の三つの作品」(雪華社「秋聲全集」月報3、1962年6月)。
  47. ^ 川端康成『日本の文学』9 「徳田秋声(一)」解説。
  48. ^ 徳田秋声「雅号の由来」(「時事新報」1913年10月3日)。
  49. ^ 小川武敏は、「代作問題は(中略)現在の我々の常識とかけ離れた行為だが、代作を容認する態度は硯友社派の文学意識ともからむ近代初期文学上の問題」であると指摘している(小川武敏「日本文学研究資料新集16『徳田秋声と岩野泡鳴 自然主義の再検討』」巻末解説、1992年、有精堂)。
  50. ^ 小林修の報告による(前掲座談会、「徳田秋聲全集」別巻、月報43、16 - 20頁)。
  51. ^ 広津和郎「德田さんの印象」(「プロメテ」第4号《德田秋聲特輯》、1947年、大地書房)。
  52. ^ 文芸懇話会については、(榎本隆司「文芸懇話会 -その成立事情と問題点-」『国文学研究』第25号、早稲田大学国文学会、1962年3月、227-235頁、ISSN 0389-8636NAID 120005480373 )を初めとする榎本隆司の緒論文が詳しい。
  53. ^ 「海」1977年3月。
  54. ^ 但し、里見がこれより以前に書いた短篇小説『二人の作家』(「文芸」1950年4月)では、紅葉が甘いものを食べ過ぎたせいで胃癌で死んだ云々の話を秋声は鏡花宅への行きの車中で「某綜合雑誌社の社長」に語っており、鏡花にそう言ったせいで撲られたとは書かれていない。
    また、木佐木勝の『木佐木日記』1926年10月27日条では、山本実彦に話を聞いた正宗白鳥からの伝聞として書かれている。会合は泉鏡花宅ではなく改造社の山本の部屋で行われており、秋声が何を言ったせいで撲られたかも不明。火鉢を飛び越える話も存在しない。
  55. ^ この出来事の信憑性については、北村薫の小説『火鉢は飛び越えられたのか』(「オール讀物2017年5月)で考察されている。
  56. ^ 前掲、里見「泉鏡花」。
  57. ^ 八木書店「徳田秋聲全集」第1巻解題によれば、現在判明している、活字になった最も早いもの。八木書店版全集は、第1巻解題、別巻年譜ともに「啣」に「しよく」のルビを振っているが、各種漢和辞典によれば、「啣」は「銜」の異体字で字音はともに「ガン」(慣用音)「カン」(漢音)であり、くわえる、口や歯で物をはさむ意である。野口冨士男 『德田秋聲傳』(筑摩書房、1965年)には、「吉田精一の『自然主義の研究』上巻をみると、このとき秋聲がもちいた筆名の「啣」の字には特に「しよく」とルビが振られているのだが、私の手許にある幸田露伴の『掌中漢和新辞典』には「カン」と「ガン」という漢音と呉音が出ており、小柳司気太の『新修漢和大字典』には「ガン」という字音しか載せられていない。」とある。秋声は翻訳『士官の娘』(1902年/明治35年、足立北鷗との共訳)の署名にも「啣月」の号を用いており、その予告文には「銜月」とある。また、八木書店版全集第14巻所収の『無駄道』(初出1923年/大正12年「報知新聞」。底本1926年/大正15年刊『恋愛放浪』所収本)の三十五には「あんたのノートに啣月(かんげつ)とかいてあつたんで」とルビが振られている。


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