いぶせ‐ますじ〔ゐぶせ‐〕【井伏鱒二】
井伏鱒二
井伏鱒二
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井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1993年〈平成5年〉7月10日)は、日本の小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身[1]。筆名は釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民、名誉都民。
注釈
- ^ 懇意にされていた男性の教授からあるとき性的に言い寄られたが、同性には興味のない井伏がこれを断ると、この教授は手のひらを返すように井伏に辛くあたるようになったという。
- ^ 後の作品、『本日休診』のモデルとなった医院
- ^ 『本日休診』作中、大先生の跡取り息子が戦死するエピソードのモチーフとなった出来事。
- ^ やがて島に左様ならして帰るとき、林さんを見送る人や私を見送る人が十人足らず岸壁に来て、その人たちは船が出発の汽笛を鳴らすと「左様なら左様なら」と手を振つた。林さんも頻りに手を振つてゐたが、いきなり船室に駆けこんで、「人生は左様ならだけね」と云ふと同時に泣き伏した。そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなつて来た。何とも嫌だと思つた。しかし後になつて私は于武陵「勧酒」といふ漢詩を訳す際、「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」と和訳した。無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである(『因島半歳記』)
- ^ なお、太宰治は1939年9月に東京三鷹に転居していたが、戦時中には甲府の石原家に疎開しており、甲府空襲で被災している。
出典
- ^ 公益財団法人神奈川文学振興会 編『没後30年井伏鱒二展 アチラコチラデブンガクカタル』公益財団法人神奈川文学振興会、2023年9月30日、2頁。
- ^ 松本武夫『井伏鱒二年譜考』(初版)新典社、1999年12月1日、11頁。ISBN 4-7879-2708-6。
- ^ 『新潮日本文学アルバム46 井伏鱒二』新潮社、1994年、12頁。
- ^ 井伏鱒二『作家の自伝94 井伏鱒二』日本図書センター、1999年4月、144頁。ISBN 4820595393。
- ^ 松本武夫『井伏鱒二年譜考』(初版)新典社、1999年12月1日、22-24頁。ISBN 4-7879-2708-6。
- ^ “路傍の詩”. 2016年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月12日閲覧。
- ^ “2 トラブルで休学 - 広島 - 地域”. 朝日新聞デジタル (2016年11月21日). 2017年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月12日閲覧。
- ^ a b 続・井伏鱒二と「因島」余録【2】昭和六年 土井家弔問から | せとうちタイムズ
- ^ 前田貞昭、「井伏鱒二と大正末年の因島・御調郡三庄町 : 井伏文学における因島検証の前提として」『兵庫教育大学近代文学雑志』 19巻 p.3-36 2008年, NCID AN10308757。
- ^ 松本武夫『井伏鱒二 年譜考』新典社、1999年12月、28頁。ISBN 4-7879-2708-6。
- ^ 『朝日新聞』2010年10月27日37面
- ^ 早稲田と文学・井伏鱒二年表
- ^ 井伏鱒二著作年表(大正一二年~昭和五五年)」『近代文学試論』 広島大学近代文学研究会、1983年6月、p.141
- ^ 「第十一章 悲しき突撃――再び東京へ」(大谷 2002, pp. 243–258)
- ^ 『昭和作家のクロノポトス 井伏鱒二』双文社出版、1996年6月、95頁。ISBN 4-88164-381-9。
- ^ さだまさし『絶対温度』
- ^ 蔵原惟人「新日本文学会第七回大会を終わって」『蔵原惟人評論集』第5巻p87。初出は『新日本文学』1955年3月号
- ^ 井伏鱒二『黒い雨』新潮社、2016年6月5日、1頁。ISBN 9784101034065。
- ^ 日本経済新聞社 編『私の履歴書』 文化人 4、日本経済新聞社、1983年11月2日、192頁。ISBN 4532030749。
- ^ 県立神奈川近代文学館「井伏鱒二略年譜」『没後30年井伏鱒二展 アチラコチラデブンガクカタル』、神奈川文学振興会、2023年9月30日。
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)39頁
- ^ 岩井寛 編『作家の臨終・墓碑事典』東京堂出版、1997年6月、39頁。ISBN 4490104634。
- ^ 『生誕百年記念特別展 井伏鱒二と『荻窪風土記』の世界』杉並区立郷土博物館、1998年2月、奥付頁。
- ^ a b c 「作家・井伏鱒二 人となりに迫る 「酒仙」の風格・川釣り好き・太宰への思い…」『朝日新聞』、2023年10月20日、朝刊 神奈川版、18面。
- ^ 公益財団法人神奈川文学振興会 編『没後30年井伏鱒二展 アチラコチラデブンガクカタル』公益財団法人神奈川文学振興会、2023年9月30日、奥付頁。
- ^ “太宰治「人間失格」鍵握る井伏鱒二の手紙を発見【全文掲載】”. NHK横浜放送局. 2023年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月24日閲覧。
- ^ 井伏鱒二『荻窪風土記』新潮社、1982年1月、129頁。
- ^ 春原千秋『将棋を愛した文豪たち』「瀧井孝作」「井伏鱒二」の章(1994年、メディカル・カルチュア社)
- ^ “福山市の名誉市民”. 福山市. 2022年7月12日閲覧。
- ^ “広島県名誉県民”. 広島県. 2022年7月12日閲覧。
- ^ a b 「井伏鱒二文学研究会、会員を募集/広島県」『朝日新聞』、2015年2月6日、朝刊、備後・2地方、27面。
- ^ a b 「井伏鱒二、素顔の一コマ 研究会会誌3号に掲載 家族と古里で過ごす姿も/広島県」『朝日新聞』、2015年12月15日、朝刊、備後1地方、25面。
- ^ 『「黒い雨」と「重松日記」』(風媒社、1993年)、同『知られざる井伏鱒二』(蒼洋社、1996年)、同「井伏鱒二の『黒い雨』は盗作だったのか」(『週刊金曜日』1995年12月15日号)などを参照。
- ^ 「「黒い雨」盗作説への反論」(『東京新聞』1997年8月6日・7日)
- ^ 「『黒い雨』をめぐって 相馬正一氏への反論」(『東京新聞』1997年9月2日)
- ^ 栗原裕一郎『<盗作>の文学史』(新曜社、2008年)参照。
- ^ 英語対訳も出版(田畑書店、2023年)
- ^ 『井伏鱒二全集索引』がある。東郷克美編、双文社出版、2003年
- ^ 『井伏鱒二という姿勢』ゆまに書房、2012年。寺横武夫と共編『井伏鱒二 昭和作家のクロノトポス』双文社出版、1996年がある。
- ^ “日本文学翻訳作品データベース”. 国際交流基金. 2023年10月10日閲覧。
- ^ “Index Translationum”. www.unesco.org. 2023年10月22日閲覧。
- ^ “井伏鱒二の世界〜“荻窪風土記”から〜”. NHK. 2021年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月8日閲覧。
- ^ 川島雄三の碑
- ^ a b c 「太宰の結婚誓約書 井伏鱒二に「破婚なら、私を棄てて」」『朝日新聞』、2014年4月19日、朝刊、34面。
- ^ 公益財団法人神奈川文学振興会 編『没後30年井伏鱒二展 アチラコチラデブンガクカタル』公益財団法人神奈川文学振興会、2023年9月30日、42頁。
井伏鱒二
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中学時代上級生に稚児にされかけたという。成長後も早稲田大学で教授の片上伸からセクハラを受け、休学に追い込まれた挙句、片上からの圧力により復学の道を絶たれ、退学を余儀なくされた。さらに後には叱責を受けた際心身症を起こしたりしている。太宰治の師だが彼の遺書には「井伏さんは悪人です」と書かれた。また、太宰が自殺直前に書いた「人間失格」の前半部分及び彼の初期の小説「無間奈落」から太宰治も男性や女(彼の実家の下男や下女)からの性的被害者であった可能性が指摘されている。太宰自身も友人に対し、下女に童貞を奪われたことを語っている。
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