小宮豊隆
小宮豊隆
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小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年(明治17年)3月7日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。
- ^ a b 小宮豊隆みやこ町歴史民俗博物館、平成22年1月1日
- ^ 『夏目漱石とジャパノロジー伝説』倉田保雄、近代文芸社、2007、p94
- ^ 「小宮豊隆年譜」『逢里雨句集』
- ^ 安藤広太郎小論 : 人間形成の軌跡を辿る山本 悠三 東京家政大学教員養成教育推進室年報 巻 2 2016-03-01
- ^ 『現代随想全集〈第28巻〉小宮豊隆,岸田日出刀,柳宗悦集』創元社 (1955年)p120
- ^ 官報. 1924年01月16日、p190
- ^ 犬塚武夫『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『漱石の株式帖―彼の家計とその時代』片桐甚佐著。「自分史研究会」代表マエダヨシヒロblog 2014.6.2付「わが祖父は夏目漱石の投資顧問だった」
- ^ a b 教師夏目金之助の研究(10) : 小宮豊隆との師弟関係森下 恭光 明星大学教育学研究紀要,(21),13-22 (2006-03-20)
- ^ 川副国基『近代日本文学論』p.245。他方、平岡敏夫は、『夏目漱石』(岩波文庫 下巻 pp.327 - 8)の解説で次のように指摘する。「この漱石伝は漱石没後二十余年にして小宮豊隆が吐露した自己批判・自責の書でもあって、右のような大患以後の漱石を、当時とは逆に高く評価しようと試みたのが本書ということになる。「漱石は死を生の中に織り込み、生を死の中に織り込み、こうして相互に反撥し矛盾する二つのものを、一つのものに連結させたいと希(こいねが)った。「則天去私」は、その事を可能にする唯一の道であった」(七〇 「『硝子戸の中』」)という漱石像がそこに描き出されてくるが、唐木順三も含めての戦前のこの則天去私的漱石像の反措定を目ざしたのが、江藤淳『夏目漱石』(昭三一)をはじめとする戦後の漱石研究であった。「この病中で経験した天宝(ブリス)によって、漱石の思想が一大転換を来すという小宮豊隆氏などの解釈は、当り前の人間並に自分に訪れた仮死状態に驚喜し、病気に一種の幸福を感じている作家の姿を、門下生特有の感傷で歪めたものにすぎない」 といった江藤氏の批判とともに、実は若き日の小宮豊隆ら門下生自体が大患後の漱石を 「老」 「翁」 などと批判していた事実を記憶しておくのも、サークルをくり返しがちな研究史の上でたいせつなことだろう。」
- ^ 『朝日新聞』1953年2月10日(東京本社発行)朝刊、7頁。
- ^ 福岡正太「小泉文夫の日本伝統音楽研究 : 民族音楽学研究の出発点として」『国立民族学博物館研究報告』第28巻第2号、国立民族学博物館、2003年、257-295頁、doi:10.15021/00004024、ISSN 0385180X、NAID 110004413230。
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