ほうせい‐だいがく〔ハフセイ‐〕【法政大学】
法政大学
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法政大学(ほうせいだいがく、英語: Hosei University)は、東京都千代田区富士見二丁目17番1号に本部を置く日本の私立大学。1880年創立、1920年大学設置。大学の略称は法大(ほうだい)。
注釈
- ^ 同年には大学令準拠の経済教育機関として早稲田大学政治経済学部、中央大学経済学部、同志社大学法学部経済学科も設立された。
- ^ アメリカ人のル・ジャンドル(リセンドル)と同時受章。→日本の勲章の歴史
- ^ 法政大学創立三十周年記念式典では、堀田正忠(後の検察官)・橋本胖三郎(司法省法学校第1期生)・大原鎌三郎・元田直の4名も、東京法学社の創立者として顕彰されている。なお、堀田と橋本は、治罪法(刑事訴訟法)の起草がボアソナードに委ねられた1877年(明治10年)以前に、[[司法省 (日本)|]]において治罪法の編纂にあたっていた同僚である(司法省刑事局編「旧刑法、治罪法及旧刑事訴訟法編纂沿革(一)」『法曹会雑誌』8巻8号、116頁)。
- ^ 他の3名は、山崎直胤(内務省初代県治局長)、平山成信(後の宮中顧問官、枢密顧問官)、栗塚省吾(後の大審院判事)。
- ^ 初代会長は辻新次。名誉会員には伏見宮貞愛親王、徳川昭武(第15代将軍徳川慶喜の弟、水戸藩第11代藩主)、徳川篤敬(水戸徳川家第12代当主)、鍋島直大(佐賀藩第11代藩主)、蜂須賀茂韶(徳島藩第14代藩主)、太田資美(掛川藩第7代藩主)、大木喬任(元老院議長、枢密院議長)、山田顕義(司法大臣)、ボアソナード等が名を連ねている(「仏学会・東京仏学校関係文書をひも解く」『法政』2004年12月)。
- ^ 「法政」の名称について野上豊一郎はのちに「梅先生は政治科をつくったことをたいへん自慢していたから、法律の法と政治の政を一緒にしたのでは」と語っている(『法政大学の100年 <1880-1980>』 42頁)。
- ^ 9月26日の校友会臨時大会で富井政章を次期総理に推薦することに決定したが、富井は病身を理由に就任を拒んだ(『法政大学百年史』 188頁)。
- ^ a b 「法政の球場──実は試合のための借球場は一時一ッ橋内にあつたが大正八九年頃となつて球場はまだ麦畑に包まれてゐた中野の新井薬師裏に移つた、移つたといふより戻つて来たといふ方が適切であるかも知れない、なぜなら、このグラウンドは大正四年に野球部の創立と共に誕生してゐたからである」(『東京朝日新聞』 1936年9月9日)
- ^ 「法政は新しいグラウンドを中野の新井薬師近くに作ったものの、工事はかどらずとあって、神田橋にほど近い中央気象台の敷地予定地を一時借りて仮グラウンドとしたのであった。神田橋グラウンドは法政の中野球場が完成するまでのあくまで仮のグラウンドであった。」(大和球士 『真説 日本野球史《大正篇》』 ベースボール・マガジン社、1977年、100頁)
- ^ はじめは吉野作造や北沢新次郎を講師に招き、やがて大杉栄や堺利彦らとも接触し、日本初のメーデーおよび日本社会主義同盟にも参加した(『法政大学八十年史』 63頁)。
- ^ 「本校生徒の五分の三以上を占めてゐる、経済部から出た提議であるが文科からは芙蓉大学と云ふ新名を提議したことがある」(『東京朝日新聞』 1924年4月8日付朝刊7面)
- ^ 大正期には黒のソフトハットと背広を学部生の制服として採用したことがあった(『法政大学八十年史』 724頁)。
- ^ 松室は18年間にわたって学長として法政大学の発展に尽くしたが、長期独裁の弊害もあったと指摘されている(大村八郎 『帝都大学評判記』 三友堂書店、1934年、192-193頁および196-201頁)。
- ^ 法政騒動の背景について野上弥生子は「一高、東大、それから漱石門下の云々といったようなものは出ていくべきだ」という一種の法政民族主義があったのだろうと語っている(『法政大学百年史』 235頁)。
- ^ 美濃部亮吉など4名が検挙され、また戦後に法大総長となる大内兵衛(東大教授)と有沢広巳(東大助教授)もこのとき検挙されたが(『法政大学百年史』248-249頁)、法大関係者や大内・有沢らいわゆる学者グループは、全員無罪となった(『法政大学百年史』521頁)。
- ^ 戦前派デモクラットとしての大内兵衛は民主的な学生運動を否定しなかったが、学園の秩序を著しく乱す者に対しては処分やむなしとの考えを抱いていた(『法政大学と戦後五〇年』 106-109頁)。
- ^ 中央労働学園大学の学長兼理事長だった村山重忠が初代学部長に就任(『法政大学百年史』 581-584頁)。
- ^ 富士見食堂は営利本位で「高くて、まずくて、少ない」と学生から不評を買っていたため(『法政大学と戦後五〇年』 176-184頁)
- ^ 有沢総長も「人間の尊厳、民主主義、大学の自由と自治、独立」を訴え、教職員・学生2500名が抗議デモに向かった(『法政大学と戦後五〇年』 194頁)。
- ^ 法学部自治会を中心とする学生たちも別集会で清水幾太郎・吉本隆明両氏の講演を聞いた後、国会正門前に向かった(『法政大学と戦後五〇年』 194頁)。
- ^ 当初は工学部移転用地とすることも検討されたが実現しなかった(『法政大学と戦後五〇年』 553-555頁)。
- ^ それまで大原社研の収蔵資料は53年館など3か所に分散していた(『法政大学と戦後五〇年』 987-988頁)。
- ^ 文学部は移転反対、法学部と工学部は日和見、経営学部は賛否両論拮抗して身動きがとれなかった(『法政大学と戦後五〇年』 253頁、549-550頁)。
- ^ 1988年度に1年生全員の多摩移転完了(『法政大学と戦後五〇年』 557頁)
- ^ 解体工事は1992年と93年の2度にわたって反対派によって阻止された(『法政大学と戦後五〇年』 1399-1400頁)。
- ^ この小川町校舎に移転した東京法学校について、『明治法律学校二十年史』(1901年)は、「自ら校舎を購入し、而も煉瓦造にして、地は学術上の形勝たる神田小川町に在り、気勢軒昂、将に明治法律学校を撲滅せすんは止まさらんとす」と評している(同書 29頁)。
- ^ 「九段上」は行政地名ではなく通称であり、所在地は富士見町6丁目16番地であった。現在の衆議院九段議員宿舎跡地の東隣にあたる(間に小道を挟む)。
- ^ 内田百閒によれば、その頃の九段上校舎は学生から「豚小屋」と呼ばれていたという(『深夜の初会 内田百閒集成21』 ちくま文庫、27頁)。
- ^ 大学令第7条により、「大学に必要なる設備またはこれに要する資金」を有することが、大学昇格の条件のひとつとされていた(『法政大学八十年史』257頁)。
- ^ 市ケ谷再開発反対を訴える学生団体の妨害行動によって解体工事は2度にわたって阻止された(『法政大学と戦後五〇年』 323-326頁)。
- ^ のちに大教室を分割して応急の小教室を設けた(『法政大学と戦後五〇年』 675頁)。
- ^ 3月24日に法学部(法律科・政経科)に改組されたが、4月1日に再び法律科は法律学科に改称、政経科は政治学科に改組された(法政大学百年史年表 55頁 『法政大学百年史』所収)。
- ^ a b c 2年次に選択。
- ^ 1年次から各科目群の科目を履修できる。このほか、法律学科、国際政治学科との共通科目などがある
- ^ 2年次に選択するが、他コースの科目も履修できる。
- ^ ヤナセ、ユニー、カルビーの各社長(いずれも本学経営学部卒業)によるパネルディスカッションを行った「ホームカミングデー」と「マイケル・ポーター(ハーバード大学経営大学院教授)特別講演会」を市ケ谷キャンパスにて開催し、その様子は2009年12月26日の日本経済新聞朝刊にも掲載された。経営学部創設50周年記念事業 も参照。
- ^ 文部科学省の課程認定により、2016年度入学生からは高校地歴は取得不可。その後、2018年度入学生からは中学社会・高校公民も取得不可に変更。
- ^ 2014年7月まで副駅名が「法政大学前」だった。
- ^ 神奈川中央交通の「ツインライナー」は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスへの乗り入れ実績がある。
出典
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- ^ 法政大学第三者評価委員会
- ^ 法政大学グリーンユニバーシティを目指して
- ^ ロケ地ガイド-ちゅらさん・ロケ地ガイド-こころ より。
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法政大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 10:39 UTC 版)
「革命的共産主義者同盟全国委員会」の記事における「法政大学」の解説
「法政大学文化連盟」も参照 2006年3月14日、法政大学事務局による立て看板撤去に抗議していた中核派活動家など29人(内、法政大学の学生など大学関係者は5人)が建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員された。中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」として強く反発した。 2006年3月25日には、29人全員が釈放され、そのうち法政大学の学生の5人は法政大学から停学や退学処分が下された。その後、処分を受けた学生5人や法政大学の無関係者も含む逮捕者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」が結成され、現在でも、学内外で抗議活動が行われている。この中核派の動きに対し、法政大学は警備員を常駐させて対処している。2006年(平成18年)と2007年(平成19年)には、法政大学は停学者に対して無期停学や退学など追加処分を出した。今回の事件では、(大学無関係者含めて)逮捕者は延べ126名。うち、起訴されたのは34名となった。 2007年4月27日、法政大学の退学処分に対して中核派などがデモ活動を行ってる中、中核派全学連活動家の学生ら2名が法政大学職員への暴行容疑で警察に逮捕された。しかし、デモに参加した外山恒一によると、この逮捕は「転び公妨」の変形で、職員が事前の打ち合わせ通り首を絞められたと騒ぎ立て、警察が逮捕の口実にしたという。 2009年4月24日、東京地裁による「情宣活動禁止等仮処分命令」及び、法政大学側よる学生処分などに対して、中核派は抗議集会とデモ活動で対抗した。そして、中核派全学連活動家の学生ら6人が公務執行妨害などの容疑で逮捕(集会中に5人、デモ後に警察署前で行われた抗議行動で1人)された。 2012年以降は、中核派は法政大学校内での活動は行っておらず、市ヶ谷キャンパス門前や飯田橋駅周辺で街頭宣伝を行っている。 2015年6月、法政大学から無期停学処分を受けた法政大学の男子学生が、法政大学に対し、「大学の処分は懲戒権の乱用だ!」と訴えていた裁判では判決は大学側の処分を全面支持し、原告・学生側の請求を棄却した。この判決が言い渡されると傍聴席にいた支援者たちは、「死ね!あほ!ぼけ!」「説明ないんかい!ぼけたれ!」「あほんだら!くそぼけ!説明しろ!」「ばかにしとるんやろ!」、と怒りの罵声を浴びせ、法廷内は騒然となった。この法政大学の男子学生は日頃から中核派系活動家らと共に行動し、大学内での講演会の妨害活動や教職員に対する侮辱的な発言を繰り返していたとして、法政大学から厳しい処分を受けていた。 中核派にとってこの「法大闘争」は、「学生の最大の団結破壊=処分に対し、『一人の仲間も見捨てない』のスローガンで、さらに強固な団結をうち立ててきた。学生と大学当局の非和解性を明らかにしてきた。人間的共同性を奪還する闘いとして、積極的攻勢的に闘われてきた」 ものであり、「法大闘争の地平の上に」活動することが度々宣言されている。 2019年4月の統一地方選挙では、中核派の活動家、洞口朋子(当時、30歳)が杉並区議会議員に初当選した。洞口が中核派の活動家になろうと思ったきっかけは、2008年に法政大学で学生が一斉に逮捕される事件をみて、当時19歳だった洞口は学生運動がしたくなったという。その後、洞口は法政大学に入学したが、1年半で無期停学処分になり、その後は中核派の活動家として活動していた。
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