じんみんせんせん‐じけん【人民戦線事件】
人民戦線事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 05:46 UTC 版)
人民戦線事件(じんみんせんせんじけん)とは、1937年(昭和12年)12月15日および翌1938年(昭和13年)2月1日、コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して日本で人民戦線の結成を企てたとして、労農派系の政治家や運動家、大学教授・学者グループが一斉検挙された事件である[1]。この事件を機に、日本共産党に限定されていた検挙が、コミンテルンと無関係な[1]非共産党のマルキスト・社会主義者一般に及ぶようになっていった。治安維持法第1条の目的遂行罪が拡大解釈されて適用された典型例として知られる[2]
注釈
- ^ 中澤『治安維持法』163頁では、検挙者数446名と書かれている。
- ^ 小田中「人民戦線事件」294頁では、これらの結社が禁止されたのは、第1次人民戦線事件と同日の12月15日になっている。
- ^ 第1次人民戦線事件、第2次人民戦線事件の検挙者数がそれぞれ、446名、38名とあるのは、中澤『治安維持法』163頁が出典である。一方、別の資料(安田「人民戦線事件篇について」3頁、小田中「人民戦線事件」294頁)によれば、第1次、第2次合わせての逮捕者数は484名である。安田「人民戦線事件篇について」には内訳の人数は書かれていない。また、小田中「人民戦線事件」では第2次事件の検挙者数は書かれていない。
- ^ このパンフレットは、1938年3月に池田が日本工業倶楽部において財界人向けに行った講演「最近に於ける思想犯罪の傾向」[14]をもとに加筆して作成された。同パンフレットは奥平康弘編『昭和思想統制史資料』第4巻(生活社)の中に収録されている。
- ^ 例えば、小田中「人民戦線事件」、荻野『思想検事』、中澤『治安維持法』などに見られる。
- ^ 教授グループのうち、有沢と阿部の2人だけは1審で有罪と判決されたが、それ以外の被告人は1審で無罪判決が出た。また、その2名も1944年(昭和19年)9月2日[要出典]の二審で無罪が確定した
出典
- ^ a b 湯浅 2016.
- ^ a b c 中澤 2012, p. 164.
- ^ 中澤 2012, pp. 161–162.
- ^ a b c d e f g 中澤 2012, p. 162.
- ^ 安田 1980, p. 3.
- ^ 小田中 1970, p. 275.
- ^ a b c 荻野 2000, p. 98.
- ^ a b c 小田中 1970, p. 294.
- ^ a b c d 中澤 2012, p. 163.
- ^ 大原社会問題研究所 編『日本労働年鑑 第20輯』栗田書店、1940年、268-270頁。
- ^ a b 小田中 1970, p. 293.
- ^ a b c 小田中 1970, p. 302.
- ^ a b 荻野 2000, p. 103.
- ^ a b 荻野 2000, p. 102.
- ^ a b 荻野 2000, p. 100.
- ^ a b c d 中澤 2012, p. 170.
- ^ 中澤 2012, pp. 170–171.
- ^ 荻野 2000, pp. 109–110.
- ^ 小田中 1970, pp. 295–300.
- 1 人民戦線事件とは
- 2 人民戦線事件の概要
- 3 無罪判決と余波
- 4 参考文献
- 5 関連図書
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