森戸事件とは? わかりやすく解説

森戸事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 03:48 UTC 版)

森戸辰男(1956年)

森戸事件(もりとじけん)は、1920年大正9年)に起きた経済学者森戸辰男の筆禍事件である。

事件の詳細

東京帝国大学助教授・森戸辰男はこの年、経済学部機関誌『経済学研究』にロシア無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが上杉慎吉を中心とする興国同志会から「学術の研究に非ず、純然たる無政府主義の宣伝」[1]と攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、文部省に従った当時の東大総長山川健次郎によって休職処分となる。『経済学研究』の編集を担当していた大内兵衛(当時の助教授)も掲載の責任を問われて起訴される。

10月2日、大審院(当時の大審院検事局検事総長は平沼騏一郎で1月11日に興国同志会の訪問を受けている)は上告を棄却して有罪が確定。「社会理想としての無政府主義」と「実行方針としての無政府主義」は峻別すべき[2]と主張した森戸は結果的に禁錮刑だったのに対して大内は「森戸論文は不穏当と思った」「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」[3]と釈明して罰金刑のみとなった。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。

同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した[要出典]

東大の学内からは、言論の自由の否定に対して学生の間から反発が起こり、森戸擁護の学生大会が連日行われた。吉野作造率いる新人会も森戸擁護の論陣を張った。この事件によって大学生らエリート知識人が反体制派に追いやられるようになり、後々には昭和研究会などにおいて革新的な国政運営が行われるようになる[4]

なお、岸信介は森戸を排斥した興国同志会に属していたが、この事件をきっかけに興国同志会をともに脱退した鹿子木員信大川周明[5]の支援を受けて「日の会」を結成している。北一輝に傾倒し、革新官僚としての満州国での活躍や戦後の社会党からの出馬検討など、岸はマルクス的社会主義にある種の共感を持っていたとされる[誰によって?]

出典

  1. ^ 立花隆 2005, p. 429.
  2. ^ 森戸辰男 1972, p. 350.
  3. ^ 森戸辰男 1972, pp. 119–120.
  4. ^ 江崎, pp. 124–126.
  5. ^ 『失われた大学の自由七百の学生奮起す』東京日日新聞1920年1月17日

参考文献


森戸事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:00 UTC 版)

森戸辰男」の記事における「森戸事件」の解説

詳細は「森戸事件」を参照 世は労働者ストライキ急増小作争議広がり学生運動台頭森戸当時知識人たちと同様、近代社会弊害除去するための探求に進む。社会科学あるいは社会問題生涯研究課題に選ぶ。森戸大学残り師事した高野岩三郎経済統計研究室でしばらく助手をした後1916年経済学科助教授となる。当時経済学科法科大学附属品のような存在であったため、他の研究者たちと独立尽力経済学・社会科学研究は、法律・政治国家学とは本質的に異なるうえ、国家主義的思想の強い法科大学とは袂を分かちたい気持もあった。結果的にこの考えが後の森戸事件で上杉慎吉学内右翼団体から攻撃を受けることとなる。1917年ロシア革命発生1919年経済学科経済学部として法学部から独立1920年新機運を象徴するものとして経済学部森戸と同じ助教授だった大内兵衛編集による機関誌経済学研究』を刊行森戸人類究極理想無政府共産制にあるとの考えから、この創刊号ロシア無政府主義者クロポトキンの「パン奪取」という論文翻訳しクロポトキン社会思想研究」として発表した。このことが上杉慎吉中心とする学内右翼団体興国同志会から排撃受けて雑誌回収処分のち発売禁止となった。さらに新聞紙法42条の朝憲紊乱罪により森戸大内起訴された。これをきっかけ東大新人会森戸らを擁護、さらに各大学の学生団体森戸大内擁護し新聞・雑誌大きく取り上げ言論界大論争となった裁判では今村力三郎主任弁護士に原嘉道花井卓蔵鵜沢総明特別弁護人三宅雪嶺吉野作造佐々木惣一安部磯雄錚々たるメンバー揃い大審院まで行った上告棄却され有罪確定森戸大内両名失職したこの間森戸巣鴨監獄独房で3ヶ月過ごした。しかし前述弁護団始め有島武郎長谷川如是閑後藤新平多く文化人森戸らを擁護し有島とは終生変わらぬ交友持った有島生前クロポトキン会った数少ない日本人一人である。一方森戸論文は、論理学術的価値もない、と同じ経済学部教授渡辺銕蔵などは批判した出獄後高野所長務めていた大阪大原社会問題研究所迎えられる森戸大内兵衛櫛田民蔵細川嘉六などの若手研究者が大原研究所移ったことにより、研究所陣容は「東大経済学部亡命者植民地」の観を呈した1921年東大助教授時代続き二度目ドイツ留学。ここでマルクス主義文献掻き集めるなどし、1年10ヶ月ヴァイマル体制下のドイツで学ぶ。帰国後、敗戦まで研究所よりどころ社会科学研究労働者教育従事した。また大阪労働者学校神戸労働者学校経営委員講師として携わり中心的運営を担う。この時、西尾末広親しくなる大原研究所財政的に行き詰まり1937年東京移転し縮小した

※この「森戸事件」の解説は、「森戸辰男」の解説の一部です。
「森戸事件」を含む「森戸辰男」の記事については、「森戸辰男」の概要を参照ください。

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