森戸事件
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森戸事件(もりとじけん)は、1920年(大正9年)に起きた経済学者・森戸辰男の筆禍事件である。
事件の詳細
東京帝国大学助教授・森戸辰男はこの年、経済学部機関誌『経済学研究』にロシアの無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが上杉慎吉を中心とする興国同志会から「学術の研究に非ず、純然たる無政府主義の宣伝」[1]と攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、文部省に従った当時の東大総長山川健次郎によって休職処分となる。『経済学研究』の編集を担当していた大内兵衛(当時の助教授)も掲載の責任を問われて起訴される。
10月2日、大審院(当時の大審院検事局検事総長は平沼騏一郎で1月11日に興国同志会の訪問を受けている)は上告を棄却して有罪が確定。「社会理想としての無政府主義」と「実行方針としての無政府主義」は峻別すべき[2]と主張した森戸は結果的に禁錮刑だったのに対して大内は「森戸論文は不穏当と思った」「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」[3]と釈明して罰金刑のみとなった。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。
同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した[要出典]。
東大の学内からは、言論の自由の否定に対して学生の間から反発が起こり、森戸擁護の学生大会が連日行われた。吉野作造率いる新人会も森戸擁護の論陣を張った。この事件によって大学生らエリート知識人が反体制派に追いやられるようになり、後々には昭和研究会などにおいて革新的な国政運営が行われるようになる[4]。
なお、岸信介は森戸を排斥した興国同志会に属していたが、この事件をきっかけに興国同志会をともに脱退した鹿子木員信と大川周明[5]の支援を受けて「日の会」を結成している。北一輝に傾倒し、革新官僚としての満州国での活躍や戦後の社会党からの出馬検討など、岸はマルクス的社会主義にある種の共感を持っていたとされる[誰によって?]。
出典
参考文献
森戸事件
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詳細は「森戸事件」を参照 世は労働者のストライキが急増、小作争議が広がり、学生運動も台頭。森戸も当時の知識人たちと同様、近代社会の弊害を除去するための探求に進む。社会科学あるいは社会問題を生涯の研究課題に選ぶ。森戸は大学に残り師事した高野岩三郎の経済統計研究室でしばらく助手をした後1916年、経済学科助教授となる。当時の経済学科は法科大学の附属品のような存在であったため、他の研究者たちと独立に尽力。経済学・社会科学の研究は、法律・政治の国家学とは本質的に異なるうえ、国家主義的思想の強い法科大学とは袂を分かちたい気持もあった。結果的にこの考えが後の森戸事件で上杉慎吉ら学内の右翼団体から攻撃を受けることとなる。1917年、ロシア革命が発生。1919年、経済学科が経済学部として法学部から独立。1920年、新機運を象徴するものとして経済学部が森戸と同じ助教授だった大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』を刊行。森戸は人類の究極の理想が無政府共産制にあるとの考えから、この創刊号にロシアの無政府主義者・クロポトキンの「パンと奪取」という論文を翻訳し「クロポトキンの社会思想の研究」として発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体・興国同志会から排撃を受けて雑誌は回収処分のち発売禁止となった。さらに新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸と大内は起訴された。これをきっかけに東大新人会が森戸らを擁護、さらに各大学の学生団体も森戸と大内を擁護し新聞・雑誌も大きく取り上げ、言論界は大論争となった。裁判では今村力三郎を主任弁護士に原嘉道、花井卓蔵、鵜沢総明、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄ら錚々たるメンバーが揃い、大審院まで行ったが上告は棄却され有罪が確定。森戸と大内両名は失職した。この間森戸は巣鴨監獄の独房で3ヶ月を過ごした。しかし前述の弁護団を始め有島武郎や長谷川如是閑、後藤新平ら多くの文化人が森戸らを擁護し、有島とは終生変わらぬ交友を持った。有島は生前のクロポトキンに会った数少ない日本人の一人である。一方、森戸の論文は、論理も学術的価値もない、と同じ経済学部の教授・渡辺銕蔵などは批判した。 出獄後、高野が所長を務めていた大阪の大原社会問題研究所に迎えられる。森戸や大内兵衛、櫛田民蔵、細川嘉六などの若手研究者が大原研究所に移ったことにより、研究所の陣容は「東大経済学部の亡命者の植民地」の観を呈した。1921年、東大助教授時代に続き二度目のドイツ留学。ここでマルクス主義の文献を掻き集めるなどし、1年10ヶ月ヴァイマル体制下のドイツで学ぶ。帰国後、敗戦まで同研究所をよりどころに社会科学の研究や労働者教育に従事した。また大阪労働者学校、神戸労働者学校の経営委員・講師として携わり中心的運営を担う。この時、西尾末広と親しくなる。大原研究所は財政的に行き詰まり1937年東京に移転し縮小した。
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