北参画後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/26 17:57 UTC 版)
北の『日本改造法案大綱』を行動要綱、「日本帝国の改造とアジア民族の解放」を中心スローガンとし、「革命日本の建設、日本国家の合理的組織、民族解放運動、道義的対外政策の遂行、改造運動の連絡」などの綱領を掲げる。 1920年9月には、機関誌『雄叫』を発行。皇太子裕仁親王の渡欧阻止や[要出典]宮中某重大事件で活動し、安田善次郎・原敬らの暗殺事件にも思想的な影響を与えたといわれている[要出典]。 また同人による学生運動の指導により、日の会(東京帝国大学)・猶興学会(京都帝国大学)・東光会(第五高等学校)・光の会(慶應義塾大学)・烽の会(札幌農学校)・潮の会(早稲田大学)・魂の会(拓殖大学)などの団体が生まれた[要出典]。このうち日の会は森戸事件を契機として上杉慎吉の指導を受けていた興国同志会が、猶存社同人の鹿子木員信と大川周明の支援を受けて分裂、岸信介らが結成したものである[要出典]。 天皇観の相違やヨッフェ来日問題をめぐって[要出典]、北と大川との対立が激しくなり、1923年3月に猶存社は解散した。その後、1925年に大川は、満川、安岡正篤らと行地社を結成する。一方、北の影響を受けた清水行之助は大化会や大行社を結成し、岩田富美夫は大化会の会長として活動した[要出典]。
※この「北参画後」の解説は、「猶存社」の解説の一部です。
「北参画後」を含む「猶存社」の記事については、「猶存社」の概要を参照ください。
- 北参画後のページへのリンク