学生運動
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学生運動(がくせいうんどう)は、学生が行う社会運動を指す名称。主に学生による社会的・政治的な運動を指すが、広義では文化運動も含める。 本項では文化運動も含めた広義の学生運動について解説する。
- ^ “3-9 普選運動 | 史料にみる日本の近代”. www.ndl.go.jp. 2023年1月16日閲覧。
- ^ “野党共闘の鍵をにぎる日本共産党 その歴史を振り返る”. ハフポスト (2016年2月3日). 2023年1月16日閲覧。
- ^ 日本放送協会. “あさま山荘事件50年 ~事件は今に何を伝えるのか~|NHK”. NHK NEWS WEB. 2023年1月16日閲覧。
- ^ “トークライブを編み出した元左翼の波瀾曲折”. 東洋経済オンライン (2017年8月17日). 2023年1月16日閲覧。
- ^ a b c d e https://www.ohtabooks.com/at-plus/entry/12674/
- ^ “怪しいクルマ「天ぷらナンバー」の正体は? 日本代表料理が「偽物」表現として用いられる背景とは(くるまのニュース)”. Yahoo!ニュース. 2023年1月16日閲覧。
- ^ a b c d e https://president.jp/articles/-/40982
- ^ a b c d https://fujinkoron.jp/articles/-/7485
学生運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:23 UTC 版)
学生運動のさきがけとなったのはセルビアのオトポール! (セルビア語で「抵抗!」の意) で、この団体は1998年にベオグラード大学で設立され、コソヴォ紛争中はミロシェヴィッチに対する抗議運動を展開した。そのメンバーの多くは警察に身柄を拘束され、あるいは取り締まりを受けたが、2000年9月の大統領選挙では「ゴトブジェ」運動を展開し国民のミロシェヴィッチに対する反発をあおり、ミロシェヴィッチを破る結果にいたった。 オトポール! のメンバーはグルジアのクマラやウクライナのポラ、ベラルーシのジュブル(ベラルーシ語でヨーロッパバイソンの意)、アルバニアのムジャフト!(アルバニア語で「もうたくさんだ!」の意)に対して刺激を与え、また指導を行っている。これらの団体は、自身の行動がジーン・シャープの著書で提唱、解説されている非暴力抵抗となるよう計画を十分に練り、細心の注意を払っている。学生団体によって組織された大規模な抗議活動者はセルビア、グルジア、ウクライナにおける革命の成功には欠かすことのできない要素であり、この群集での色彩や独裁指導者に反発するさいの非難交じりのユーモアは顕著なものであった。
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学生運動
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「日本社会主義青年同盟」の記事における「学生運動」の解説
1960年社青同結成と同時に、学生班協議会(学協)が置かれた。翌年東大教養学部自治会執行部(委員長江田五月)を獲得するほどの勢いを示したが、まもなく学協を拠点に解放派が発生し主流となった。九州では、三池闘争の影響もあり今日の社青同につながる部分が60年代前半九州学連を指導したが、しだいに衰退した。 全国学協は1966年東京地本九三事件を契機に事実上崩壊した。同年暮れ、東京地本再建とともに東京地本学生班協議会(都学協)が再建された。都学協は東京学生会館(東学館)闘争などを指導ししだいに影響力を拡大し、大衆組織として反安保改憲阻止学生会議を持ち、機関誌『組織者』も刊行された。60年代末の学生運動の風潮を受けて、当時の社青同学生班は白地に黒枠の赤字で反独占と書いたヘルメットをかぶった。 社会主義協会分裂の影響が波及し、まもなく都学協も事実上分裂した。分裂の争点は、全共闘参加の可否などで、第一見解(向坂派)系学生組織は東大や中央大などで全共闘に参加し、初期の成田空港反対運動にも参加した。成田闘争参加は、1971年9月の第二次強制代執行まで続いた。第一見解系学生組織はまた、拠点の東洋大学をめぐって解放派と激しい武装衝突を繰り返した。東洋大学などでの解放派との衝突は1972年頃まで続いた。 第三見解(太田派)系の学生組織は、武蔵大学、武蔵工業大学、佐賀大学などで自治会執行部を担当し一定の影響力を持ったが、社青同10回大会後社青同からも太田派からも離れ人民の力派に流れ、まもなく人民の力主流派からも離れ70年代から80年代にかけてレーニン主義学生同盟(L学同)を名乗ったが、80年代後半に消滅した。 社青同10回大会後、社青同全体の躍進に支えられ、社青同学生運動も前進した。北海道から九州まで主要大学に学生班が作られ、全国学協も1973年に再建され、『組織者』は全国学協機関誌となった。この時期、東洋大学、中央大学、神戸大学、淑徳大学などが拠点校で、これらの班には数十名の同盟員が在籍していた。都学協には20を超える学生班が結集し、70年代中期には学生運動で民青、中核、革マルに次ぐ動員力を持つに至った。社会主義協会系の各種運動では、現在もこの時期に学生運動から育った活動家の姿をみることが多い。 学生運動全般の停滞は社青同にもおよび、80年代以降社青同学生運動は急速に衰退していった。学生層の変化にみあった方針を出せなかったこと、日本共産党や新左翼は学生運動から生まれたり学生運動を主要な基盤としたため組織全体で学生対策を図ったのに対して、社青同には学生運動は労働運動の添え物という意識が学生運動出身者も含めて強くあり、学生班の衰退に組織として危機感がなかったことなどが理由としてあげられよう。このため、90年代後半以降は学協としての活動は行われなくなった。現在も少数の学生同盟員は存在するが、学内での学生運動や社青同における学習活動ではなく、政党の選挙運動に埋没する傾向があり、存在感を発揮する運動は作れていない。
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学生運動
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高校三年の17歳時に『批踢踢(PTT。台湾最大のネット掲示板)』やブログを閲覧しているうちに徐々に社会問題に関心を持ちはじめた。この時期に台北市士林区で市政府が強行した再開発により士林王家の居住地が撤去された事件(zh:文林苑都市更新爭議)での反対運動に参加している。卒業後の進路を思案していた時期に興味を抱いたこの問題をきっかけとして、社会に不公正や不義が蔓延ることを感じ取った品妤は社会運動参加への熱意が増大していった。ただし、この時点ではまだ個人的な活動に過ぎなかった。 大学進学後の2012年ごろから多くの学生運動に参加してきた。アップルデイリー(蘋果日報)で知られる壹伝媒(中国語版)の買収事案が進行しメディア独占反対運動が起きた。運動中は傍観者の一人として沿道から声援を送るにすぎなかったが、運動終結後に居合わせた学生らと「反媒体巨獣青年聯盟」(青盟)メンバーに加入した。じきに青盟Facebookの開設やニュースの整理を手伝うようになり、活動現場で毎回声援を送るようになった。しかし、青盟での声援はメディア露出が低く世間での存在感がなかったため、青盟の動員力は次第に衰退していった。社会運動の仲間たちは品妤の存在を認知すると活動情報を共有するようになり、「黒色島国青年陣線(中国語版)(黒島青)」を結成する。2013年8月に結成されたこの黒島青は品妤が中途ではなく初期から加入した最初の団体であり、幹部としてより積極的な活動をみせるようになった。内部討論に参加するうちに各地の公聴会出席などの事務業務を受け持つようになった。コスプレと社会活動を結びつけたのもこの時期だった。再開発に伴う立ち退きおよび取り壊し問題にはコスプレのパフォーマンスを通じて抗議の意思を示した。(後述) このほか、2012年の洪仲丘事件をきっかけに発生した事件真相解明要求かつイデオロギー闘争に明け暮れる国民党と民進党双方に対する抗議表明としての「白シャツ軍運動(中国語版)」や、中国資本が入り対岸寄りの報道が懸念されていた(中天電視などを擁する)旺旺集団(中国語版)への抗議活動「反媒体壟断運動(中国語版)」とそれに伴うパレード、秋闘(秋鬥、秋の労働運動)、反陳徳銘抗議行動、中国国民党第19次全国代表大会(中国語版)への抗議運動へ参加するなど、次第に社会運動にのめり込んでいった。 品妤はこれらの活動を通じて「あなたも一つの集合体に属するようになれば、多方面の議題について関心を持たざるを得ないだろう。自身の過去の価値観に対する影響は確かなもので、例えば自分が過去に見たことのない、より脆弱な人々に遭遇することだってある」と訴えている。
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学生運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:09 UTC 版)
千葉県富津市出身。中学1年の時に父親を病気で亡くす。子供の頃は日本共産党の動向に関心を持ち、60年安保においては民主社会党を支持していた。 千葉県立木更津高等学校卒業後、1965年4月に東京水産大学水産学部増殖学科(現東京海洋大学海洋科学部)に入学、水泳部に所属する。同部に所属していた川島豪に近づくためだった。当時4年生で自治会で後援会費闘争を行っていた川島を慕うようになる。その後、日韓条約反対闘争に参加し初めての集会とデモを経験。更にこの年の夏に課外実習で水産労働者の劣悪な労働状態に接し、労働運動に人生を捧げようと決意する。1966年4月、同年水産大学を卒業した川島が元社学同ML派幹部のM・Kと共に労働運動を重視した「警鐘」グループを結成すると、大学を中退し「警鐘」に加わることを望むが、川島の指示で大学に残り自治会活動を続けることになる(「警鐘」は学生をやめ労働者になることを加盟の条件にしていた)。しかし、一刻も早く労働運動に加わりたいとの思いから坂口の大学での活動は滞りがちになり、後に川島の後輩であることから自治会の委員長に就任するもほとんど活動を行わず、結局1967年6月に大学を中退する。
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学生運動
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かつて学生運動が盛んな時期もあった。1969年には講義棟や図書館が学生によるバリケードで封鎖される出来事もあった。バリケードは同年12月15日、大学側の出動要請を受けた機動隊により排除されている。
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学生運動
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運動の主体である左翼学生が、実は「学生」という「恵まれた」身分(プチ・ブル)にあり、社会的弱者を抑圧しているのではないかという疑問から、自らの学生という立場を否定することによって「加害者性」を克服し、弱者の立場に立たなければならないとする議論。 この自己否定論の登場以降、新左翼は「社会的弱者との連帯」を掲げて反差別闘争に力を入れるようになった。
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学生運動
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「東亜同文書院大学 (旧制)」の記事における「学生運動」の解説
1930年(昭和5年)秋、安斎庫治(27期生)は学内に共青団(中国共産党の青年組織)支部を組織、朝日新聞上海総局に勤務していた尾崎秀実と連携しつつ学生運動の中心的指導者となった。さらに彼は中共党員の王学文が指導していた「日支闘争同盟」にも参加し、日本海軍の艦艇乗組員に対する反戦宣伝活動に従事した。この組織には安斎のみならず西里龍夫(26期生)・中西功(29期生)など多くの現役書院生および出身者が参加していたが、同年末上海総領事館警察による弾圧で書院生8名が検挙され同盟は壊滅した。翌1931年春、出獄・復学した中西らにより共青団が再建、同年末には「対支非干渉同盟」が組織され、満州事変から第一次上海事変へと動く情勢のもとで、中共に入党した書院生を中心に反戦運動が進められた。しかし1932年(昭和7年)3月には総領事館警察によって書院生19名が再び検挙され、東亜同文書院における反戦運動は終焉した。
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学生運動
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学園紛争の煽りを受けて、1969年(昭和44年)に関西大学でも大学紛争が発生し、同6月20日、全共闘は大衆団交を要求して大学会館を封鎖した。封鎖は7月5日、大阪府警の機動隊により一旦解除されたが、約半年間は紛争状態で授業もほとんど休講になり、小さな衝突が頻繁に起きたことから機動隊が学内に常駐した。
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学生運動
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大学入学後、夜学連に参加し、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。 1970年(昭和45年)5月9日、前年発覚した大菩薩峠事件に関与していたとして、東京都町田市内で爆発物取締罰則、殺人予備容疑で逮捕される。この時点で共産同赤軍派の女性最高幹部とされ、前年に塩見孝也が逮捕されて以降、組織全体を動かす重要なポストについていたと目されていた。後に釈放。
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学生運動
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「群馬工業高等専門学校」の記事における「学生運動」の解説
群馬高専では、昭和39年8月に当時の日本政府が米国政府に対し、原子力潜水艦の横須賀港への寄港承諾に伴い、当時の3年生4名が学内に「代表者を横須賀に送ろう」と題したビラが掲示された。この1件は群馬高専の学生初の政治的意見表明とされている。昭和42年11月10日付の群馬高専新聞に「学生運動と我々」という論説が掲載される。同紙には、群馬高専の一部学生が参加した羽田闘争等に関する記述がされている。また、1969年12月に羽田闘争に関連して逮捕された学生の獄中記である「獄中より全ての学生諸君へ」と題した文章が群馬高専新聞23号に掲載される。尚、群馬高専新聞のアーカイブは群馬高専図書館にて閲覧が可能である。学生が校内または校外において、学校名を使用してビラまたはポスター類を掲示する場合は、責任者または団体名を明記の上、当該掲示物を学生主事に提出して、許可を受ける必要がある。(掲示物取扱いに関する規則第2条)この規則は、令和2年11月15日に学生ホール内に学生有志名で菅政権による日本学術会議の人事介入、及び故中曽根康弘の合同葬に際する国立大学法人、独立行政法人への弔意要請に抗議する旨のビラが掲示されたことによって、同年内に改正がなされた。これは、当該掲示物が「本校名」を使用しておらず、同規則第2条に該当しないという反論を受けてのことである。 1964年(昭和39年)12月 - 長岡高専学生会長から群馬高専学生会長に高専学生会連合組織結成が呼びかけられるも、不許可。 1965年(昭和40年)12月8日 - 当時の学生会長が自治問題を提起。 1969年(昭和44年)5月22日 - 反戦会議名により、6項目要求ビラ(集会・表現の自由や学生自治等)が配布される。 6月19日 - 東京での反戦集会に学生数名が参加。 6月23日 - 前橋市内の反安保・沖縄奪還署名運動に学生数名が参加。 10月21日 - 国際反戦デー。3M講義ボイコット。東京都内で新左翼学生の反戦集会に出席した群馬高専の学生1名逮捕。学生会、臨時学生総会を招集し、添書制度撤廃、カリキュラム再検討、学生準則撤廃、図書館運営の学生参加を要求する4項目要求を決議。 11月8日 - 5E学生を中心として、学生自治会準備会発足。 11月28日 - 学園改革特別委員会が学生会によって設立される。 12月8日 - 学園改革に関する教官-学生の合同協議機関として、教育問題審議会・学生自治問題審議会発足。羽田闘争に参加した学生が逮捕される。 1970年(昭和45年)2月13日 - 「暫定準則」施行決定。添書制度や制服の規定が廃止される。 4月1日 - 「暫定準則」発効。 4月28日 - 沖縄デーに際して、授業ボイコット、集会を伴う学内デモが行われる。 6月17日 - 臨時学生総会にて反安保のための全学スト決議がされる。 6月18日 - 同月22日まで全校スト決行。期間中は休講となり、日米安全保障条約についてクラス討議を実施。安保反対市内デモ参加。 6月22日 - 群馬高専新聞のタイトルが「飛翔」と改められる。 9月 - 東京都内で入管法反対デモに参加した学生1名が逮捕される。 9月19日 - 入管法反対に際して、一部学生が授業ボイコットを行う。 1971年(昭和46年)6月 - 学生有志の手により、「生協設立準備会」発足。 11月14日 - 学生2名が高崎経済大学や群馬大学の活動家に率いられ、渋谷暴動事件に参加。後に殺人容疑で逮捕、実刑判決。 1972年(昭和47年)3月18日 - 18日朝に渋谷暴動事件に参加した学生が傷害、放火、凶器準備集合などの疑いで逮捕群馬県庁前で逮捕される。(後日殺人容疑で再逮捕) 4月6日 - 上記学生が殺人の疑いで再逮捕される。 5月15日 - 沖縄・ベトナム・学費値上げ反対学内集会 6月6日 - 生協設立準備会、校長と団体交渉。 6月15日 - 生協設立総決起総会(参加者50名) 6月22日 - 臨時学生総会が開かれ、生協設立や学費値上げ反対等が協議されるも、流会。 9月26日 - 28日まで学生が食堂ボイコット。 1973年(昭和48年)5月1日 - 高専総告発・筑波法反対ビラ発行 5月19日 - 定期学生総会にて、筑波法・小選挙区制反対、学費値上げ反対の決議がされる。 9月20日 - 学生会、生協設立即売会(設立賛同署名500筆を集める) 10月9日 - 学生会、生協問題で校長交渉。 11月15日 - 臨時学生総会にて、学校当局に団体交渉要求を決議。 11月17日 - 学生会、学校当局と団体交渉。 11月22日 - 生協設立総会 11月29日 - 学校当局より、生協設立は不可能であるとの結論が出される。 1974年(昭和49年)6月29日 - 学生運動を考える集い実行委員会主催で高専問題学習会が開かれる。 7月6日 - 学生運動を考える集い 10月20日 - 国際反戦デー連帯学内集会 1975年(昭和50年)4月1日 - 上履き使用撤廃 2020年(令和2年)11月15日 - 学生ホール内に学生有志名で菅政権による日本学術会議の人事介入、及び故中曽根康弘の合同葬に際する国立大学法人、独立行政法人への弔意要請に抗議する旨のビラが掲示される。(後に学生会役員の手により撤去)
※この「学生運動」の解説は、「群馬工業高等専門学校」の解説の一部です。
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学生運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 10:10 UTC 版)
各大学では、1980年3月の新学期から学生会と教授会が復活し、維新体制時代の緊急措置で大学を解職或いは除籍されていた教授や学生達が、1980年2月29日の復権措置で学園に復帰してきた。そして学園内では「学園民主化」を求める討論会やデモが起こり始め、3月27日の朝鮮大学校(全羅南道光州市)を皮切りに全国の大学に学内デモが拡大、スローガンも学園内の言論の自由や御用教授退任、理事会運営の改善など具体的な物へと変化していった。4月に入り、新軍部勢力の権力掌握に向けた動きが表面化すると、学生達は維新勢力退陣・戒厳令撤廃・政府主導の改憲反対などの政治的スローガンを掲げ、街頭デモを展開し初め、5月15日のソウル駅デモで最高潮に達した。
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