指導者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 17:01 UTC 版)
1949年10月の中華人民共和国成立後に中央人民政府委員、中南軍政委員会(後の中南行政委員会)主席、第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員となる。同年末にモルヒネ中毒症の治療目的で再度ソ連を訪問した。1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、毛沢東から中国人民志願軍の司令官に指名されたが、病気療養を理由に辞退し、彭徳懐が指揮を執った(ただし、林彪が育てた第4野戦軍系の精鋭部隊が活躍している)。 1951年11月、中央人民政府人民革命軍事委員会副主席に就任した。1954年9月、中華人民共和国憲法の制定に伴う政府機構再編によって国務院と国防委員会が設置されると、林彪は国務院副総理兼国防委員会副主席に任命された。また、党中央軍事委員会委員となった。1955年4月の第7期5中全会において党中央政治局委員に選出される。同年9月27日、中華人民共和国元帥(十大元帥)の一人となり、朱徳と彭徳懐に次ぐ序列第3位の軍事指導者となったが、十大元帥の中では最年少でもあり、軍閥の寄せ集めであった紅軍時代からの派閥や人脈が生きていた軍内においては、まだ地位は低かった。特に党に通じる人脈は皆無であり、これが後の毛沢東への接近へもつながることとなる。
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