指導者と晩年(1970-2004)
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「安田矩明」の記事における「指導者と晩年(1970-2004)」の解説
1970年(昭和45年)、中京大学の教員に転身、教授に就任した。中京大では陸上競技部監督や部長を歴任し、室伏広治らを育てた。また台湾生まれの縁があり、教育大競技部の後輩でもある陳全壽を中京大の教員にスカウトし、陳を慕って多くの台湾人留学生(陸上競技選手)が中京大に留学するきっかけを作った。ウィリー・バンクスが中京大で特別講師として教鞭を執っていた頃には、バンクスと親しく交わり、日本の芝事情を伝えたことから、後年バンクスが天然芝に近い人工芝「フィールドターフ」を日本にもたらすことにつながった。 1979年(昭和54年)、アメリカからストレッチを持ち帰った豊田工業高等専門学校教授・小栗達也にストレッチを習い、授業に取り入れたほか、自ら実践し家族で取り組む様子が読売新聞に写真付きで掲載された。1983年(昭和58年)、フィンランド・ヘルシンキで開かれた第1回世界選手権にコーチの1人として日本選手団に帯同、1992年(平成4年)にもバルセロナオリンピックでコーチとして日本選手団に随行している。 1990年(平成2年)にはマスターズ陸上に関心を示し、競技への参加意欲を示した。実際、1993年(平成5年)10月に世界ベテランズ選手権(宮崎県総合運動公園陸上競技場)に55歳以上の部で出場したが、記録なしに終わった。日本陸上競技連盟では1995年(平成7年)から2000年(平成12年)まで強化委員長を務め、1996年アトランタオリンピックではヘッドコーチ、2000年シドニーオリンピックでは日本選手団本部役員を務めた。中京大で開かれた室伏広治のシドニーオリンピック壮行会では「広治のフォームは世界一なんですよ」と絶賛していた。中京大教授としては1997年(平成9年)に「ポールの材質による棒高跳びの記録変遷」という論文を執筆した。 晩年、筑波大学陸上競技部の部史『世紀を越えて』(2004年〔平成16年〕発行)への寄稿を求められたが、安田は闘病中であったため、安田の友人で同期であった大西暁志(順天堂大学教授)が代わりに執筆した。2004年(平成16年)4月16日午後3時56分、肝臓がんのため愛知県豊田市内の病院で逝去、68歳であった。葬儀は4月19日に豊田市のセレモニーホール豊田貴賓館で営まれた。
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