昭和45年 (かのえいぬ 庚戌)
年(年号) | |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック |
●1968年 (昭和43年) | ■GNP世界第2位に |
●1970年 (昭和45年) | ■大阪で万国博覧会 |
●1971年 (昭和46年) | ■環境庁設置 |
●1973年 (昭和48年) | ■第1次オイルショック |
●1976年 (昭和51年) | ■ロッキード事件 |
●1978年 (昭和53年) | ■日中平和友好条約 |
●1978年 (昭和53年) | ■成田空港開港 |
●1979年 (昭和54年) | ■第2次オイルショック |
●1982年 (昭和57年) | ■東北・上越新幹線開通 |
●1983年 (昭和58年) | ■大韓航空機撃墜事件 |
●1985年 (昭和60年) | ■日航ジャンボ機墜落事件 |
●1986年 (昭和61年) | ■国鉄分割・民営化 |
●1989年 (平成元年) | ■ODA世界第1位となる |
●1989年 (平成元年) | ■消費税導入 |
・ 鏑木 清方 | 1878年〜1972年(明治11年〜昭和47年) | 92才 |
・ 石橋 湛山 | 1884年〜1973年(明治17年〜昭和48年) | 86才 |
・ 安田 靫彦 | 1884年〜1978年(明治17年〜昭和53年) | 86才 |
・ 武者小路 実篤 | 1885年〜1976年(明治18年〜昭和51年) | 85才 |
・ 平塚 らいてう | 1886年〜1971年(明治19年〜昭和46年) | 84才 |
・ 古今亭 志ん生 | 1890年〜1973年(明治23年〜昭和48年) | 80才 |
・ 山川 菊栄 | 1890年〜1980年(明治23年〜昭和55年) | 80才 |
・ 西条 八十 | 1892年〜1970年(明治25年〜昭和45年) | 78才 |
・ 早川 徳次 | 1893年〜1980年(明治26年〜昭和55年) | 77才 |
・ 加藤 シヅエ | 1897年〜2001年(明治30年〜平成13年) | 73才 |
・ 近衛 秀麿 | 1898年〜1973年(明治31年〜昭和48年) | 72才 |
・ 吉野 源三郎 | 1899年〜1981年(明治32年〜昭和56年) | 71才 |
・ 田河 水泡 | 1899年〜1989年(明治32年〜平成元年) | 71才 |
・ 小林 秀雄 | 1902年〜1983年(明治35年〜昭和58年) | 68才 |
・ 近藤 真柄 | 1903年〜1983年(明治36年〜昭和58年) | 67才 |
・ 美濃部 亮吉 | 1904年〜1984年(明治37年〜昭和59年) | 66才 |
・ 榎本 健一 | 1904年〜1970年(明治37年〜昭和45年) | 66才 |
・ 朝永 振一郎 | 1906年〜1979年(明治39年〜昭和54年) | 64才 |
・ 湯川 秀樹 | 1907年〜1981年(明治40年〜昭和56年) | 63才 |
・ 大岡 昇平 | 1909年〜1988年(明治42年〜昭和63年) | 61才 |
・ 黒澤 明 | 1910年〜1998年(明治43年〜平成10年) | 60才 |
・ 三島 由紀夫 | 1925年〜1970年(大正14年〜昭和45年) | 45才 |
1970年
(昭和45年 から転送)
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1970年(1970 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。昭和45年。
- ^ All My Children (TV Series 1970–2011) - Release Info - IMDb 2021年4月8日閲覧。
- ^ 40年前に終結のナイジェリア「ビアフラ戦争」、教育現場はいまだに「腫れ物にさわる」扱い AFPBB News (2008年5月22日) 2021年4月8日閲覧。
- ^ ビアフラ戦争とは - コトバンク 2021年4月8日閲覧。
- ^ スキー客48人が死ぬ 朝食中に大ナダレ『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月11日朝刊 12版 15面
- ^ ロンノル 2022年12月1日閲覧
- ^ サルバドール・アジェンデ 1970 ガーディアン。 2022年12月1日閲覧
- ^ 伊藤典夫、浅倉久志 編『宇宙SFコレクション1 スペースマン』新潮社、1985年、10,16,17頁。ISBN 978-4-10-221102-1。
- ^ アーサー・C・クラーク『宇宙への序曲』早川書房、1992年、53頁。ISBN 978-4-15-010965-3。
- ^ 「謎の円盤UFO」「THUNDERBIRDS」ブルーレイBOX - NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン公式サイト、2016年2月20日閲覧。
- ^ ロバート・マイアル『謎の円盤UFO 1』早川書房、1975年、7-12頁。ISBN 978-4-15-010173-2。
昭和45年(1970年)
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「全日本女子プロレス」の記事における「昭和45年(1970年)」の解説
赤城マリ子(2代目赤木まり子) 1979年に引退。引退後は東京都品川区でスナック「Pub Snack マリ子の店」を経営していたが2009年に閉店。 マキシ村田 ペギー黒田
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昭和45年
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1970年(昭和45年)正月、山本舜勝1佐や楯の会会員たちが集まった三島邸での新年会で、民間防衛の話に及んだ際、三島が何気なく、「自衛隊に刃を向けることもあり得るでしょうね」と発した。 1月末、三島は昨年12月に訪韓した際に世話になった韓国陸軍の元少将Rと山本舜勝1佐とを招いて会食。Rの辞去後、三島が山本1佐に、「(クーデターを)やりますか!」と問うが、山本1佐は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答した。この頃三島は、山本1佐が「硬骨」と評価している自衛隊将校と接触していた。 3月1日、学生と会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、28日まで行われた。この頃から、森田必勝(学生長、第1班班長)と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同月、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟いた。 3月末に突然、三島は和服姿で錦袋に入れた日本刀を携えて山本1佐宅を訪問した。山本1佐は日本刀の話題を出さないようにしていたが、三島がその刀を自分に提供して決意を促すつもりのような気がした。帰り際に三島は、「山本1佐は冷たいですな」と言い、「やるなら制服のうちに頼みますよ」と山本1佐は返した。 4月3日、三島は千代田区内幸町1-1の帝国ホテルのコーヒーショップにおいて小賀正義(第5班班長)に、最後まで行動を共にする意志があるかを訊ね、小賀は承諾した。4月10日、三島は自宅に招いた小川正洋(第7班班長)にも、「最終行動」に参加する意志があるかどうか打診し、小川も小賀同様に沈思黙考の末に承諾した。 4月下旬、11年前の1959年(昭和34年)から毎号読んでいた『蓮田善明とその死』(小高根二郎著)が3月刊行されたため、三島はそれを携え山本1佐宅を訪問し、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。5月、「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第1回「新憲法における『日本』の欠落」を三島は配布した。 5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋の3名が集まった。楯の会と自衛隊が共に武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴えるという「最良の方法」を討議するが、具体的な方法はまだ模索中であった。6月2日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、4日まで行なった。この回は食糧を支給されず不眠不休で青木ヶ原樹海を行軍する過酷な訓練だった。 6月13日、三島、森田、小賀、小川の4名が港区赤坂葵町3番地(現・虎ノ門2丁目10-4)のホテルオークラ821号室に集合。これまで接触してきた自衛隊将校らにはもう期待できないことを悟り、自分たちだけで実行する具体的な計画を練った。 三島は、自衛隊の弾薬庫を占拠して武器を確保し爆破すると脅す、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させて、国会占拠・憲法改正を議決させる計画を提案した。討議の結果、東部方面総監を拘束する方法を取ることにし、楯の会2周年記念パレードに総監を招いて、その際に拘束する案などが検討された。 6月21日、三島ら4名は、千代田区駿河台1丁目1番地の山の上ホテル206号室に集合。三島から、市ヶ谷駐屯地内のヘリポートを楯の会の体育訓練場所として借用できる許可を得ることに成功した旨が報告された。そして、総監室がヘリポートから遠いため、拘束相手を32連隊長・宮田朋幸1佐に変更することが提案され、全員が賛同した。 7月5日、三島ら4名は、山の上ホテル207号室に集合。決行日を11月の楯の会例会日にすることに決め、例会後のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に武器の日本刀を積んで32連隊長室に赴き、宮田連隊長を監禁する手順を決定した。 同月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に、防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根防衛庁長官はそれを閣僚会議で佐藤栄作首相に提出しなかった。 7月11日、小賀は三島から渡された現金20万円で中古の41年式白塗りトヨタ・コロナを久下木モータースから購入した。7月下旬、三島ら4名は、千代田区紀尾井町4番地のホテルニューオータニのプールで、決起を共にする楯の会メンバーをもう1人増やすことにし、誰にするか相談した。この夏、三島は3名それぞれに8万円を渡し、北海道に慰安旅行させた。 この頃、三重県四日市市に帰省した森田は、旧知の上田茂に、「三島由紀夫に会って自分の考え方が理論化できた。だから三島をひとりで死なせるわけにはいかん」と言った。8月28日、再びホテルニューオータニのプールに集まった三島ら4名は、古賀浩靖(第5班副班長)を仲間に加えることを決定した。 9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、森田と小賀は新宿区西新宿3丁目8-1の深夜スナック「パークサイド」に古賀を誘い、「最終計画」を説明して賛同を得た。2人から、「三島先生と生死をともにできるか」と問われ、「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれた古賀は、楯の会に入会した時からその覚悟ができていたため承諾し、同志に加えてくれたことを感謝した。 9月9日、三島は銀座4丁目のフランス料理店に古賀を招き、計画の具体案を聞かせ、決行日は11月25日だと語った。三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」、「ここまで来たら、地獄の三丁目だよ」と言った。 9月10日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを12日まで行なった。9月15日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は、千葉県野田市の興風館で行われた戸隠流忍法演武会(忍者大会)を見物し、帰途に墨田区両国 1丁目10-2のイノシシ料理店「ももんじ屋」で会食して同志的結束を固めた。 この頃、三島は約4年近く世話になった陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の機関紙に感謝の言葉と複雑な心境を綴った。 ここでは終始温かく迎へられ、利害関係の何もからまない真の人情と信頼を以つて遇され、娑婆ではついに味はふことのない男の涙といふものを味はつた。私にとつてはここだけが日本であつた。娑婆の日本の喪つたものの悉くがここにあつた。日本の男の世界の厳しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の運命を気づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運命について憂へた。(中略)ここは私の鍛錬の場所でもあり、思索の場所でもあつた。私は、ここで自己放棄の尊さと厳しさを教へられ、思想と行為の一体化を、精神と肉体の綜合のきびしい本道を教へられた。(中略)歴代連隊長を始め、滝ヶ原分とん地の方々のすべてに、私は感謝の一語あるのみである。同時に、二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみを馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた自分自身の、ほとんど狂熱的心情を自らあはれみもするのである。 — 三島由紀夫「滝ヶ原分屯地は第二の我が家」 9月にヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会に招かれた三島は、食事後に暗い面持ちで、日本から精神的伝統が失われ物質主義がはびこってしまったと言い、「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」という不思議な喩え話をした。三島は時々予言めいたことを突然発することがあり、春頃にも茶の間で父・梓に日本の未来を案ずる言葉を言っていた。 ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜は茶の間で、「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭越しに中国に接触しますよ、日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。わが友台湾はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう。日本は東洋の孤児となって、やがて人買い商人の商品に転落するのではないでしょうか。いまや日本の将来を託するに足るのは、実に十代の若者の他はないのです」と申しました。これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、銀座で食事中にまったく同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。 — 平岡梓「伜・三島由紀夫」 9月25日、三島ら5名は、新宿3丁目17番地の伊勢丹会館後楽園サウナに集合。三島は楯の会例会の招集方法を変更することを提案し、特に11月の例会は、自衛隊関係者を近親や親戚に持つ者を除いた隊員に三島が直接連絡することを決め、就職や結婚が決まっている者も除いた。10月初め、死ぬ前に故郷の北海道の山河を見ておきたいと言う古賀のため、三島は旅費の半額1万円を与えた。 10月2日、三島ら5名は、銀座2丁目6-9の中華料理店「第一楼」に集合。11月の楯の会例会を午前11時に開いて、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練を開始後、三島と小賀が葬儀参列を理由に退席して、日本刀を車に搬入する手筈で32連隊長を拘束するという具体的手順を決定した。 その行動の際、ありのままを報道してもらえる信頼できる記者2名を予めパレスホテルに待機させておき、一緒に車に同乗させ、32連隊隊舎前の車中で待たせることも同時に決定した。10月9日、北海道旅行中の古賀を除いた4名が「第一楼」に再び集合し、計画を再確認した。 10月17日、三島は持丸博を自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に作成した血盟状を持って来てほしいと頼み、著名した者の多くが脱退したので焼却したい旨を伝えた。10月19日、三島ら5名は10月例会の後、千代田区麹町1丁目4番地の東条会館で、楯の会の制服を着用して記念撮影を行なった。 10月23日、都内の火葬場や給電指令所で楯の会の演習を行なった。この演習前に市ヶ谷私学会館に集合した会員の前で、黒板に「coup d'État(クーデター)」と無言で書いた三島は、都市機能をマヒさせるための具体的な場所を示した。会員たちは、いよいよ楯の会全員でのクーデターが始まるのだと思ったという。この訓練後、三島は夜1人で、山本1佐宅を訪ねた。この日の訪問を山本1佐は、「赤垣源蔵徳利の別れ」のようなものだったのではないかと回想している。 10月27日、血盟状を、持丸とともに劇団浪曼劇場の庭で焼却した。しかし、持丸はこれを渡す前に、血盟状のコピーを内密にとっておいた。焼却後、港区六本木の「アマンド」でコーヒーを飲みながら三島は持丸に、「お前がやめた後、会の性格が変わったよ。これから(来年から)は会のかたちを変えようと思う。お前も、会のことはよく知っているので、外部からひとつ応援してくれよ」と言ったという。 11月3日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は「アマンド」で待ち合わせ、六本木4丁目5-3のサウナ「ミスティー」に集合。檄文と要求項目の原案を検討した。この時、全員自決するという計画を三島は止めさせ、「死ぬことはやさしく、生きることはむずかしい。これに堪えなければならない」と小賀、小川、古賀の3名に命じた。 三島は、「今まで死ぬ覚悟でやってきてくれた、その気持は嬉しく思う。しかし、生きて連隊長を護衛し、連隊長を自決させないように連れて行く任務も誰かがやらなければならない。その任務を古賀、小賀、小川の3人に頼む、森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言った。 森田は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)あの世で魂はひとつになるんだ」と言った。三島は前日の11月2日、銀座の「浜作」に森田を呼び出し、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と自決を止めるように説得していた。 しかし森田は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切った。その後、小賀、小川、古賀の3名も、「お前も一緒に生きて先生の精神を継ごう」と説得し、三島も森田が自決を思い止まることを期待したが、森田の決心は揺るがなかった。 11月4日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、6日まで行なった。会員たちは、この時に鉄道爆破の訓練を受け、爆弾の設置方法などを教わった。実際に線路を爆破して、爆音と共に線路が粉々になるのを見学した。 訓練終了後、三島ら5名は、御殿場市内の御殿場館別館で開かれた慰労会で、他の会員や自衛隊員らと密かに別離を惜しみ、三島は全員に正座をして酒をついで廻って、「唐獅子牡丹」を歌い、森田は小学唱歌「花」と「加藤隼戦闘隊」、小賀は「白い花の咲く頃」、小川は「昭和維新の歌」「知床旅情」を歌い、古賀は特攻隊員の詩を朗読した。 11月10日、森田、小賀、小川、古賀の4名は、菊地勝夫1等陸尉との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、32連隊隊舎前を下見して駐車場所を確認した。11月12日、森田、小川、小賀の3名は、東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」を見学。その夜、スナック「パークサイド」で、小川は森田から介錯を依頼されて承諾した。 11月14日、三島ら5名は、サウナ「ミスティー」に集合。32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者・伊達宗克とサンデー毎日記者・徳岡孝夫にし、檄文と記念写真を決起当日に渡す主旨の説明が三島からなされ、5名で檄文の原案を検討した。 11月19日、三島ら5名は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室に集合。32連隊長を拘束した後の自衛隊の集合までの時間や、三島の演説などの時間配分を打ち合わせした。森田が「要求が通らない場合は連隊長を殺しても良いか」と訊ねると、「無傷で返さなければならない」と三島は答えた。その後、スナック「パークサイド」で、古賀は森田から、「俺の介錯をしてくれるのは最大の友情だよ」と言われた。 11月21日、決行当日の11月25日に32連隊長の在室の有無を確認するため、森田が三島の著書『行動学入門』を届けることを口実に市ヶ谷駐屯地に赴くと、当日に宮田朋幸32連隊長が不在であることが判明した。三島ら5名は、中華「第一楼」に集合。森田の報告を受け協議の結果、拘束相手を、東部方面総監に変更することに決定した。三島はすぐに益田兼利東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつけた。 同日と翌11月22日、森田ら4名は三島から4千円を受け取り、新宿ステーションビルなどにおいて、ロープ、バリケード構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用のキャラコ布、気つけ用のブランデー、水筒などを購入した。夜、小賀は横浜市内を森田とドライブ中、「三島の介錯ができない時は頼む」と森田から依頼されて承諾した。 11月23日、三島ら5名は、千代田区丸の内1丁目1番地のパレスホテル519号室に集合。決起の最終準備(垂れ幕、檄文、鉢巻、辞世の句など)と、一連の行動の予行演習を行なった。辞世の句は「うまくなくてもいい、自由奔放に書け」と三島は言った。翌11月24日も、三島ら5名はパレスホテルに集合。再度の予行演習をし、前日と合わせて約8回練習を行なった。 同日の昼14時頃、三島は徳岡孝夫と伊達宗克に、「明日午前11時に腕章とカメラを持ってくること、明日午前10時にまた連絡する」という主旨の電話をし、15時頃には、新潮社の担当編集者・小島喜久江に明日朝10時30分に『天人五衰』の原稿を自宅に取りに来るように電話を入れた。 夕方16時頃から、三島ら5名は、新橋2丁目15-7の料亭「末げん」の奥の間(五番八畳)で鳥鍋料理の「わ」のコース(1人15,000円)とビール7本で別れの会食をした。18時頃、お店の豊さん(赤間百合子)がお酌をしようとすると、三島は自分でビールをつぎ、最後の乾杯をした。 食事中は明日の決起のことは話さず、映画女優や三島が映画『人斬り』で共演した俳優の勝新太郎の話などの雑談をした。三島は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思っていたがなんともない。結局センチメンタルになるのは我々を見た第三者なんだろうな」と言った。 食事が終わった20時頃、一同は店を出て、小賀の運転する車で帰宅。車中三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言った。また、もしも総監室に入る前に自衛隊員らに察知され捕まった場合は、5人全員で舌を噛んで死ぬしかないとも話した。 大田区南馬込4丁目32-8の自宅に帰宅した三島は、22時頃に自宅敷地内の両親宅に就寝の挨拶に行き、父親から煙草の吸い過ぎをたしなめられた。森田は西新宿4丁目32-12の小林荘8号室の下宿に帰宅後、同居する楯の会会員の田中健一を誘って、近くの食堂「三枝」に行き、例会の市ヶ谷会館で徳岡孝夫と伊達宗克に渡すべき封書2通を託した。 小川と古賀は、小賀の戸塚1丁目498番地の大早館の下宿に宿泊した。その際に3人は介錯のことを話し合い、小川は、剣道経験豊富な小賀に、森田の介錯ができない場合の代わりを依頼し、小賀は承諾した。しかし3人の間では、介錯は予定者が実行できない時には、三島、森田を問わずに、残りの誰かが介錯するという意思であった。 11月25日、小賀ら3名は午前7時に起床。古賀は森田に「起こしてくれ」と頼まれていたため、森田の下宿の廊下にあるピンク電話を鳴らした。3名は、朝食は取らず、目立たぬように制服の上からコートやカーディガンを羽織って、制帽はビニールの買物袋に入れ、午前8時50分頃、小賀の運転するコロナに同乗し下宿を出発した。 森田は7時に起床し、9時頃、新宿西口公園付近の西口ランプ入口で、コロナでやって来た小賀ら3名と合流した。一行は三島邸に向い、荏原ランプを出て、三島邸近くの第二京浜国道を曲がったあたりのガソリンスタンドに立ち寄って洗車。その間に各人故郷の家族への別れの手紙を投函した。 三島は8時に起床し、コップ一杯の水だけを飲み、お手伝いさんに小島喜久江に渡す小説原稿を預けた。10時頃、徳岡孝夫と伊達宗克に電話を入れ、市ヶ谷会館に午前11時に来るように指定し、田中か倉田という者が案内すると伝えた。小賀の運転するコロナに同乗した一行が10時13分頃に三島邸に到着した。 三島は玄関に迎えに来た小賀に、小川、古賀ら3名宛ての封筒入りの命令書と現金3万円ずつを手渡し、車中で読むように命じた。軍刀仕様にした日本刀・関孫六と革製アタッシュケースを提げ、車までゆっくりと歩いた三島は、「命令書はしかと判ったか」と助手席に乗り込み、「命令書を読んだな、おれの命令は絶対だぞ」、「あと3時間ぐらいで死ぬなんて考えられんな」などと言った。 一行を乗せたコロナは自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。秋晴れの空の下、白いコロナは環状7号線に出て、第二京浜国道に入り、品川から中原街道を経て、荏原ランプから高速道路2号線に乗った。10時40分頃、コロナは飯倉ランプで高速を降りた。 赤坂から青山を経て神宮外苑前に出たが、まだ時間が早かったため外苑を2周した。この時、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の“唐獅子牡丹”といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」と言った。古賀は、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ、4人も合唱した。歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述している。 権田原坂から、右に赤坂離宮、左に明治記念館を見て進行し、学習院初等科校舎近くに一時停車した時、「我が母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と三島は言った。コロナは四谷見附の交差点を直進し、靖国通りを突っ切り、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門に入っていった。
※この「昭和45年」の解説は、「三島事件」の解説の一部です。
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