ひがし‐アフリカ【東アフリカ】
東アフリカ(独領)
東アフリカ(独領) | |
German East Africa | |
(1897-1916) | |
ドイツ領東アフリカ(タンガニーガ)の建国は、ドイツの企業家カール・ペータースの冒険に端を発する。 ドイツ本国の宰相ビスマルクは、1884年、カールの会社である「ドイツ植民会社」に統治を委託する。 1897年、ドイツは「ドイツ領東アフリカ」を宣言する。第一次世界大戦に破れた為、現在の ルワンダとブルンジはベルギーの委任統治下に、残りはイギリスの統治下に入る。 このうち、タンガニーガと呼ばれたイギリス領部分が「タンザニア」の名称で 1961年に独立した。その翌年、ルワンダとブルンジも独立を果たす。 |
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通貨単位:ルピー/ヘラー Rupie / Heller |
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100 ヘラー = 1 ルピー | |
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東アフリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/07 07:32 UTC 版)


東アフリカ(ひがしアフリカ、スワヒリ語: Afriya mashariki)は、アフリカの東部地域、おおむね大地溝帯から東側の地域を指す。
文化・歴史
先史時代、現在主流の「人類アフリカ単一起源説」に依れば、東アフリカの「大湖沼地帯で最初の人類が生まれて、そこから世界へ広がった。
この地域はインド洋に面し、沿岸部(スワヒリ海岸と呼ばれる)は、モガディシュ、キルワ、マリンディなどの都市がインド洋のイスラム商人の交易で繁栄したことからイスラム教が広く浸透している。また、共通語はスワヒリ語である。内陸部でも特に北部は、アクスム王国のあったエチオピアがコプト正教会の伝統を受け継いでいる。
歴史的な文化圏としては、モノモタパ王国、ロズウィ王国があったジンバブエまで含まれ得るが、実際には、モザンビークを含むか含まないかの地理的な区分となっている。
また、20世紀までにアフリカ東部沿岸地域に成立した植民地の名称が「東アフリカ」とされ、支配国にとっての「東アフリカ」はこれらの地域を指していた。
- ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)
- イギリス領東アフリカ(イギリス領ケニアを経て、現ケニア)
- ドイツ領東アフリカ(現タンザニア、ルワンダ、ブルンジ)
- イタリア領東アフリカ(現エチオピア、エリトリア、ソマリア)
第一次世界大戦の結果ドイツ領東アフリカの大半はイギリス委任統治領タンガニーカとなり、傍らで現ルワンダ、ブルンジの地域はベルギー委任統治領ルアンダ=ウルンディとなる。その後1922年にイギリスの支配する3地域(ウガンダ、ケニア、タンガニーカ)に共通通貨東アフリカ・シリングが導入された。
この3地域に結ばれた関税同盟が独立後に引き継がれ、東アフリカを東アフリカ連邦に統合する構想を掲げるタンザニアのジュリウス・ニエレレの後押し[2][3][4]もあって、1967年にウガンダ、ケニア、タンザニアによってタンザニアのアルーシャを本部[5]とする東アフリカ共同体(第一次)となるが、国家間の対立により1977年に崩壊する。
現在、通貨統合も含めて政治的・経済的統合が検討されている現代版の「東アフリカ共同体」(第二次)が進行中であり、ウガンダ、ケニア、タンザニアの3国がアルーシャへ本部を再設置させて2001年に発足させ、2007年からはルワンダとブルンジの2国が参加した。
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独立国
ブルンジ
コモロ
ジブチ
エリトリア
エチオピア
ケニア
マダガスカル
マラウイ
モーリシャス
モザンビーク
ルワンダ
セーシェル
ソマリア
ソマリランド(事実上)
南スーダン
タンザニア
ウガンダ
ザンビア
ジンバブエ
非独立地域
海外領土
その他の地域
脚注
- ^ “Composition of macro geographical (continental) regions, geographical sub-regions, and selected economic and other groupings” (英語). 国際連合. 2015年2月23日閲覧。
- ^ Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. ISBN 0-460-07878-X. p. 173
- ^ Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. ISBN 9780894649110. p. 55
- ^ Kyle, Keith (1997). "The Politics of the Independence of Kenya". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58.
- ^ "TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967" (PDF) (Press release). Kenya Law. 2018年6月30日閲覧。
関連項目
東アフリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
スワヒリのイスラーム商人が東アフリカ沿岸部とインド洋沿岸部をつなぎ、象牙や奴隷を運んだ。キルワなどの貿易港や、内陸のコンゴ川のマニエマに進出して米の栽培を始め、米はこの地方の主食にもなった。19世紀に入ると、アラビア半島南端のオマーンからブー・サイード朝のサイイド・サイードが東アフリカ貿易に進出する。その理由は、ペルシア湾貿易での勢力低下にあった。サイードはザンジバルを貿易の拠点としてクローブ栽培を始め、ヨーロッパとの良好な関係も築いて繁栄した。19世紀には奴隷の需要も高まり、ティップー・ティプのようなアラブ・スワヒリ商人は奴隷狩りを大規模化した。奴隷の中には、フランスによってレユニオンやマダガスカルの大農場へ送られる者もいた。 内陸のサバンナには、ニャムウェジ族の商人がタンガニーカから隊商で往来して、ケニアからはカンバ族の隊商が沿岸のモンバサまで出向いていた。19世紀からアラブ人の交易ルートを用いてヨーロッパ人が進出して、イギリス領東アフリカやドイツ領東アフリカとなる。ウガンダでは綿花の輸出でアフリカ人の独立農家が増えるが、ケニアでは白人入植者がアフリカ人のコーヒー栽培を禁止させ、原住民登録条例でアフリカ人の独立をさまたげた。
※この「東アフリカ」の解説は、「貿易史」の解説の一部です。
「東アフリカ」を含む「貿易史」の記事については、「貿易史」の概要を参照ください。
東アフリカ
「東アフリカ」の例文・使い方・用例・文例
- 彼らは東アフリカのタンガニーカ湖を探索した。
- 東アフリカの種族の中には、乳製品を主食にしているのがあるそうだ。
- 大胆にも彼は東アフリカのキャンプ旅行に出かけた
- 東アフリカからオーストラリアまで見られる海牛類の牙のある哺乳類
- 大群で狩りをする南・東アフリカ産の頑強な犬のような哺乳動物
- 主として昆虫を食する南東アフリカの縞のあるハイエナ
- 東アフリカ産の胎児のような群居性の齧歯動物
- 中央・東アフリカの平原にすむ
- 細い首と後方に曲った角を有するほっそりした東アフリカ産の羚羊
- 東アフリカのガゼル
- 後方に曲がった鋭い角を持つ、東アフリカの大型の黒いレイヨウ
- 南東アフリカの小さな平野カモシカ
- 南と東アフリカの暗い淡黄褐色レイヨウ
- いくつかの高度な人間のような特徴がある直立した東アフリカのヒト科の絶滅種
- 東アフリカの大きい歯をしたヒト科の動物
- 中央東アフリカの長い毛のチンパンジー
- 南・東アフリカ産の灰色がかった色のヒヒ
- 東アフリカの、東アフリカに関する、または、東アフリカに位置する
- 南東アフリカのかなり文学的に重要なバンツー族の言語
- 東アフリカのケニア海岸地域で話されるバンツー族言語
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