昭和43年 (つちのえさる 戊申)
年(年号) | |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック |
●1968年 (昭和43年) | ■GNP世界第2位に |
●1970年 (昭和45年) | ■大阪で万国博覧会 |
●1971年 (昭和46年) | ■環境庁設置 |
●1973年 (昭和48年) | ■第1次オイルショック |
●1976年 (昭和51年) | ■ロッキード事件 |
●1978年 (昭和53年) | ■日中平和友好条約 |
●1978年 (昭和53年) | ■成田空港開港 |
●1979年 (昭和54年) | ■第2次オイルショック |
●1982年 (昭和57年) | ■東北・上越新幹線開通 |
●1983年 (昭和58年) | ■大韓航空機撃墜事件 |
●1985年 (昭和60年) | ■日航ジャンボ機墜落事件 |
●1986年 (昭和61年) | ■国鉄分割・民営化 |
・ 長谷川 如是閑 | 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) | 93才 |
・ 鏑木 清方 | 1878年〜1972年(明治11年〜昭和47年) | 90才 |
・ 石橋 湛山 | 1884年〜1973年(明治17年〜昭和48年) | 84才 |
・ 安田 靫彦 | 1884年〜1978年(明治17年〜昭和53年) | 84才 |
・ 武者小路 実篤 | 1885年〜1976年(明治18年〜昭和51年) | 83才 |
・ 平塚 らいてう | 1886年〜1971年(明治19年〜昭和46年) | 82才 |
・ 古今亭 志ん生 | 1890年〜1973年(明治23年〜昭和48年) | 78才 |
・ 山川 菊栄 | 1890年〜1980年(明治23年〜昭和55年) | 78才 |
・ 西条 八十 | 1892年〜1970年(明治25年〜昭和45年) | 76才 |
・ 早川 徳次 | 1893年〜1980年(明治26年〜昭和55年) | 75才 |
・ 加藤 シヅエ | 1897年〜2001年(明治30年〜平成13年) | 71才 |
・ 近衛 秀麿 | 1898年〜1973年(明治31年〜昭和48年) | 70才 |
・ 吉野 源三郎 | 1899年〜1981年(明治32年〜昭和56年) | 69才 |
・ 田河 水泡 | 1899年〜1989年(明治32年〜平成元年) | 69才 |
・ 小林 秀雄 | 1902年〜1983年(明治35年〜昭和58年) | 66才 |
・ 近藤 真柄 | 1903年〜1983年(明治36年〜昭和58年) | 65才 |
・ 美濃部 亮吉 | 1904年〜1984年(明治37年〜昭和59年) | 64才 |
・ 榎本 健一 | 1904年〜1970年(明治37年〜昭和45年) | 64才 |
・ 朝永 振一郎 | 1906年〜1979年(明治39年〜昭和54年) | 62才 |
・ 湯川 秀樹 | 1907年〜1981年(明治40年〜昭和56年) | 61才 |
・ 大岡 昇平 | 1909年〜1988年(明治42年〜昭和63年) | 59才 |
・ 黒澤 明 | 1910年〜1998年(明治43年〜平成10年) | 58才 |
・ 三島 由紀夫 | 1925年〜1970年(大正14年〜昭和45年) | 43才 |
1968年
(昭和43年 から転送)
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1968年(1968 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。昭和43年。
- 1 1968年とは
- 2 1968年の概要
昭和43年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:18 UTC 版)
1968年(昭和43年)2月25日、銀座8丁目4-2の小鍛冶ビルの育誠社内の論争ジャーナル事務所において、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉ら11名が血盟状を作成。「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」と三島が墨で大書し、各人が小指を剃刀で切って集めた血で署名し、三島は本名で“平岡公威”と記した。 その時に三島は、「血書しても紙は吹けば飛ぶようなものだ。しかし、ここで約束したことは永遠に生きる。みんなでこの血を呑みほそう」と、先ず自分が呑もうとして、「おい、この中で病気のある奴は手をあげろ」と皆を大笑いさせてから、全員で呑み合った。血には固まらないように塩を入れていた。 3月1日から1か月、持丸博を学生長とする論争ジャーナル組が、三島と陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地へ自衛隊体験入隊。直前に中央大学の5名がスト解除で参加できなくなり、持丸は日学同の矢野潤に代員の応援を求めた。これに応じて森田必勝が1週間遅れで入隊した。春休み帰省中にスキーで右足を骨折して治療中だったにもかかわらず、苦しい訓練に参加し頑張る森田の姿に三島は感心し注目した。 3月30日、体験入隊が無事終了し、主任教官や隊員と「男の涙」の別れをした森田ら学生一行は貸し切りバスで大田区南馬込の三島邸に向い、慰労会の夕食に招かれた。1期生となった森田は三島への礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と速達で書き送った。それに対し三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あの一言には参った」と森田に告げた。森田はこの頃、北方領土返還運動などに尽力していた。 三島は、祖国防衛隊構想に政財界の協力を得るため、与良ヱに相談していたが、この頃から持丸博を通じ、桜田武(日本経営者団体連盟代表常任理事)らへの接触を始め、初面談を持った。しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じて説得をすることをアドバイスされ、3月18日、三輪良雄にその旨を伝えた。 4月上旬、堤清二の手配により、五十嵐九十九(ドゴールの制服担当)のデザインした制服が完成したのを祝し、三島は論争ジャーナル組から成る祖国防衛隊隊員らと共にその制服で青梅市の愛宕神社を参拝し、満開の桜吹雪の下で記念写真を撮った。 同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、藤原岩市と四者面談した。桜田は前回より理解を示し、民兵組織を「体験入隊同好会」という無難な名称にするように指示し、中核隊員のみを無名称で置いて「祖国防衛隊」の任務とすることで合意した。この頃、早稲田大学の校内には、「体験入隊募集」の看板が設置されるなど広く人材を求め、応募してきた学生を持丸が一次面接試験した。 5月から、山本舜勝1佐による祖国防衛隊の中核要員への集中講義、訓練支援が開始され、27日には、北朝鮮工作員と思しき遺体が秋田県能代市の浜浅内に漂流した「能代事件」(1963年4月)が扱われた。この事件が何かの圧力で単なる密入国事件として処理され、うやむやのままとなったことを知った三島は、溺死体の写真をじっと見つめた後、「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」と激昂したという。 6月1日、三島と中核要員は山本1佐の指導の下、市中で対ゲリラ戦略の総合演習(張り込み、潜入、尾行、変装など)を行なった。労務者に成りすまして任務をこなし、誰にも見破られないように山谷の玉姫公園までたどり着いた三島の疲れ果てた真剣な姿に、山本1佐は深い感動を覚えたという。同月15日、「全日本学生国防会議」が結成され、森田必勝が初代議長に就任。三島は森田のため、この結成大会で祝辞を述べ万歳三唱し、デモの時もタクシーで随伴し、窓から森田を激励した。 7月25日、学生らを引率した第2回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、8月23日まで行われた。この時に伊藤邦典の紹介で小賀正義と古賀浩靖(共に神奈川大学生、全国学生協議会)が参加し、2期生となった。 一方、桜田武(日経連)からの支援協力が結局は中途半端な形で、バカにされたことから(最終的に桜田は、「君、私兵など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという)、三島のプライドはひどく傷つき、民兵組織を全て自費で賄うことにした。 組織規模を縮小せざるをえなくなった祖国防衛隊は、隊の名称を万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は」と、歌人・橘曙覧の「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」に2首にちなんだ「楯の会」と変えた。10月5日に虎ノ門の国立教育会館で三島と初代学生長・持丸博、中核会員約50名が「楯の会」の正式結成式が行われ、ある新聞がこれをスクープして伝えた。 10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員、山本1佐と陸上自衛隊調査学校の学生らは、新左翼デモ(新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リーダーが誰かなどを調査した。 火炎瓶の黒煙や催涙ガスが充満する中、三島は目を真っ赤に充血させながら身じろぎもせずに機動隊と全学連の攻防戦を見つめていた。場所を銀座に移動し、交番の屋根の上から、石が飛び交う激しい市街戦を見ている三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、すぐ隣にいた山本1佐は気づいた。この日、六本木の防衛庁にも新左翼の社学同が突入しようとし、機動隊が猛烈な放水で応戦するが正門は突破されてしまった。 新左翼の暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、その時に楯の会が斬り込み隊として自衛隊の手が及ばないところを加勢し、それに乗じて自衛隊国軍化・憲法9条改正を超法規的に実現する計画を構想し始めた。この日の昼過ぎ、赤坂に設営していた拠点に一旦引き揚げた時、山本1佐が持参のウィスキーを三島に勧めると、「えっ、なんですか。この事態に酒とは!」と憤然と席を立ち去ったという。 騒乱の続く夜、会員たちを拠点に集結させた三島は、この日の総括の会をここで持ちたいと山本1佐に願い出た。まさに今こそ決起行動に出るべきと主張し詰め寄る会員もいたが、まだ治安出動はないと見込んだ山本1佐は演習会の解散を進言し、落胆した三島は会員たちを国立劇場へ移動させていった。 治安出動イコール政治条件と私は考へても間違ひないと思ふ。でありますから、「撤兵しないぞ」と言はれたら、どんな政権もかなふ政権はないんです。だから、「ぢや、おまへ、撤兵するにはどうしたらいいんだ。撤兵してもらふにはどうしたらいいんだ」。「憲法を改正して軍隊を認めなさい」と言つちやへばそれまでだ。これは何もクーデターしなくてもできちやふ。私は悪いことを唆すんぢやないけれども(笑)、それくらゐの腹がなければ、自衛隊のゼネラルといふものはこれからやつていけないと私は思つてる。だから、遠くのはうから遠巻きにして世論を動かさう、なんていふことを考へるよりも、本当のチャンスが来たときにグッと政治的な手を打てるゼネラルがゐないといかんな。 — 三島由紀夫「素人防衛論」(防衛大学校での講演) 11月10日、東大全共闘に軟禁されている文学部部長の林健太郎の解放を求めて、三島は阿川弘之と共に東大に赴き、林との面会を求めるが全共闘に拒絶されて叶わなかった(林健太郎監禁事件)。 12月21日の山本1佐によるゲリラ戦の講義の時、三島は、「ゲリラとは、(人を欺く)弱者の戦術ではないですか?」と疑問を投げかけた。講義の休憩中、森田必勝は山本1佐に、「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と訊ねたという。山本1佐は、「死ぬ覚悟がなければ人は殺せない。私にはまだ真の敵が見えていない」と答えた。 12月末、三島邸に楯の会の中核会員と山本1佐らが集まり、楯の会と綜合警備保障株式会社や猟友会との連携計画が模索された。やがて話題が間接侵略などに及び、「あなたは一体いつ起つのか」という主旨で三島に問われた山本1佐が、暴徒が皇居に乱入して天皇が侮辱された時と、治安出動の際だという主旨で答えると、「その時は、あなたのもとで、中隊長をやらせてもらいます」と三島が哄笑して言ったという。 三島は、山本1佐やそれに繋がる旧陸軍関係者や政府高官との接触を通じ、治安出動の可能性の感触を得て、以下のようなクーデター計画を構想していた。 治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(山本1佐)の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。 — 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」
※この「昭和43年」の解説は、「三島事件」の解説の一部です。
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