結成大会
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1966年(昭和41年)、「国民会議」は中青協の改組とほぼ時を同じくして発足した。 同年、総理府に「青年局」が設置され、4月に中青協は、総理大臣の諮問機関である「青少年問題審議会」(青少審)へ改組された。 その翌月の5月には、総理府を後ろ盾として青少年育成国民会議が設置された。これ以後、青少審と「国民会議」が政府による青少年問題対策の両輪になった。 「国民会議」は、全国の青少年育成団体やPTA、婦人団体、教化団体など結集し、それに国や都道府県の条例担当者が協力する形で作られた。構成団体には、日本書籍協会、日本雑誌協会、日本新聞協会なども加わり、全部で二百五十あまりであった。 「国民会議」の結成大会は、1966年(昭和41年)5月27日午後、サンケイホールで開催された。参加者は千五百人、来賓に佐藤栄作首相、総務長官、自治大臣、文部大臣などが呼ばれた。この時の佐藤の来賓挨拶は次のようなものである。 明治維新の大業は、明治の青年たちによってなしとげられたといっても過言ではないと思います。明治時代と今の時代を同一に論じ得ないにしても、今日の青少年諸君が明日の日本を日本を築くための大行進の先頭にたつことが期待されるのであります。一部の青少年の間には、行きす過ぎやあやまちを犯す者も少なくありません、しかし、私は、今日の青少年諸君に時代を託すことに、いささかの不安もありません。 私は、かねてから「次代を担う青少年を健全に育成することは、国家社会に課せられた重大な責務であり、国政の基本である」と考えておりますが、青少年育成国民会議の発足を大変力強く感ずるとともに、今後の活動に期して待つべきものがあると存じます。 政府といたしましても、青少年の健全育成に対してあらゆる努力と援助を惜しまないことを明らかにいたします。 「国民会議」の初代会長は茅誠司(元東京大学総長)である。茅は結成大会であいさつ「文化を創造し、世界に貢献できる人づくり」をして、次のように述べた。 (二年後の)一九六八年は明治百年にあたります。日本はほぼ百年前に国を開いたわけですが(中略)、これからの百年は、ただ単に外国の文化を吸収し咀嚼するだけでは足りないと思います。それだけなら、進展する世界から取り残されて落伍者になるのではないかと思います。 日本は文化を創造しつつ世界の進歩に貢献し、世界とともに歩むという基本方針を確立する、その大業を担うのが青少年である そのような重い責任を自覚し、誇りとして成人に育っていくようにするのがこの会議の目的である。 事務局は同年11月1日、総理府内に開局されたあと、12月1日に日本女子会館に移り、1968年(昭和43年)2月1日に今度はオリンピック記念青少年総合センターに移った。以後、事務局は総合センターから動くことはなかった。社団法人の認可は、結成の翌年、1967年(昭和42年)10月2日である。 さらに、「国民会議」結成の後、各都道府県や市町村に都道府県民会議や市町村会議が作られたが、その事務所は多くが役所の中に置かれた。このように、民間団体としての顔は表面上の体裁にすぎず、「国民会議」やその支部は、実際には官製運動のための団体だったと言える。 以後、市民団体が市場の出版物を監視するという体裁のもとで、「国民会議」の関係者が業界団体に対して自粛を要請する場として、「国民会議」は機能するようになった。
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