D1 GRAND PRIX
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D1 GRAND PRIX(ディーワングランプリ)は、ドリフト走行の技術を競うモータースポーツの選手権である。通称は「D1グランプリ」「D1GP」。
- 1 D1 GRAND PRIXとは
- 2 D1 GRAND PRIXの概要
全日本プロドリフト選手権
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「今村陽一」の記事における「全日本プロドリフト選手権」の解説
2001年 - プライベートで乗っているAE86型スプリンタートレノで参戦していた。第1戦にて優勝し、その後も上位入賞を続けた。最終戦日光では、ライバルの谷口信輝に勝てばシリーズチャンピオンを得るところまで詰め寄ったが、ドライ用Sタイヤ4輪装着という作戦に出た谷口のスピードに敗れ、シリーズ2位となった。 2002年 - アペックスのワークスドライバーとなり、アルテッツァで参戦した。主にミッションに問題を抱え、一度もポイントを取る事ができなかったためアルテッツァの使用を止め、シーズン途中からRX-7(FD3S)を投入した。その後、第4戦と最終戦の2勝を挙げてシード権を獲得し、シリーズランキングは5位で終えた。 2003年 - 引き続きアペックスのRX-7をドライブし、シリーズ7戦中6回のポイント獲得、5回の表彰台、そして史上初の2連勝を達成し、自身初のシリーズチャンピオンを獲得した。 2004年 - お台場エキシビジョンと第4戦オートポリスでのクラッシュや、マシンの老朽化もあり、シリーズ中盤までは満足のいく成績を残す事ができなかった。しかし、第5戦のお台場でニューマシンを投入し、優勝こそならなかったものの2位の結果を得た。翌日のオールスターバトルで優勝を果たしたところから、第6戦エビス、最終戦筑波と3連勝を果たした。12月の日米対決で4連勝の期待が掛かるものの、2位となった。シリーズランキングは3位で終えた。 2005年 - 第1戦ではコントロールミスにより風間靖幸に敗退、第2戦では追走1回戦にて織戸学に敗退した。それ以降も第4戦ではアームが折れてリタイヤするなどの低迷はあったが、最終戦で優勝を得てシリーズランキング3位となった。 2006年 - アペックスのD1撤退に伴い、トップシークレット製作のORC・Z33でD1に参戦し、シリーズ15位となった。 2007年 - Z33の2号機をトップシークレットが製作。昨シーズンまでのRB26DETT搭載&ワイドボディのマシンから、VQ35ベースに過給機をつけたスレンダーボディに変更した。第1戦エビスでは予選落ちを喫したもののその後の成績が向上し、結果的にシリーズランキング6位で終了した。 2008年 - トップシークレットのD1参戦休止に伴い、昔から縁のあるオートプロデュースBOSSが製作したS15で参戦した。開幕戦から追走に進出してシード入りを果たすと、以降は斎藤太吾や野村謙、手塚強らとチャンピオン争いを演じた。最終的には最終戦で実現した斉藤との直接対決に敗れてシリーズチャンピオンを逃がしたものの、移籍1年目でシリーズランキング2位という好成績を残した。 2009年 - 前年に引き続きオートプロデュースBOSSのS15で参戦した。この年も開幕戦から追走に進出する活躍を見せた。開幕戦こそ決勝でマシントラブルにより野村謙に次いで準優勝に終わったものの、第2戦の決勝で再び野村と対決し優勝を果たした。以降は必ずベスト8以内に入りながらコンスタントにポイントを積み重ね、最終戦でベスト8に進出した時点でD1史上初となる2回目のシリーズチャンピオンを獲得した。 2010年 - ブリヂストンのD1撤退に伴い、タイヤはダンロップへ変更となった。この年は開幕戦のお台場で優勝し、以降もベスト8以上に入り続け、第6戦のエビスで優勝した時点で最終戦を待たずにD1史上初の自身3度目のシリーズチャンピオンとなり、また初のシリーズ連覇を達成した。 2011年 - 東日本大震災の影響により、開幕戦の予定であったお台場が6月に延期となり、第3戦オートポリスからシーズンがスタートした。この大会では単走でスピンを喫し20位に終わり、追走はベスト8まで行ったところで雨によりD1初の中止となったため、単走のみの結果で20位に終わった。しかし続く第4戦鈴鹿では準優勝、第1戦お台場では単走1位、追走は2位を獲得した。第7戦エビスでは、決勝でピットウォールにクラッシュし準優勝に終わったが、最終戦富士スピードウェイでは優勝を果たし、D1史上初の自身4度目・3年連続のシリーズチャンピオンとなった。 2012年 - 4年間在籍したチームBOSSを離れ日栄レーシングプロジェクトに移籍する。マシンは同じくS15シルビアで参戦。タイヤはメーカーの意向でダンロップからファルケンにチェンジする。2013年も同様の体制で参戦した。 2014年は大阪トヨペットが母体となるOTGモータースポーツへと移籍し、マシンをトヨタ・86へとチェンジしている。この車両は元々海外のチームが北米仕様のサイオン・FR-Sをベースにフォーミュラ・ドリフト参戦用に製作途中だったものを買い取ったもので、日本到着後に左ハンドルから右ハンドルへと変更されている。エンジンは今村の希望からTRDがNASCARへ供給している5.8LV8エンジンを搭載しており、このマシンを駆りシリーズ7位を獲得した。 2015年は同じくOTGモータースポーツから86で参戦。本来はシーズン中盤からマシンをレクサスLFAへ変更し参戦する予定であり、この年のお台場エキシビションにて投入され、後のD1 WORLD CHAMPIONSにて斎藤太吾のムルシエラゴとの追走が実現。以降もエキシビションで走行したが、修理代が高額であるため結局実戦投入はされなかった。 2016年はタイヤをダンロップに変更。エンジンもトヨタ製のV型6気筒(1GR-FE)ツインターボになった。 2019年からMMMレーシングのフェラーリ F550マラネロ(VR38DETT搭載)にて戦う。開幕戦の筑波サーキットはあいにくの雨で、開発が進んでいない新型マシンであったこともあり1コーナーでクラッシュを喫した。 2020年以降はD1に参戦していないが、サーキットでの走行会などのイベントに主催者として携わっている。
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