富士スピードウェイとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 建物・施設 > 施設 > 競技場 > 静岡県のスポーツ施設 > 富士スピードウェイの意味・解説 

ふじ‐スピードウェイ【富士スピードウェイ】

読み方:ふじすぴーどうぇい

静岡県駿東(すんとう)郡小山町にあるレーシング場。昭和41年(1966)開設本コースのほか種目目的別四つコースがあり、主に自動車レース世界選手権全日本選手権などが開催される


富士スピードウェイ(日本)

※「大車林」の内容は、発行日である2004年時点の情報となっております。

富士スピードウェイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/28 16:09 UTC 版)

富士スピードウェイ(ふじスピードウェイ、Fuji Speedway)は、静岡県駿東郡小山町にあるサーキットである。略称は「FSW」。


注釈

  1. ^ 他、レース場及びレース場の付帯設備の貸し出し、ドライビングスクールの経営、看板広告・プログラム広告など広告に関する業務、といったことを事業内容にしている。
  2. ^ 非常設の「グレード1」サーキットを含めると、バクー市街地コースのホームストレート(約2.2 km{1箇所の緩いカーブを含む})、ラスベガス・ストリート・サーキット(約2 km{1箇所の緩いカーブを含む})のほうが長い。グレード1のサーキットで長いストレートを持つ他の常設サーキットとしては、上海インターナショナル・サーキット(1.202 km)、バーレーン・インターナショナル・サーキット(1.090 km)、ルサイル・インターナショナル・サーキット(1.068 km)がある。
  3. ^ より長いストレートの例は少なく、バクーのほか、グレード1の認定を受けていないサーキット(コースレイアウト)では、ニュルブルクリンク・北コースのドッティンガー・フーエ(約2 km)、ポール・リカール・サーキットのシケインを置かないミストラル・ストレート(約1.8 km)、歴史的にはアヴスの2本の直線路(どちらも約9 km)、サルト・サーキットのシケインが設けられる前のミュルサンヌ・ストレート(約6 km)、建設されなかったハノイ市街地コースのストレート(1.5 km。ただし直線ではない)といった例があるのみとなる。
  4. ^ 当時の建設大臣である河野一郎(1961年から1964年7月にかけて大臣職を務めた)の提唱が企画の発端になったという説があるが[12][13]、河野が日本ナスカー社(森長英)からの要請で建設計画に参画を始めたのは1964年秋以降とされており(後述)、この説は経緯や時系列が建設計画の当事者たちの証言と一致しない。富士スピードウェイ自身は、自社刊行物の中でニコルズがストックカーレースを誘致しようとした動きがサーキット設立の発端となったとたびたび記しており[14][11][15]、第三者による関連書籍でも同社の見解に沿った説明がされている(各関連書籍の記述や実際に建設に携わった当事者の証言では例外は見られない)。河野の息子で自身も建設計画に深く携わった河野洋平も、建設計画は河野の参画以前から存在し、森長英の要請で関わり始めたという経緯を具体的に述べている[16]
  5. ^ ニコルズがNASCAR方式のレースを日本に導入しようとした動機について、ニコルズ本人は自身の思いによるものだと述べているが[17]、自国の自動車産業を日本に進出させたい米国側の意向によるものだという説もある[18][19]
  6. ^ ニコルズが森に売り込みを行った時期は1963年秋とされる。ニコルズは、丸紅飯田を特に決め打ちして交渉したわけではなく、総合商社の上位から接触していき、丸紅飯田は「4番目」だったと述懐している。
  7. ^ 日本ナスカー社は資本金2000万円で設立されたにもかかわらず、NASCAR社との3万ドル(当時のレートで約1080万円)もの多額の契約料で契約した[9]。それとは別に、設計者のチャールズ・マネーペニーにも2万5000ドル(約900万円)の契約料を支払った[9]。このことは日本ナスカー社の資金が1年も経たずに枯渇する要因のひとつとなる[22]
  8. ^ モスが来日して現地視察を行い、コースレイアウトへのアドバイスを行った時期について、「9月」[23][24]、「初秋」[22]という説があるが、1964年当時の記事では「8月」[25]となっているため(発行日が8月末の雑誌に掲載されているため)、ここでは8月としている。
  9. ^ 小山町による積極的な誘致活動が決め手になった[19]。同町が誘致活動を行った背景として、富士スバルラインの開業(1964年)があったとされ、それまでの同町は須走地区にあった民宿が富士登山口として栄えていたが、宿泊客の減少を他の産業で補う必要があったためと考えられている[19]
  10. ^ 賃料は経済状況の変化を見て3年毎に更新[21]。この時に日本ナスカーが提示した経営見通しは非の打ち所がないものだったと地権者たちから評価された[27]。なお、副社長の河野洋平は後年のインタビューで土地を「100万坪」、借地期間を「確か99年間」と言っているが[28]、これは記録とは異なる(河野本人も記憶に基づいて話すので正確さは自信がないと前置きしてインタビューを受けている)。
  11. ^ この時の地権者たちの意志は固く、1980年代に三菱地所側の要望(業態をサーキットからレジャー施設に変更したい)で廃止問題(→#廃止の危機)が起きると、地権者の大部分はサーキットを別の施設に転用することに反対し[27][29]、少なくとも借地期間の「30年間」はレース場として使うよう望んだという[29](サーキットを維持することを大前提として、敷地内にレジャー施設など他の用途の施設を置くことには反対していない[29])。
  12. ^ 日本ナスカー社とNASCAR社が契約した時点では「平坦な土地」が用意されるという話がNASCAR社に伝えられており、マネーペニーはそれを大前提とした設計案とコース模型を訪日前に完成させていた[20][32]
  13. ^ モスを招聘したのはニコルズで、当時の日本でモスは「レースの神様」といった位置付けだったので、その威光を利用する意図があった[31][32]。招聘の狙いはいくつかあったとされ、ロードコースへの再設計という方針の大転換をするための後ろ盾(モスの威光)を必要としたこと[31][32]、実際にモスの知見を必要としていたこと[33](この点はマネーペニーが要望した[31])、遅々として進まない建設計画に苛立っていた地権者たちをなだめること[19][33]、などの目的があったと言われている。ロードコースへの転換は後述の河野グループの参画以前に決定した[34]
  14. ^ 当時、大映社長の永田雅一の主宰で「タキシード会」という集まりがあり、森と河野は政財界の人間で構成されたその会のメンバーで、以前から非常に懇意にしている仲だった[16]。サーキット建設に関する話を河野はこの会で初めて聞いたと考えられている(息子の河野洋平の見解)[16]
  15. ^ 河野一郎が参画を決めたのは森への義理立てによるもので、河野本人はレース場自体には特に関心を持っていなかった[28]。森の後任社長の鈴木九平(日本水産元社長)は経団連の有力メンバーで、サーキット建設に専任・専念できる立場ではなく[36]、後見役という形で関わった[37](鈴木も河野との関係からこの役目を引き受けた)。年長者たちがそうした具合で建設計画とは距離を置いていた一方、河野の息子で当時26歳だった洋平は、米国帰りで運転免許も取得したばかりで、自動車に興味を持っていたという時期だったこともあって[28]、サーキット建設に熱心に入れ込むことになる[38]。河野一郎が送り込んだもう一人の副社長として、建設省出身の谷藤正三(後のFISCO 2代目社長)が就任し、技術面の責任者となった[37]。谷藤は京都帝国大学土木工学科出身のテクノクラートであり、FISCO側に建設工事の専門家が他にいなかったこともあって、建設会社との折衝など全般に渡って「その知識と経験はずいぶんとものを言った」という[39]
  16. ^ 河野洋平はサーキット開業後の1966年6月までは副社長を務めた[35]。それまでの間、1965年12月の日本GP開催発表の記者会見や[44]、1966年5月の第3回日本GPの時は副社長を務めている(本人も副社長として日本GPを迎えたことを回顧している[45])。FISCOを去った後、河野は1967年1月の第31回衆議院議員総選挙で初出馬した。以降の河野は、政治家として非常に有名になった反面、政治家となる以前に富士スピードウェイに関わっていたことはあまり知られていない。
  17. ^ 河野一郎の生前も洋平らは資金集めに苦労しているが、河野の口利きで日本開発銀行からの融資があることは時間の問題と考えられていた[35]
  18. ^ 渡辺はこの参画には大成建設への義理立てや、若い河野洋平を助ける意味合いが大きく、三菱地所として自動車レース場を長く所有する意味はなく、いずれは自動車会社なりに渡すべきものだという認識を示している(1967年)[47]。将来的に他者に売却するという腹案があったことで、渡辺は、より良い状態で事業を引き渡せるようにするため、サーキット経営についても真剣に考え、ル・マン24時間レースや欧米のサーキットを視察して回り、熱心に取り組んだ[46]
  19. ^ 三菱地所は富士スピードウェイに隣接する土地を以前から所有し、そこで冨士霊園の経営を行っていた[48]。三菱地所は富士スピードウェイの借地内に建設中だった東富士カントリークラブにサーキット以上に関心を持っており、こちらの建設も引き継ぐことになる[48](同ゴルフ場は渡辺武次郎がコース設計に加わって完成し1967年10月に開場)。
  20. ^ 1976年のレースはFISCO、スポーツニッポン新聞社毎日新聞社の共同主催によって開催されたが、開催が赤字に終わったことが問題視され、スポーツニッポン社は1回の開催のみで主催から降りた[53][54]。一方、F1CAと複数年開催の契約を結んでいた手前もあり[53][55][54]、1977年の開催では、日本自動車連盟(JAF)がFISCO、TBS・毎日新聞社と組む形で日本モータースポーツ協会を設立して、主催者を引き受け、開催が継続された[55][54]。JAFは、当初、FISCOと鈴鹿サーキットに単独主催の話を持ち掛けたが、両サーキットに(赤字開催が目に見えているということで)断られ、日本自動車工業会、自動車メーカー各社からの協力も拒否されたため、やむなく自身の主導で主催することにした[55]。このことは、1977年の事故で批判を浴びたJAFが主催者から降りることの伏線となる[54]
  21. ^ 青年会議所が提出した陳情書は無知と偏見に基づいたもので、この時点では、静岡県側も小山町とよく話し合うよう諭すという穏当な対応をした[58]。しかし、1980年になって、三菱地所が御殿場JCの意を汲む方向で動き出したことで、事態は厄介なものへとなっていった[58]。以降、三菱地所は、サーキットを他の事業に転用しようとしているのは静岡県知事からの要請によるものだという(筋の通っていない)説明を繰り返し行うことになる[61]
  22. ^ 当時のFISCOの経営陣は三菱地所出身者で占められていた。この発表により、三菱地所と静岡県知事の思惑が明らかとなり[64]、関係者は危機感を強めることになる。
  23. ^ 漫画家しげの秀一は『バリバリ伝説』(『週刊少年マガジン』)のタイトル頁で、主人公巨摩郡が「FISCOなくなったら困るぜ!みんなで反対しよう!」と呼びかける形で反対運動に賛同した。
  24. ^ この間、7月7日に静岡県知事に新任の斉藤滋与史が就任している。前任の知事で再選(4期目)を目指さず引退した山本敬三郎(在:1974年 - 1986年)が三菱地所寄りだったのに対して、元衆議院議員の斉藤は自動車産業に理解があったとされ[67]、知事に当選した場合に存廃問題にも影響があるだろうということは、斉藤が知事選への立候補を噂されていた時期から言われていた[67]。実際、山本の退任と時を同じくして、サーキット廃止の動きは突如として消滅した[68]
  25. ^ 株式譲渡前が行われる前は、富士スピードウェイの発行済株式の内、80%(352万株)を三菱地所が、20%(88万株)を大成建設が保有していた[71]。2000年の資本参加発表時点で、49%(215万株)がトヨタ自動車、31%(137万株)が三菱地所の保有という形に変化した(この時点で大成建設の持ち分に変化はない)[71]。その後、第三者割当増資後の株式保有割合は、トヨタ自動車63.11%[61]、三菱地所20%、大成建設13%となる(2002年3月時点)。
  26. ^ 経営参画直後から大改修についての意向を示していた[72]
  27. ^ この工事には、およそ200億円が投じられた[73]。工事による閉鎖期間は1年半に及び、この間の富士スピードウェイ社員の雇用問題は、近傍の東富士研究所をはじめとするトヨタ関連企業に出向してもらう等の方策で、トヨタ自動車が一手に引き受けた[73]
  28. ^ レース運営のための設備もF1開催を見据えて品質が引き上げられており、一例として、計時装置は従来は1/2,000秒単位で計測を行っていたが、セイコーの協力により、1/10,000秒単位の計測が可能なシステムに置き換えられている[74]
  29. ^ 富士スピードウェイ社は富士モータースポーツフォレスト社の完全子会社、富士モータースポーツフォレスト社はトヨタ自動車の完全子会社、という関係。
  30. ^ 元々は飛行機の滑走路にも転用できるよう設計された[41]
  31. ^ 全開のまま進入できるか、ストレートエンドで速度を緩める必要があるかは車種(カテゴリー)によって異なっていた[85]
  32. ^ この時点でマネーペニーは建設計画から離脱していたが、マネーペニーは、現地視察後に作成した設計案で、バンク角を最大14度の緩やかなものとすることを提案していた[37]
  33. ^ アスファルトフィニッシャ―は操縦席やエンジンを15度傾けるという改造が施され[41]、タイヤローラーは最も傾斜が大きい30度の横傾斜の場所で自走すること不可能だったため、2台のブルドーザー(アンカー用と牽引用)を使って横方向に輾圧することで解決した[41]
  34. ^ 同期間にその他の区間でも死亡事故が複数発生している[87]
  35. ^ この年の富士GCで、他のレースは録画放送だったが、この最終戦だけ生中継が行われていた[89]
  36. ^ 富士GCは富士スピードウェイとFISCOクラブによる主催。当時、富士GCは富士スピードウェイの経営を支える屋台骨でもあり、収入の6割を占めていた[90]
  37. ^ 富士スピードウェイの建設当時、最高地点のホームストレートは標高およそ581メートル、最低地点は1コーナー終端付近にあり509メートルだった[41]
  38. ^ 30度バンクは、前半に最大バンク角の30度区間があり、出口付近でバンク角は10度ほどに緩やかになる[41]
  39. ^ 具体的には、1974年7月28日開催の富士1000キロから30度バンクの不使用と右回りへの統一が全レースに適用されるようになった[23]
  40. ^ トヨタ買収直後の2001年時点でも、全日本F3000選手権フォーミュラ・ニッポンの経験があるジョニー・ハーバートハインツ=ハラルド・フレンツェンペドロ・デ・ラ・ロサは、改修すべき点を問われて、コンクリートウォールの前にタイヤバリアがあるのみの1コーナーや、ランオフエリアが狭い2コーナーについて苦言を呈している[72]
  41. ^ 改修前の100Rはランオフエリアが狭い上、アウト側(ガードレールの先)は崖になっており、安全面の懸念から改修が求められていた[71]
  42. ^ 正式に中止となったレースではチケットの払い戻しや振り替えなどが行われるが、形式上「レース成立」となったレースはチケットの払い戻しは行われなかったため、来場者などから不満の声が上がったこともある。
  43. ^ 豪雨の為レース距離を500 kmに短縮、スタート時間も大幅に遅らしたが、その後濃霧も発生し赤旗の後、レース中止となった。
  44. ^ 濃霧のため決勝レースが2周で打ち切りとなった。詳細は[98]等を参照。
  45. ^ 豪雨とそれに伴う濃霧のためセーフティーカーランのレッドフラッグでレースらしいレースのないまま途中打ち切り、16周で成立。FIA 世界耐久選手権#日本開催
  46. ^ 1999年に再計測され、4.400 kmに改められた。1999年のル・マン富士1000kmもJSPC時代より4周多い228周で争われた。
  47. ^ 地下通路の途中でパドックへの入口(階段)も設けられているが、イベント開催時はパスコントロールが行われる(有効なパスを持っていないと利用できない)。
  48. ^ トヨタ自動車が経営に参画した2000年の時点で、サーキットホテルの必要性についての認識はあったが[72]、具体的な計画はなかった。
  49. ^ 自家用車で走行が可能だが、大型SUVやワンボックスカーなどのスポーツ走行に適さない車種では、本コースを走行することは認められていない[128]
  50. ^ 東富士カントリークラブは富士スピードウェイの誕生過程で設立された施設だが(→#三菱地所傘下へ)、三菱地所は、富士スピードウェイの経営からは手を引いた後も、ゴルフ場の運営会社を完全子会社として維持しており[129]、東富士カントリークラブには関与を続けている。
  51. ^ a b c d かつては大御神レース村に所在[61]
  52. ^ 以前はヘリポートは西ゲート付近に置かれていたが、現在の場所に移設され、跡地は富士スピードウェイホテルの敷地となった。
  53. ^ 撮影は、1969年5月のフジスピードカップに際して行われた[23](映画は1969年7月公開)。

出典

  1. ^ a b c d e 富士スピードウェイ株式会社 第61期決算公告
  2. ^ a b c d e トヨタ、新会社『富士モータースポーツフォレスト』を設立。富士スピードウェイを完全子会社化”. autosport web. 三栄 (2023年3月28日). 2023年10月29日閲覧。
  3. ^ LIST OF FIA LICENSED CIRCUITS” (英語). 国際自動車連盟 (2023年4月17日). 2023年10月29日閲覧。
  4. ^ a b c d RacingOn No.409、「そして富士は世界最高水準のサーキットへ」(Kojiro Ishii) pp.38–43
  5. ^ a b 富士スピードウェイ(静岡)”. SUPER GT (2023年). 2023年10月29日閲覧。
  6. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第9章 市販車対決」 pp.92–104中のp.94
  7. ^ 富士スピードウェイ50年のあゆみ(FSW 2016)、p.36
  8. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第19章 未来に向けて」 pp.174–181中のp.180
  9. ^ a b c オートスポーツ特別編集 ザ・タイムトンネル・サーキット、「ドン・ニコルズという男」(久保正明) pp.86–87
  10. ^ a b c 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第3章 FISCO誕生」 pp.31–37中のp.31
  11. ^ a b HERITAGE of FUJI Speedway in the 60's(FSW 2016)、p.4
  12. ^ 木下隆之 (2017年2月8日). “レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム 188LAP「数々の名勝負を生んだ30度バンク」”. Toytoa Gazoo Racing. 2023年10月29日閲覧。
  13. ^ はた☆なおゆき、JAFスポーツ編集部 (2020年6月24日). “時代とともに変化したサーキットを辿る「富士スピードウェイ編」前編”. 日本自動車連盟. 2023年10月29日閲覧。
  14. ^ 富士スピードウェイ50年のあゆみ(FSW 2016)、p.9
  15. ^ a b HOME STRAIGHT 特別号 (August 2020)(FSW 2016)、「FISCO完成までの道のり」(車屋四六{青木英夫}) p.6
  16. ^ a b c サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.320
  17. ^ a b c RacingOn Archives Vol.12、「ドン・ニコルズ 熱狂“裏”仕掛け人」(大月裕二郎) pp.182–187 ※初出は『Racing On No.470』 pp.76–81
  18. ^ むかし、ウルフが走った(井出2000)、p.186
  19. ^ a b c d e f g h i j k オートスポーツ 2004年8/12&19合併号(No.978)、「封印された魔の30度バンク 第1回」(黒井尚志) pp.34–37
  20. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.35
  21. ^ a b c d e f g 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第3章 FISCO誕生」 pp.31–37中のp.32
  22. ^ a b c d オートスポーツ特別編集 ザ・タイムトンネル・サーキット、「夏草や、強者どもが夢の跡」(久保正明) pp.116–117
  23. ^ a b c d e f g h RacingOn No.354、「富士スピードウェイ概略年表」(林信次) pp.58–59
  24. ^ HERITAGE of FUJI Speedway in the 60's(FSW 2016)、「1960's History」 p.15
  25. ^ a b オートスポーツ 1964年(No.2)、「レースの王者来日 Welcome Moss!」 pp.72–73
  26. ^ a b c d e HERITAGE of FUJI Speedway in the 60's(FSW 2016)、p.5
  27. ^ a b c d オートスポーツ 1986年2/15号(No.439)、「緊急情報 富士SW閉鎖問題」 p.57
  28. ^ a b c サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.322
  29. ^ a b c d e f オートスポーツ 1986年3/1号(No.440)、「緊急座談会 FISCOが危ない!」 pp.22–27
  30. ^ a b 第三章 1968年11月20日・三人の証言”. Honda F1ルーツ紀行 幻のHondaインディ計画. 本田技研工業. 2013年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月29日閲覧。
  31. ^ a b c d e f g h Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.36
  32. ^ a b c d e f g h Stirling Moss, Shadowman & Tokyo's nightlife: the creation of Fuji Speedway” (英語). Motor Sport Magazine (2020年8月20日). 2023年10月29日閲覧。
  33. ^ a b c d e f 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第3章 FISCO誕生」 pp.31–37中のp.33
  34. ^ a b サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.329
  35. ^ a b c d e 新日本経済 1966年8月号、「三菱に乗取られた富士スピードウェイのウラの裏」 pp.88–91
  36. ^ a b サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.333
  37. ^ a b c d e f g h i j k オートスポーツ 1999年9/2号(No.779)、「レース史・私の報告書 第11回 消え去った、ときめきのスピードウェイ」(塩澤進午) pp.50–53
  38. ^ サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.331
  39. ^ a b サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.323
  40. ^ a b サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.330
  41. ^ a b c d e f g h i j k l 土木工事施工例集 (1)(1967年)、「富士スピードウェイ建設工事の計画と施工」(小林秀夫、内藤政昭) pp.184–193 ※初出は『土木施工 1966年4月号pp.29–38
  42. ^ a b c 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第3章 FISCO誕生」 pp.31–37中のp.34
  43. ^ サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.325
  44. ^ オートスポーツ 1966年 Spring(No.8)、「富士スピードウェイに決まるまで」(久保正明) pp.61–63
  45. ^ サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.332
  46. ^ a b オートスポーツ 1968年11月号(No.41)、「いっしょにやろう」(渡辺武次郎{三菱地所社長・FISCOオーナー}、小西貞夫{東日本開発会社専務}、森下春一{FISCO常務}インタビュー) pp.111–115
  47. ^ 新日本経済 1967年1月号、「日本一の大家主との一時間」(渡辺武次郎インタビュー) pp.80–90中のp.90
  48. ^ a b c サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.334
  49. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第3章 FISCO誕生」 pp.31–37中のp.35
  50. ^ a b 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第3章 FISCO誕生」 pp.31–37中のp.37
  51. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第4章 全国に広がるレース熱」 pp.38–46中のp.45
  52. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第5章 洗礼 第3回日本グランプリ」─「夜明け前」 pp.47–53中のpp.49–50 ※『富士スピードウェイ年鑑』第1集からの引用箇所。
  53. ^ a b F1倶楽部 Vol.7 ニッポンのF1(1994)、「1976年、富士で日本初のF1を開催するため誘致に動く」(荒井良徳) p.56–57
  54. ^ a b c d e RacingOn No.418、「森脇基恭が語るF1初上陸の内幕」 pp.112–115
  55. ^ a b c d e AS+F 2001年5月号、「かつて富士で、F1が走った。」(安細錬太郎) pp.96–97
  56. ^ HERITAGE of FUJI Speedway in the 70's(FSW 2016)、p.5
  57. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第12章 黒船襲来」 pp.126–134中のp.134
  58. ^ a b c 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第14章 廃止騒動」 pp.141–145中のp.141
  59. ^ a b c 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「年表」 pp.218–221
  60. ^ a b c HERITAGE of FUJI Speedway in the 70's(FSW 2016)、「1970's History」 p.19
  61. ^ a b c d e f RacingOn No.354、「FISCOとともに」(Kojiro Ishii) pp.62–65
  62. ^ a b 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第14章 廃止騒動」 pp.141–145中のp.142
  63. ^ a b オートスポーツ 1986年4/15号(No.444)、「FISCOの廃止反対運動に新たなパワー」 p.53
  64. ^ a b 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第14章 廃止騒動」 pp.141–145中のp.143
  65. ^ オートスポーツ 1986年4/15号(No.444)、「「土地はお返しできません」とFISCOの返事」 p.57
  66. ^ a b 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第14章 廃止騒動」 pp.141–145中のp.144
  67. ^ a b オートスポーツ 1986年2/15号(No.439)、「取材記者座談会 激動の1986年、レース界には話題がいっぱい!」 pp.22–30
  68. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第14章 廃止騒動」 pp.141–145中のp.145
  69. ^ a b c 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第19章 未来に向けて」 pp.174–181中のp.176
  70. ^ グラチャンの時代――ヤンキー文化の興隆(1971年)”. Gazoo (2014年9月5日). 2023年10月29日閲覧。
  71. ^ a b c d AS+F 2001年5月号、「2007年、富士でF1が開催される」 pp.90–91
  72. ^ a b c AS+F 2001年5月号、「富士スピードウェイをこう変えたい。」(島田久光{FSW社長}インタビュー) pp.92–95
  73. ^ a b c RacingOn No.409、「加藤裕明社長インタビュー」(聞き手・三好正巳) pp.34–37
  74. ^ a b c d RacingOn No.388、「生まれ変わった富士スピードウエイ」(Fumio Watanabe) pp.50–52
  75. ^ AS+F トヨタ・フォーミュラ号(2001年)、「富士でF1グランプリが見られる! トヨタが描くFISCOの未来予想図!」(島田久光{FSW社長}インタビュー) pp.56–57
  76. ^ 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第19章 未来に向けて」 pp.174–181中のp.181
  77. ^ デイビー日高 (2007年9月9日). “【F1日本GP】富士スピードウェイと鈴鹿サーキットで交互開催に”. Response. 2023年10月29日閲覧。
  78. ^ 2007年F1日本GPの訴訟に判決。FSWに賠償命令”. Auto Sport web. 三栄書房 (2013年1月25日). 2023年10月29日閲覧。
  79. ^ a b 遠藤俊幸 (2008年7月23日). “【F1日本GP】「マイナスからの再出発」…総工費20数億円、施設の改善状況はいかに”. Response. 2023年10月29日閲覧。
  80. ^ 富士スピードウェイ、F1日本GP開催中止を正式発表”. Auto Sport web. 三栄書房 (2009年7月7日). 2023年10月29日閲覧。
  81. ^ a b 富士スピードウェイ加藤社長「F1開催中止は断腸の思い」”. Auto Sport web. 三栄書房 (2009年7月7日). 2023年10月29日閲覧。
  82. ^ 富士スピードウェイで24時間耐久レース 50年ぶりに開催へ”. 富士山経済新聞 (2018年1月4日). 2018年8月6日閲覧。
  83. ^ 【FSWプレスリリース No.P-05】ピレリスーパー耐久シリーズ 2019 2019年 富士SUPER TEC 24時間レース開催を発表!”. Fuji International Speedway Official Site (2018年7月6日). 2018年8月6日閲覧。
  84. ^ SUPER GT サーキット紹介 J SPORTS(2012年11月24日閲覧)。
  85. ^ a b c d e f g h i j RacingOn No.354、「魅惑と恐怖の30度」(長谷見正弘、佐藤正幸 対談) pp.48–53
  86. ^ 土木工事施工例集 (1)(1967年)、「富士スピードウェイの舗装」(秋山次雄) pp.194–199
  87. ^ a b 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第19章 未来に向けて」 pp.174–181中のp.175
  88. ^ オートスポーツ特別編集 ザ・タイムトンネル・サーキット、「ベレG、死のダイビング」(久保正明) pp.34–35
  89. ^ a b c d e オートスポーツ 2004年9/9号(No.981)、「封印された魔の30度バンク 第4回」(黒井尚志) pp.36–39
  90. ^ オートスポーツ 2004年9/16号(No.982)、「封印された魔の30度バンク 第5回」(黒井尚志) pp.38–41
  91. ^ 『朝日新聞』昭和49年(1974年)6月3日・朝刊 13版 19面 「レーサー2人焼死 時速200キロ、一瞬の惨事」
  92. ^ a b c d e f g h i j k 富士スピードウェイ 最初の40年(林2005)、「第19章 未来に向けて」 pp.174–181中のp.174
  93. ^ a b c d e f g h i RacingOn No.354、「“新生”FUJIを描く男」(ヘルマン・ティルケ、島田久光{FSW社社長}インタビュー) pp.66–69
  94. ^ a b c RacingOn No.409、「ヘルマン・ティルケ インタビュー」(聞き手・ルイス・バスコンセロス) pp.20–27
  95. ^ RacingOn No.409、「デザインド・バイ・ティルケが生み出される場所」(小倉茂徳) pp.14–19
  96. ^ まるで“新コーナー”!? ブランパンGTアジア富士戦はショートカットコースで開催へ”. Auto Sport web. 三栄書房 (2018年7月20日). 2023年10月29日閲覧。
  97. ^ a b 富士スピードウェイが4社とネーミングライツ契約。1コーナー、100Rが名称変更”. Auto Sport web. 三栄書房 (2016年4月1日). 2023年10月29日閲覧。
  98. ^ 2006 Formula NIPPON 第1戦 富士”. 日本サン石油. 2016年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月31日閲覧。
  99. ^ a b c d e 富士スピードウェイ50年のあゆみ(FSW 2016)、「富士スピードウェイコースレコード」(2015年末日時点) p.123
  100. ^ コースレコード -現在開催分-”. FUJI INTERNATIONAL SPEEDWEY OFFICIAL SITE. 2022年9月28日閲覧。
  101. ^ スペシャルステージトライアル”. 富士スピードウェイ (2022年). 2023年10月29日閲覧。
  102. ^ 富士スピードウェイの走り方
  103. ^ 86RACERS
  104. ^ レンタルカート
  105. ^ a b 施設紹介「ルーム」
  106. ^ 施設紹介お食事処ガイド
  107. ^ JAFモータースポーツ富士スピードウェイ
  108. ^ HERITAGE of FUJI Speedway in the 90's(FSW 2016)、「1990's History」 p.19
  109. ^ 富士スピードウェイパドックSS 東京ガレーヂ(株)”. ENEOS. 2023年12月21日閲覧。
  110. ^ 施設紹介レストラン
  111. ^ トヨタ交通安全センター モビリタ
  112. ^ HERITAGE of FUJI Speedway in the 00's+(FSW 2017)、p.4
  113. ^ a b c 富士モータースポーツフォレスト、「ウェルカムセンター」をグランドオープン! 併せて富士スピードウェイの西ゲートを常時オープン化へ【FSWインフォメーション No.I-27】 ”. 富士スピードウェイ (2023年5月24日). 2023年10月29日閲覧。
  114. ^ a b 安田剛 (2022年7月8日). “富士スピードウェイ併設ホテルの詳細を解説。宿泊予約もスタート。日本初進出「アンバウンド コレクション by Hyatt」”. トラベルWatch. インプレス. 2022年11月26日閲覧。
  115. ^ a b c d RacingOn No.354、「安全との戦い×サービスへの計らい」 pp.60–61
  116. ^ 富士スピードウェイ西ゲートSS 東京ガレーヂ(株)”. ENEOS. 2023年12月21日閲覧。
  117. ^ a b c d e 富士スピードウェイ50年のあゆみ(FSW 2016)、p.11
  118. ^ a b 自動車工業 1979年6月号(第155号)、「見る楽しみ」(久保正明) pp.11–15
  119. ^ 富士ジュラシックウェイ
  120. ^ 観る 富士スピードウェイ
  121. ^ 富士スピードウェイから始めるエリア放送の可能性 (PDF) 東通(総務省ホワイトスペース推進会議第3回会合資料3-2)2011年2月4日
  122. ^ 「ホワイトスペース特区」 の決定 総務省報道資料 平成23年4月8日(国立国会図書館のアーカイブ:2011年4月11日収集)
  123. ^ レース観戦のスタイルが変わる? 富士のワンセグ放送を体験してみた Car Watch 2011年12月16日
  124. ^ 富士スピードウェイ内でワンセグ・フルセグ放送などの実験試験局を免許 東海総合通信局 報道資料 平成24年4月23日(国立国会図書館のアーカイブ:2014年1月7日収集)
  125. ^ サーキット集客効果向上と周辺地域への消費活動促進を目的としたエリア放送実施報告 (PDF) 東通(総務省ホワイトスペース推進会議第7回会合資料7-1-3)2013年5月14日
  126. ^ a b c d 料金のご案内”. 富士スピードウェイ (2023年). 2023年11月5日閲覧。
  127. ^ チェカパスとは”. 富士スピードウェイ (2023年). 2023年11月5日閲覧。
  128. ^ a b FISCOライセンス - 新規取得”. 富士スピードウェイ (2023年). 2023年11月5日閲覧。
  129. ^ 会社案内”. 東富士グリーン株式会社. 2023年10月29日閲覧。
  130. ^ オートスポーツ 1981年4/1号(No.318)、「富士大御神レース村」 pp.118–122
  131. ^ a b 「(仮称)小山スマートIC地区協議会」
  132. ^ 場内駐車場・シャトルバス経路図
  133. ^ a b c アクセス 車・バイクをご利用の方”. 富士スピードウェイ. 2022年11月20日閲覧。
  134. ^ E1A 新東名高速道路 小山スマートインターチェンジ(仮称)開通予定時期の見直しについて”. ニュースリリース. 中日本高速道路. 2023年3月22日閲覧。
  135. ^ a b アクセス 電車バスをご利用の方
  136. ^ 料金のご案内
  137. ^ 東京ヘリポートまで30分、中部国際空港まで50分程度である。朝日航洋
  138. ^ 小山町観光情報
  139. ^ 三井住友VISA太平洋マスターズ 開催場所:太平洋クラブ 御殿場コース
  140. ^ ボリューム満点の豪華な内容!詳細が明らかとなった『GT4“プロローグ”版』”. 電撃オンライン. KADOKAWA (2003年10月22日). 2023年10月29日閲覧。
  141. ^ F / F SPORT”. Lexus. トヨタ自動車. 2023年11月5日閲覧。



富士スピードウェイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:52 UTC 版)

サーキットの狼」の記事における「富士スピードウェイ」の解説

風吹は飛鳥薦めで富士スピードウェイのスポーツ走行体験する。そこには早瀬ポルシェの姿があった。飛鳥早瀬の父の会社である早瀬電機からレーススポンサー受けており、早瀬ドライビングテクニック教えているという間柄であった。風吹は首都高バトルでの早瀬テクニック飛鳥レッスンで培われたものと知る。 そしてミキ早瀬見学来ていた。ミキ早瀬恋人であると思い込む風吹。そこに突然現れ軟派金髪ハーフ隼人ピーターソンミキ声を掛けたピーターソンミキとのデート約束賭けて風吹、早瀬との勝負愛車トヨタ2000GT挑む長い直線がある富士スピードウェイのコース上では、風吹のロータスは他の二台に比べパワー劣り圧倒的に不利。しかし早瀬ポルシェとのバトル熱くなったピーターソンは風吹にスリップストリーム許し、風吹はゴール直前スリップ抜け出し一気勝負に出る。ゴールラインで3台は横一線並び勝負つかず。その後ホームストレート上で行うゼロヨン競争再度勝負し初め勝利した風吹はミキとのデートを楽しむ。そこで風吹はミキ早瀬の妹であることを知る。

※この「富士スピードウェイ」の解説は、「サーキットの狼」の解説の一部です。
「富士スピードウェイ」を含む「サーキットの狼」の記事については、「サーキットの狼」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「富士スピードウェイ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「富士スピードウェイ」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「富士スピードウェイ」の関連用語

富士スピードウェイのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



富士スピードウェイのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
三栄書房三栄書房
Copyright c San-eishobo Publishing Co.,Ltd.All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの富士スピードウェイ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのサーキットの狼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS