ドン・ニコルズとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ドン・ニコルズの意味・解説 

ドン・ニコルズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 03:11 UTC 版)

ドナルド・ロバート・ニコルズ(Donald Robert Nichols[2]1924年11月23日[3][1] - 2017年8月21日[3])、通称ドン・ニコルズ(Don Nichols)は、アメリカ合衆国出身の自動車実業家であり、レーシングチームのシャドウ・レーシング・カーズの創設者・経営者として知られる。


注釈

  1. ^ 1927年5月に、ミズーリ州を含む米国中西部は竜巻の頻発という災害に見舞われ(1927年5月のアメリカ合衆国の竜巻英語版)、大きな被害をもたらしたその災害の犠牲者の一人となった[1]。母親は幼いニコルズとタクシーに乗っていた際に竜巻に襲われ、その事故で、ニコルズは負傷しつつも助かったが、母親は死去した[1]
  2. ^ ノルマンディー上陸作戦で、第一次降下を行ったニコルズは最初に撃たれた一人となり、医療テントに後送され、その翌日に医療テントもドイツ軍の砲撃を受け、その時にも負傷したという[6]。その後、マーケット・ガーデン作戦に向けてオランダ方面に飛んだため、フランスでは戦闘をした覚えがないという[6]
  3. ^ 大尉から少佐に昇進したのはある任務によるもので、ニコルズは、その任務の事はよく覚えているが何の任務だったかは言えないと述べている[11]
  4. ^ 米国だけでなく、ヨーロッパのグランプリにも出向き、F1パドックでも買い付けを行い、自動車メーカーだけではなく、日本のタイヤメーカーにも販売した[12]。日本のメーカーの多くは、競技用タイヤ、特にグランプリ用のタイヤに高い関心を持っていたが、当時はそれらを入手するルートを持っておらず(既にF1に参戦していた本田技研工業は例外)、そこにニコルズの商機があった[12]
  5. ^ プリンス自動車は、ホモロゲーション取得用にスカイラインGTを100台製造し、そのエンジン1基にウェーバー製キャブレターを3個使用した[13][W 1](1965年に発売された市販仕様のいわゆる「GT-B」にもウェーバー製キャブレターを3連で使用)。このキャブレターは1個で10数万円するもので、当時の一般的な車両価格を考えると、非常に高価だった[13]ホンダ・S600で50万円台[13]、スカイラインGTの市販価格は86万円[W 1])。そもそも資金があれば入手できるような物でもなく、生沢徹小林彰太郎浅岡重輝といった当時の自動車関係者たちは、プリンス自動車がこのキャブレターを搭載したことに非常に驚いたということを述べている[13]
  6. ^ 一般的には「全米自動車競争協会」という訳語が当てられるが、正式な組織名は「National Association for Stock Car Auto Racing, LLC(有限責任会社)」で、会社組織なので、以下「NASCAR社」と記載。
  7. ^ マネーペニーは1964年7月、モスは翌8月に来日。
  8. ^ クラークは2月の時点でオーストラリアにおり、そのことを知ったニコルズがクラークに帰路に日本に寄るよう依頼してはどうかとFISCOに提案した[15]。FISCOとしても実現するなら望外の提案であり[15]、ニコルズが日本から電話でクラークと交渉を行ったところ、あっさりと快諾が得られたという[16](ただしクラークはイギリスに一度帰国してから日本を訪れた[15])。来日したクラークにはホテルオークラの部屋が用意されていたが、宿の近所にあるニコルズの部屋(麻布ハイツ)に泊まったという[16]
  9. ^ ニコルズは日産にも協力し、R381に搭載するエンジンを探していた同社に、米国のエンジンチューナーであるムーン社を紹介し、そのシボレーV8エンジンを手配した[19]
  10. ^ 富士スピードウェイ時代にニコルズと関わった河野洋平は、ニコルズの名前は忘れたが、「ヒゲずらのアメリカ人」のことは覚えていた[27]
  11. ^ 写真提供や、来日したレース関係者へのインタビュアーとしてもしばしば協力している[29][30]。アメリカ帰国後も、ニコルズの寄稿により、シャドウの記事は同誌に頻繁に掲載されていた。

出典

  1. ^ a b c d e Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.15
  2. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.14
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae RacingOn Archives Vol.12、「ドン・ニコルズ 熱狂“裏”仕掛け人」(大月裕二郎) pp.182–187 ※初出は『Racing On No.470』 pp.76–81
  4. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.16
  5. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.17
  6. ^ a b c d e f Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.18
  7. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.19
  8. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.21
  9. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.23
  10. ^ a b c d e f Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.26
  11. ^ a b c d e Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.27
  12. ^ a b c d Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.32
  13. ^ a b c d 別冊CG 日本グランプリ・レース 最初の10年、「第1回日本グランプリ参加者座談会」(浅岡重輝、生沢徹、塩崎定夫、杉江博愛、小林彰太郎、千葉允) pp.157–164中のp.162
  14. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.37
  15. ^ a b c d オートスポーツ特別編集 ザ・タイムトンネル・サーキット、「ドン・ニコルズという男」(久保正明) pp.86–87
  16. ^ a b オートスポーツ 1966年5月号(No.10)、「来日した世界チャンピオン ジム・クラークの2日間」(久保正明) pp.94–98
  17. ^ 日本の名レース百選 Volume 009 '67 第4回日本GP、「レースレポート」 pp.38–41中のp.41
  18. ^ オートスポーツ 1967年6月号(No.23)、「一匹オオカミとファクトリーの激闘に湧いた 日本グランプリ・レース」(久保正明) pp.17–26
  19. ^ 激闘'60年代の日本グランプリ(桂木1995)、p.86
  20. ^ オートスポーツ 1969年7月号(No.50)、「宇宙時代のニュー・グループ7」 pp.42–45
  21. ^ オートスポーツ 1969年8月号(No.51)、「“AVS・シャドー”の秘密デザイン」(ドン・ニコルズ) pp.94–95
  22. ^ オートスポーツ 1972年9/15号(No.101)、「UOP、F-1へ挑戦か?」 p.65
  23. ^ オートスポーツ 1973年1/15号(No.109)、「シャドウF-1、デビューま近か」 p.106
  24. ^ オートスポーツ 1973年2/1号(No.110)、「シャドウF-1の開発順調」(ダグ・ナイ) pp.58–59
  25. ^ オートスポーツ 1973年2/15号(No.111)、「バスタブ型ツインチューブ・モノコックを持つシャドウF-1」 pp.82–83
  26. ^ a b c オートスポーツ 1999年2/15号(No.765)、「レース史・私の報告書 第3回 光明は、実存か?」(塩澤進午) pp.120–123
  27. ^ サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.327
  28. ^ a b 自動車工業 1979年6月号(第155号)、「見る楽しみ」(久保正明) pp.11–15
  29. ^ オートスポーツ 1965年 Autumn(No.6)、「アメリカ・スポーツ界の話題」(Don Nichols) pp.45–93
  30. ^ オートスポーツ 1965年 Winter(No.7)、「ブラバム GTカー・レースに進出か?」(ジャック・ブラバム インタビュー、聞き手・Don Nichols、久保正明) pp.92–93
  31. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.28
  32. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.39
  1. ^ a b Gazoo編集部、webCG (2015年2月13日). “独創のGT-R(1969年)”. GAZOO.com. 2023年3月26日閲覧。
  2. ^ a b Stirling Moss, Shadowman & Tokyo's nightlife: the creation of Fuji Speedway” (英語). Motor Sport Magazine (2020年8月20日). 2023年3月21日閲覧。
  3. ^ David Malsher (2017年8月23日). “Obituary: Shadow team founder Don Nichols 1924-2017” (英語). Autosport.com. Autosport. 2023年3月26日閲覧。
  4. ^ CIAスパイ説、米自動車産業の対日工作員説など謎多きドン・ニコルズの功績と日本モーター史の深い縁を探る【新書紹介】”. Cars Meet Web. ネコ・パブリッシング (2021年1月14日). 2023年3月21日閲覧。


「ドン・ニコルズ」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ドン・ニコルズのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドン・ニコルズ」の関連用語

ドン・ニコルズのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドン・ニコルズのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドン・ニコルズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS